「読書」

三月

第1話





 ——雪がと降っている。


 つまりたったいま、現時点において当地は冬なのではないのかと予想されるだろう。またはそのような予想を期待しているものである。なぜなら読者が北半球の住人であるからなのだが、しかしこのように読者の素性を決めつけに掛かったことがどのように正当化されるかについて、いくつかの説が挙げられる。まず①日本語話者の大部分が地球の、それも北半球に現住するのではないかという統計的分析、②読者が物語をどのように捉え、切って貼っては捨てても良いように、筆者もまた読者を如何ようにも扱うことができるが、それは相互的で共営的な関係であるからではなく、たんに自立した二個人間において成り立つ対峙的関係であるという点。つまりはたとえ読者というものが未確定かつ不詳の存在であるとはいえ、ある一定程度の予見をもって挑まなければならないし、生物としての生存戦略的にその様であるべきであるという説、さらに③このあと登場する「ミスター・クラウス」(「クラウス氏」との表記揺れアリ)は聖ニコラウスつまりサンタクロースとの声紋学的関連を有するだけでなく、作劇の意味上においてもその暗喩を果たすからである。そして奇妙なことに、地球ののうちグローバリズムを受容した人々の間に親しまれる小アジアの聖者ニコラウスの命日にちなんだ文化習合的(そして商業的)祭日は、ちょうど北半球時間における冬季に相当するのである。


 「しんしんと」とはいうが、その状態はいったいどのようなものなのだろう? という疑念が文言上起こりうる。このとき、まず当該語のような擬態語オノマトペに一律の意味を設けるのは可能であるのかという議論が先行する。この問いはすなわち「雪がしんしんと降っている」という表現が「雪という自然現象が持続的・連続的におこりかつその様子が一般通常人には緘黙や閑静の状況として感知される」と読み取ることが誰にでも出来るわけではなく、またそのように読み取れる時点でひとつ共通認識、背景世界を共有しているというのである。たとえば雪がしんしんと降るという文から、いやしかし本当は雪など降っていないのかもしれないと疑ってかかるのはそれほど難しくない。なぜなら、主体を「雪」として「しんしんと降る」という叙述における成否(真偽)が論じられる定式・命題上の判断であるからだ。ではこの内容を、「国道沿いにずっと向かった先、T市の境目にある陸橋の手前に看板が立ってあった例の宮脇書店だけど、あれはとうとう潰れたそうだよ」、なんていう情報を読者に伝えている一文だと解することは難しいというべきではないか。


  「難しい」ということ。これは単なる事実ではなく、誰かの価値判断を取り込んだ表現である。つまり「それって本当に難しいのか?」とひとりが言えば、そうでなくなるかもしれない。しかしその一人くらいが強弁を張って難しくないといってしまえば、そうでなくなるのか。すると私たちは何を難しいということができるだろうか。あるいは数の問題だろうか、ではどの程度の反対署名が必要だろうか。十、百、千に万? いや実際の数にはほとんど意味がないだろう。実際に集めた署名がはたして価値判断を左右しうるかどうかこそが重要である。たとえ一人の署名でも、価値判断を左右すればそれは効果的だったと言わざる得ないのでないか。

 。ここまでの話を総合すれば、個々人の価値判断が分かれることを前提としているように思われる。そこで「難しい」というのは単なる意思表明であって、同様の評価でも他者の下したソレとは全く別であり比較可能性は存在しないと考えるのが、「個々の価値基準は一致しない」という原理を厳格に適用した結果である。しかし「難しい」という表現のもつイメージ自体は一致していると解するのであるから(「難しい」という状況はある種定義されているというべきであり、たとえ定義として了解されておらず、具体的事例にたいする個別的・アドホックな判断としても、その集積として帰納的に一般化しうる状況であると解する)、すべて個々の判断に委ねられるのではない。


 ここまでを踏まえて、ある者はこう問うた。「雪がしんしんと降っている」なんて書いた奴は、一体何を考えていたんだ、と。雪は降っていて、それが積もっていて、その様子が止むという予定が今の所立っていないが、それを特段気にする風でもない。私の関心といえば、国道沿いのあの書店は十数年前住み始めた頃からあって、道沿いで一際大きな駐車場には隣に立つ飲食店に通う客が乗り付けた車が数台留まっているだけという状況の中、なぜ今年まで経営できたのか、と不思議に思うべきか。近頃の出版業界の苦境に思いを馳せながら自分がその店で一回も金を落としていないことを自省しようともしない。いつか定期購読でもやってみようかと思ったこともあったが、そうしていればあの店は潰れなかったという確証があるのでもない。物事に個人が干渉できる範囲というものの小ささ。これは驚くべきものであり、なにか結果に寄与できると思えるような予見、また「難しい」と思うような自然な評価・感想でさえ、外部へ作用したり、誰かに影響を及ぼすということはない。所詮わが身の外に関して私は何もできず、しかしだからこそ内心というものの自由さ、個人という概念が存在できるのかもしれない。そうであるなら、自由な意思をもって外部へ干渉しようとするのは、個人という枠を逸脱しその持続性を侵すという点で、有害ですらある。


 雪が降ったと誰かに伝えようとすれば、もはや自由でいることは不可能になる。事実を不安定にし、自身の自由を損ね、相手の機嫌を破壊する。「ペンは剣よりも強し」というのは正しくその通りであるが、真の問題は剣を持つ人間自身にあり、誰がペンを握るかである。

 

 ——みよ、彼の者の手にはがある。


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「読書」 三月 @sanngatu

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