第2話:その少女、冒険者につき

 草の道を歩き続けた俺は、地図も方角もわからぬまま、なだらかな丘の上にたどり着いていた。

 空は、溶けた金のようなオレンジに染まりはじめている。

 美しいけれど、それは「夜」という死の世界が迫っている合図でもあった。


「……そろそろ、どっか泊まれる場所探さないと、マジで詰むな」


『うん、日没すぎると魔物が活性化するから、下手に動かないほうがいい。……あ、でも安心して。ほら、あそこ』


 フィノがフワリと飛び、丘の先を指す。

 見れば、数十メートルほど下の街道沿いに、小さな灯りが見えた。


「人……! やっとまともな人間だ!」


『ふふっ、これぞ異世界名物“街道での野営”ってやつだね。冒険者や商人が街と街の間で泊まるために、火を焚くの。とりあえず話しかけてみよっか?』


「……うん」


 緊張で喉が渇く。

 コンビニの店員に「温めますか」と聞かれるだけで身構えていた俺に、見知らぬ異世界人に声をかけるなんてハードルが高すぎる。

 でも、ここで引き返してたら、一生この世界で野垂れ死ぬだけだ。


 深呼吸して──俺は、彼らの元へと歩を進めた。


 パチ、パチ……と爆ぜる音。

 篝火(かがりび)のそばにいたのは、一人だった。


 ポニーテールの少女。

 年の頃は俺と同じくらいか。冒険者らしい革鎧をまとい、細身の剣を脇に置いている。

 赤く焼けた空をぼんやり見上げていた彼女は、俺の足音に気づくと、ゆっくりとこちらを振り向いた。


 その瞳は、透き通るようなミントグリーンだった。


「……あれ、旅人さん?」


「あっ、えっと……その、すみません。日が暮れそうで……、その、少しだけ火を……」


 しどろもどろになる俺に対し、彼女は拍子抜けするほど柔らかく微笑んだ。


「もちろん。よかったら、こっち来て。夜風、冷えるでしょ?」


 彼女はまるで旧知の友人にでも話しかけるようなトーンで、何の警戒もなく隣の丸太をポンポンと叩いた。


(あれ……? 普通、初対面の男に、こんなに……)


 ここは魔物が出る街道だ。

 いきなり現れた男なんて、まずは疑うのが普通じゃないのか?

 違和感はあった。彼女の手は無意識に剣の柄に近い位置にあるし、荷物もすぐに持てるように整えられている。冒険者としての「形」は崩していない。


 でも、それよりも何よりも──

 彼女のその屈託のない笑顔に、俺の強張っていた心が、湯に溶けるように解けていくのを感じた。


『ん~、これスキル《無害》の効果、もう出てるねぇ』


 俺の耳元で、フィノがささやく。


(……やっぱり、あれも?)


『うん。普通は初対面で焚き火分けてくれたとしても、目は笑ってても体は緊張してるはず。でも彼女、完全にリラックスしてるでしょ?』


 確かに。彼女は無防備に足を投げ出し、俺に背中すら見せている。


『あれは“好意”じゃなくて、“警戒できない”って状態だよ。君の存在が、彼女の生存本能を刺激しないの』


(……でも、ありがたいよ。誰にも拒絶されないって、こういう感覚なんだな……)


 前の世界では、俺はただの背景だった。

 でも今は、焚き火の温かさを共有できる「誰か」として、ここに座れている。


『そう。でも忘れないで。“好かれてるわけじゃない”ってこと。あくまで“嫌われない”だけ』


(……うん)


 だけど、それでも──今は、これでいいと思った。


「そういえば、まだ名前聞いてなかったね。私はエルナ。エルナ・クラリッサ。冒険者やってるんだ」


 焼き上がった干し肉を差し出しながら、彼女が言った。


「……俺は、ユウ。日辻 悠」


「ユウ……ふふ、変わった響き。でも、呼びやすいかも」


 篝火の火が、揺れる。

 彼女の目元が、オレンジ色に染まっていた。


◇ ◇ ◇


 パチ……パチ……

 焚き火の赤が、夜の暗さをかろうじて押し返していた。


 隣の丸太には、冒険者の少女――エルナが座っている。

 マントの裾を直す仕草すら絵になるほど、どこか凛としていた。


「ユウって、不思議な人だね。旅人なのに、魔物避けも持ってないし、地図もないなんて」


「……はは、色々あってさ……」


 思わず苦笑いが漏れる。

 フィノは遠巻きに光を漂わせながら、焚き火の煙に紛れて遊んでいる。他人には見えないらしい。


「でも、今日は安心していいよ。この辺りは街道沿いだから、魔物も滅多に出ないし……それに、私がついてるから」


 彼女は胸を張って、自分の剣を示した。

 その仕草が頼もしくて、同時に少しだけ危うく見えたのは、気のせいだっただろうか。


「……エルナ、大丈夫か?」


「え? うん、平気平気。……ちょっとね、昼に無理してさ。小型の魔物の群れを片付けたんだけど……魔力の残りが、少なくなっちゃってるだけ」


 笑いながら言う。


『うんうん、いいねぇ、異世界ボーイミーツガールだねぇ~』


(お前は黙ってろ)


 心の中でフィノに毒づいた、その時だった。


 ふっ、と。

 頬をなでていた風が、止んだ。


 同時に――空気が、鉛のように重く変わる。


 エルナの表情が一瞬で引き締まった。


「……ユウ。焚き火を離れて」


「え?」


「いいから。後ろに下がってて」


 彼女は鋭い動作で立ち上がり、剣を抜く。

 その切っ先が、闇の奥を向いた。


『……おーっと、来ちゃったねぇ』


(な、何が……?)


 耳を澄ます――

 草を裂くような、微かな音。


 月明かりの下。黒い草むらが、ゆらりと動いた。


「……来る」


 次の瞬間、焚き火の明かりをかすめて、何かが低く唸った。


「……っ!」


 毛並みの荒い、獣の姿が浮かび上がる。

 狼よりも一回り大きく、刃物のように発達した爪を持つ四足獣。

 獲物を睨む眼が、らんらんと赤く光っていた。


『スラッシュビーストだね。夜行性で、一撃が重い……単体でも厄介だよ』


「っ……エルナ、一人でやれるのか……?」


 エルナの瞳が、焚き火の光を映して揺れる。

 剣を構える肩が、わずかに震えているのが見えた。


「……やるしかないでしょ。それに……」


 彼女はちらりと俺を見て、無理やりに笑った。


「私がついてるって、言ったばっかりだしね!」


 ズ……ッ


 獣がにじり寄る。草の上を滑るような足音が、耳を刺す。


(俺には……何もできない……)


 手には武器もない。技も知らない。立っているだけで、足が震えている。これが、ファンタジーじゃない「本物の魔物」の圧力。


 ――ギャアアッ!


 咆哮が、草原の夜気を切り裂いた。


「来るッ!」


 焚き火の周囲を風がうなる。

 エルナが剣を閃かせ、獣と正面からぶつかり合う――


 金属音と、獣の唸り声。

 しかし、俺の足は一歩も動けなかった。ただ、見ていることしかできない。


 エルナの剣が、青白い軌跡を描いて獣の肩を浅く裂いた。

 だが、獣は怯まない。逆に血の匂いに興奮したように、動きを加速させる。


「くっ……!」


 もう一度踏み込もうとした彼女の動きが、ガクリと鈍る。

 荒い息。足元のふらつき。――限界が近い?


『……マズいね。あの子、魔力切れだ。昼間に使いすぎたのかな』


「……じゃあ……どうすれば……」


『どうするの? 君は武器も力もない――』


(そんなの、わかってる……!)


 それでも――

 目の前で必死に戦う彼女を、見捨てるなんて――できない。

 今日、初めて俺を「認識」してくれた人を、失いたくない。


 獣が大きく跳ねた。反応が遅れたエルナの肩を、鋭い爪が深々と掠める。


「っ……ああっ……!」


 エルナが体勢を崩し、倒れる――その無防備な首元へ、獣が牙を剥いた。


「……っ、うおおおおおっ!!」


 思考よりも先に、体が動いていた。

 俺は焚き火のそばにあった薪を掴み、叫び声を上げて二人の間に割り込んだ。


「ユウッ!? 馬鹿ッ、やめ――!」


 獣の真っ赤な目と、俺の目が合う。

 鼻先まで数センチ。食い殺される――!


 俺は死を覚悟して目を瞑った。


 次の瞬間――


 ……何も、起きない。


 牙が俺の喉を噛み砕くことも、爪が腹を裂くこともなかった。

 恐る恐る目を開ける。


 獣は、俺の存在を“見ていない”。


 いや、視界には入ってるはずなのに──俺を危険として扱っていない。

 獣は俺を避けるでもなく、敵として構えるでもなく。

 ただ、俺の向こう──倒れたエルナへ視線を固定したまま、もう一度跳ぼうとした。


「……っ、させるか!」


 俺は薪を突き出した。

 炎に炙られた木が、獣の鼻先をかすめる。


 獣は熱に反射的に首を引いた。苛立ったように唸る。

 でも、その怒りは俺に向かない。向けられない。

 まるで──道に転がる燃えた枝に邪魔された、みたいな反応だ。


(俺は……障害物扱い……?)


 その瞬間、理解した。

 《人畜無害》は“無敵”じゃない。

 だけど、相手の脳内から「俺に対する危険評価」を丸ごと消している。

 だから獣は、俺を排除する発想に辿り着けない。

 噛む理由が、そもそも考えられない。


「……今なら……やれる……!」


 俺は薪を投げ捨て、足元の太い枝を掴んだ。

 獣が再びエルナへ跳ぼうと身体を沈めた、その頭上へ──


 振り下ろす。


 ドン、と鈍い衝撃が腕に返ってきた。

 獣は痛みで体を揺らし、思わず数歩下がる。


 だが、俺を見ない。睨まない。敵として認識しない。

 痛い。邪魔だ。鬱陶しい。

 その程度の処理で、獣の中の俺は終わっている。


「ユウ……!? 何を──!」


「離れろ! エルナから……離れろ!」


 枝が折れた。

 折れた先端を投げ捨て、俺は獣の背にしがみついた。


 獣は暴れる。

 必死に振り落とそうとする。それでも“俺を殺す”じゃない。

 ただ、背中の異物を落とす動き。落馬させる、みたいな動き。


(落ちたら終わる……!)


 俺は歯を食いしばって、腕に力を込める。

 近くに転がっていた拳大の石を掴み、獣の頭へ──


 何度も。

 何度も。


 音がする。手首が痺れる。

 目の前が狭くなる。呼吸が乱れる。


 獣の動きが、やがて鈍っていく。

 最後に短い呻き声を漏らして、地面に崩れ落ちた。


「……はぁ……はぁ……」


 倒れた獣の上で、俺はただ息を吐く。

 止まれなかった。止まったら、全部が遅れてやってくる気がして。


『……すごいね……。これが《人畜無害》の本質……』


 フィノの声にも、戦慄が混じっていた。


『“敵視されない”って、こういうことなんだ。相手は君を“危険”として認識できない。だから排除の選択肢が生まれない。……君が殺す、その瞬間まで』


 俺の手のひらに、べっとりと血がついていた。

 それは俺がこの世界で初めて奪った命の、温度だった。


 獣はもう動かない。

 それでも心臓だけが、狂ったみたいに暴れていた。


◇ ◇ ◇


 ……静かだった。


 焚き火の赤は弱くなり、夜気に揺れる火の粉が頼りなく空へ昇っていく。


 スラッシュビーストの死骸のそばに、俺は座り込んでいた。

 足元には砕けた枝と、血のついた石。

 震える指先で、それを何度も見つめてしまう。

 手が洗いたい。でも、水がない。


 エルナは、少し離れたところで肩を押さえていた。

 初級魔法で止血したのか、血はすでに滲んでいない。

 それでも、あの強い瞳は、どこか怯えたように揺れていた。


『……どう? 生きてる実感、ある?』


 焚き火の奥で、フィノがふわりと浮いていた。

 月明かりを背に、光球の輪郭が揺れている。


「……これが……俺が殺した命か……」


 小さく呟いた声が、夜気に溶ける。

 ゲームみたいに消えたりしない。生々しい死体がそこにある。


『君がやらなきゃ、彼女が死んでたよ』


「わかってる。……でも……」


 頭の奥がぐらりとする。

 あんなふうに、一方的に、抵抗もされずに生き物を殺すなんて。

 あれは戦いじゃなかった。


 エルナが、そっとこちらに近づいてきた。

 砂利を踏む音に、俺はビクリと肩を震わせる。


 彼女の瞳が、焚き火に照らされて揺れる。

 俺を恐れているだろうか。あんな異常な殺し方をした俺を。


「……ユウ、ありがとう。……本当に、ありがとう」


 かけられたのは、まっすぐな感謝だった。

 かすれた声。その一言で――強張っていた胸の奥が、ふっとほどけた。


「……俺がいなかったら……エルナは……」


『そう。君の《人畜無害》は、敵には攻撃されない』


「……ズルい力だな……」


『うん。でも孤独でもある。戦場のルールから、君だけ外れてるんだよ。君だけが安全圏から、一方的に命を奪える』


 フィノの言葉が、冷たく心に刺さった。

 自分だけ“被害を受けない”。

 だから誰も、俺を“戦士”としては見ないだろう。

 俺は英雄にはなれない。ただの「透明な処刑人」だ。


 それでも――


「……でも、助けられた。……俺でも……」


 焚き火の火が、小さくパチリと弾ける。

 東の空が、わずかに青みを帯びてきた。


 誰かに必要とされたこと。

 自分の存在が、誰かの命を繋ぎ止めたこと。

 それだけは、確かな事実だった。


「……これが……俺のスキルか……」


『そうだよ。君だけの力。……どう使うかは、君が決めるんだ』


 朝が、もうすぐ来る。


 血に濡れた手を握りしめて、俺は心の奥で、何かを決めた。

 このふざけた、残酷で、強力なスキルと共に、この世界で生きていくことを。

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