零落する書標の海を泳ぐ

不思議乃九

零落する書標の海を泳ぐ

一、湿った記憶の集積所


 街の喧騒から、数枚の薄皮を剥いだような場所に、その古本屋はあった。

 自動ドアはなく、引き戸を引くと、カウベルが「……コト」と、やる気のない音を立てる。店主は死んだように背中を丸め、積まれた雑誌の向こう側に同化していた。


 ここは、本の墓場ではない。

 かつて誰かの情熱や絶望が結晶化し、それが時代の引力に耐えきれず剥落し、ここへと漂着したのだ。私は今日、物語を買いに来たのではない。ここにある無数の「言葉の断片」を脳内に流し込み、パンパンに膨らませるという、究極に無駄で、究極に知的な暇つぶしをしに来たのだ。


 棚の前に立つ。

 視界に飛び込んでくるのは、背表紙の群れだった。


 そこには、かつて「真実」として世に放たれた言葉たちが、色褪せたフォントで整列している。


『孤高の影を追って』

『黄昏の物理学』

『昨日が来なかった理由』


 私は一冊も手に取らない。ただ、その背表紙の文字列だけを凝視する。

 それは、この世界に存在したあらゆる記憶の断片――アカシックレコードにアクセスする行為に、よく似ていた。


二、読み解くという暴力


 タイトルとは、その書物の魂が最後に行き着いた「一言」だ。

 数万、数十万という文字を削ぎ落とし、ただ数文字にまで集約されたエッセンス。私はそれを脳内のフラスコに注ぎ、独自の解釈という触媒を加えていく。


『昨日が来なかった理由』。


 この著者は、あの日、時計の針が重なる瞬間に、何を見たのだろうか。

 絶望だろうか。それとも救いだろうか。

 あるいは、ただの目覚まし時計の故障を、壮大な哲学にすり替えた詐欺師だったのだろうか。


 一冊の背表紙から、私の脳内には勝手な銀河が形成される。

 読まないからこそ、可能性は無限だ。

 読まないからこそ、この物語は、私の所有物になる。


 古本屋の空気は重い。

 インクの脂が揮発し、紙の繊維が崩壊していく過程の匂いだ。

 私は棚を移動するたびに、別の人生の断片を吸い込み、脳を肥大化させていく。


 歴史の棚へ移る。


『忘れ去られた島々の記録』。


 文字を見た瞬間、私の後頭部に、熱い震動が走った。

 地図から消された場所。そこには、どんな言葉で愛を語る人々がいたのだろうか。


 脳内は、情報の過負荷で軋みを上げ始める。


 哲学、科学、料理本、宗教。

 そして、誰が書いたのかもわからない自費出版の詩集。


 何百、何千というタイトルが、濁流のように視神経を駆け抜け、脳細胞の隙間を埋め尽くしていく。

 もはや思考は整理されることを拒み、ただ巨大な「意味の塊」となって、私を内側から圧迫する。

 頭が、破裂しそうだ。


三、膨張の果ての平衡


 二時間弱。

 私は一歩も動いていないように見えて、数千の宇宙を跨いできた。


 店を出ると、外の空気は驚くほど薄く感じられた。

 脳が膨張し、頭蓋骨の内側を押し広げている。

 言葉の洪水に酔い、足元がわずかにふらつく。


 このままでは、私は私という形を保てない。


 この肥大化した意識を、現実の次元につなぎ止めるための儀式が必要だった。


 商店街の角にある、小さな甘味処に滑り込む。

 頼むのは、決まって冷たいアイスコーヒーと、焼きたてのたい焼きだ。


 運ばれてきたアイスコーヒー。

 結露したグラスを握ると、指先から冷気が浸透し、熱を帯びた脳がわずかに冷えていく。

 ストローを吸う。氷がカランと鳴り、苦味の強い液体が喉を通り抜ける。


 「意味」しかなかった世界に、暴力的なまでの「感覚」が介入してくる。


 そして、たい焼きだ。

 一匹の魚の形をした、安価な幸福。


 頭からかじる。

 パリッとした皮の食感のあと、濃厚な小豆の甘みが、口いっぱいに広がる。


 この「甘さ」には、タイトルも、文脈も、形而上学的な問いもない。

 ただ、ただ、甘い。


 咀嚼するたび、パンパンに膨らんでいた脳内の「言葉」たちが、霧散していくのがわかる。

 アカシックレコードからダウンロードした膨大なデータが、たい焼きの糖分と、アイスコーヒーのカフェインによって、日常という解像度にまでダウングレードされていく。


 脳が、元の大きさに戻っていく。


 耳を澄ませば、遠くで子供がはしゃぐ声や、車の走行音が聞こえる。


 私は、私に戻る。


 完食し、最後の一口のコーヒーを飲み干す。

 伝票を持って立ち上がると、私のポケットには何も残っていない。

 さっきまで脳を支配していた数千のタイトルも、もはや思い出せなかった。


 けれど、それでいい。


 この二時間の空費こそが、私にとっての「生」の輪郭を、最も鮮やかに描き出す、究極の贅沢なのだから。


【了】

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