ロイヤルミルクティー印籠
イロイロアッテナ
ロイヤルミルクティー印籠
「カップ麺、落としましたよ。」
会社の給湯室でお湯を沸かすため、やかんをコンロにかけている間に、流し台に置いたカップ麺が下に落ちていたようだ。
僕が、その声に振り向くと、カップ麺を拾い、優しくカップ麺の蓋の部分を手で払う田中さんが微笑んでいた。
「ありがとうございます、すみません。」
僕はそう言って、カップ麺を受け取った。
受け取る際に、ほんのわずかに僕の指先が、田中さんの指先に触れ、僕は真っ赤になった。
「お昼は、それだけですか?」
田中さんは、僕が両手で持っているカップ麺を指差して、小首をかしげた。
「ええ、あ、はい。仕事が忙しくて。」
「大変なんですね、あまり無理をなさらないでくださいね。」
そう言って、田中さんがにっこり笑うと、給湯室の電子レンジがチンと鳴った。
田中さんは、レンジの扉を開けると、お弁当箱を取り出した。
「手作りのお弁当ですか?」
「あ、はい。残り物を詰めただけで恥ずかしいですけど。」
「いやいや、毎朝作るなんて、偉いですよ。」
僕がそう褒めると、田中さんは少し顔を赤らめて、下を向いて会釈をした。
「それじゃあ、お先に失礼します。」
田中さんは、温まったお弁当を両手で持って給湯室を出て行った。
僕は、やかんがシュンシュンと音を立てているのにも気がつかずに、田中さんの後ろ姿を見送っていた。
僕はカップ麺を持って、慎重に、そろりそろりと自席に戻った。
カップ麺を机に置く時、少しだけ傾き、蓋の端から、ほんの少し、熱湯が指にかかった。
「熱!!」
「何してるの!大丈夫?」
前の席の藤原さんが、机の下から箱ティッシュを取り出して、僕に差し出してくれた。
「ありがとうございます。」
僕は藤原さんが持ったままの箱ティッシュから、2枚、ティッシュを引き抜き、自分の指を拭き、それから机の上を拭いた。
「山田くん、今日の昼ごはん、それだけ?」
藤原さんの言葉に僕は苦笑した。
「さっき、田中さんにも同じことを給湯室で言われました。」
「山田くんみたいな若い子が、カップ麺だけで、お昼済ませたら、おばちゃんたちは心配になるのよ。」
僕は机を拭いたティッシュをゴミ箱に捨てながら、机の上のモニター越しに藤原さんを見た。
「おばちゃんて。藤原さんも田中さんも、まだそんな歳じゃないでしょう。」
「あら、山田くん、口がうまいわね。もっと堅物かと思ってたけど。」
僕が机の引き出しを開けて割り箸を探していると、藤原さんは、ティッシュの箱を引っ込めて、代わりに袋に入った割り箸を差し出した。
「田中ちゃんも、私の4つ下だから、今29で、今年30か。」
「へぇー、そうなんですね。20代半ばくらいだと思っていました。」
僕は、椅子から立ち上がって中腰になり、モニター越しに割り箸を受け取って、藤原さんに頭を下げた。
「あ、田中ちゃんには内緒よ、私が田中ちゃんの年齢を言ったこと。忘れろー、山田。」
藤原さんは、そう言うと、顔の横で両手を広げ、手のひらを僕に向けてクルクルと小さく回した。
「な、なんなんです、それ。」
僕はカップ麺の蓋を開けながら藤原さんに聞いた。
「催眠術。忘れた?」
「はいはい、もう完全に忘れました。覚えているのは、藤原さんが34歳ってことだけです。」
「言うじゃない。でも、美人は得よね。田中ちゃん性格はいいし、美人だし、若く見えるし。」
僕は割り箸を袋から取り出すと、2つに割り、カップ麺の中に差し入れて、麺をかき混ぜ始めた。
「だけど田中さん、お弁当作って偉いですよね、旦那さんの分も一緒に作ってるんですかね?なんか、そういうの、いいですね。」
僕はそう言うと、カップ麺をすすり始めた。メガネが湯気で、少しだけ曇る。
「あれ、山田くん知らないの。田中ちゃん、独身よ。」
「え、そうなんですか?僕が入ったとき、結婚されてるように聞いたような気が…。」
「一昨年、離婚したのよ、田中ちゃん。あ、しまった。忘れろー、山田。」
「いや、それはもういいですって。ごめんなさい、こんな噂話、本人のいないところでするべきではないのかもしれませんが、うまくいかなかった理由って…。」
「うーん、わかんない。聞けないじゃない、そんなこと。でも、どんな夫婦でも、何かしら問題を抱えているものなのよ。他人と他人が家族になって暮らすってそういうことなの。田中ちゃんみたいなパーフェクト超人でもね。」
僕は、メガネを拭きながら、細めた目で藤原さんを見た。
「そういうものなんですか?」
「当たり前よ。大事なのは、欠点が噛み合うかどうか。それが気にならなければ、一緒にいるのは楽になるし、噛み合わなければ難しい。どっちが悪いとかじゃなくてね。」
「じゃあ、藤原さんは、旦那さんとうまいこと噛み合ってるんですね。」
「旦那と?」
「はい。ご結婚されてしばらく経ちますよね?」
僕の質問に、藤原さんの眉間に皺が寄った。
「天に二王なし。共に天を戴くことはできぬ。私が死ぬか、旦那が死ぬか、そんな状態だけど、話聞く?」
「いや、大丈夫です。自分、大丈夫です。」
僕はそう言うと、カップ麺の上に、静かに割り箸を揃えておいた。
次の日の昼休み、また給湯室でお湯を沸かしていると、お弁当を温めに来た田中さんと一緒になった。
さすがに、連日、カップ麺を食べるところを見られるのは、少し恥ずかしかったけれど、狭い給湯室で、どうにも隠しようがなかった。
「あ、あの、すみません、心配していただいたのに、またこんなもの食べて。」
レンジの中にお弁当箱を入れている田中さんに、僕は先に頭を下げて謝った。
「いいえ、少しもそんなこと。」
田中さんは、僕を振り返り、かえって恐縮したように、何度も頭を下げた。
僕はやかんの注ぎ口を見つめ、田中さんは、レンジの中で回るお弁当箱を見つめ続けた。
「あ、あの、よかったらこれを。出過ぎた真似かもしれませんが、栄養が偏らないように。」
田中さんが、おずおずと差し出した両手には、アボカドが握られていた。
「あ、ありがとうございます。いただいて良いのですか?」
「はい、是非。アボカドは森のバターと呼ばれていると聞いたことがありますから、栄養バランスはいいと思って。」
柔らかく微笑む田中さんから、僕はアボカドを受け取った。
その時、また、僕の指が、ほんの少しだけ田中さんの指に触れた。
僕は何も言わず下を向き、田中さんも何も言わず下を向いていたけれど、レンジのチンという音が2人の時を解凍した。
「あ、それじゃあ失礼します。」
田中さんは、お弁当箱を取り出すと、小走りに給湯室から出て行った。
「なに、それ?」
自席に戻ると、藤原さんが目を丸くして話しかけてきた。
「カップ麺です。」
「じゃなくて、それ。その果物。アボカド?」
「はい。田中さんからいただきました。栄養が偏らないようにって。」
「カップ麺にアボカド!?すごい取り合わせね。」
「え?そうですか?」
僕は椅子に座って机の上にカップ麺を置くと、引き出しをガサガサ探し始めた。
「藤原さん、申し訳ないですが、果物ナイフをお持ちであれば、貸していただけませんか?後で洗って返しますから。」
ナイフが見つからなかった僕は、藤原さんにそう声をかけた。
「え!?今、食べるの?カップ麺と?カップ麺にアボカドを添えて?」
「え?だめですか?」
僕が藤原さんに聞き返すと、藤原さんは、口をムズムズさせ、困ったような顔をした。
「いや、あのね。だめではないよ。山田くんの食生活に口を出す気はありません。ありませんが、山田くん、胸に手を当てて考えてみよう。その取り合わせ、人生であんまり食べたことがない取り合わせじゃない?」
「まぁ確かに。でも、僕、アボカド自体あんまり食べたことありませんし。嫌いってわけじゃないんですけど。」
「違う違う、そうじゃない。私、鈴木雅之みたいなこと言ってるけど、あのね……まあ、いいか。山田くんは、気にならないのね?」
「何がですか?」
「……大丈夫、そのままの君でいて。」
藤原さんはそう言うと、引き出しから小さな果物ナイフを僕に渡してくれた。
「よくわかりませんが、食べ物について、人様に作っていただいたり、人様からいただいたものに不平を述べないように、と言われて育ってきました。それが関係してるんですかね?」
僕は、藤原さんから貸してもらった果物ナイフをアボカドに1周させながら言った。
「いや、食べるタイミングや順番の話なんだけどね。いや、いいや。ところで、アボカド、田中ちゃんからもらったんだよね?」
「はい。」
僕はナイフを1周させたアボカドの上と下を両手でそれぞれ持ち、捻りながら答えた。
「そこら辺かもね。もう一度だけ確認させてね。山田くんは、カップ麺withアボカドは、気にならないってことでいい?」
「普通は何かあるんですか?」
僕は藤原さんに答えながら、ナイフの角をアボカドの種に打ち込んだ。
よく熟したアボカドから種が滑らかに取れる。
「……明日さ、山田くん、お昼ご飯を用意しなくていい。私が用意するから。それで私が用意したお昼を給湯室で温めな、わかった?」
「え?なんですか、急に。藤原さんがお弁当を作ってくれるってことですか?」
「そんなわけないでしょ。旦那と子供二人でこっちは大忙しなんだから。いいから、明日はお昼を用意しないで。カップ麺もなし。わかった?」
早口でまくし立てる藤原さんに、僕はあまり意味がわからなかったが、とりあえずうなずいた。
次の日、お昼休みのチャイムが鳴ると、藤原さんは机の引き出しからレジ袋に入ったお弁当を取り出した。
「はい、山田くんの今日のお昼。」
僕がお礼を言って、レジ袋を受け取り、中をのぞいてみると、そこには、幕の内弁当とロイヤルミルクティーが入っていた。
「さぁ、早く、給湯室のレンジで温めてきて。」
妙に急かす藤原さんに促されて、僕は幕の内弁当を手に持って席を立ち、給湯室に向かおうとした。
「大事なもの、忘れてる。」
僕が振り向くと、藤原さんは、ロイヤルミルクティーを持った手を差し出していた。
「ロイヤルミルクティーは温めませんが。」
僕が訝しげにそう言うと、藤原さんは、じれったそうにロイヤルミルクティーを僕に押しつけた。
「いいから。給湯室へ持って行き。それで、田中ちゃんが来たら、ロイヤルミルクティーと幕の内弁当を見せつけるの、水戸黄門の印籠のように。」
藤原さんは、右手と左手をコの字型にして、何度も僕に向かって、繰り返し交互に突き出した。
正拳突きのように。
僕は藤原さんの言っていることがうまく理解できなかったけれど、その言葉に従って、給湯室へ行き、電子レンジで幕の内弁当を温め始めた。
「あ、お疲れ様です。今日はお弁当ですか?」
田中さんは、小さな可愛らしいお弁当箱を持って給湯室にやってきた。
「あ、はい。今日は幕の内弁当です。」
僕は、そう言いながらも、藤原さんの言う通りにすることに内心かなり葛藤があったので、しばらく、もじもじしていた。
そうしているうちにレンジがチンと鳴った。
田中さんのためにレンジを空けなければと思い、僕は幕の内弁当を取り出し、その上に、ロイヤルミルクティーを置いて、変な行動だと思いながらも、そのまま田中さんに向かって差し出した、まるで印籠のように。
「ロイヤルミルクティー、おいしいですよね。」
その様子を見た田中さんは相変わらず優しく微笑み、僕は顔を赤らめて下を向いたまま
「はい。」
と答えた。
このことの意味と藤原さんの気遣いがわかるのは、もっとずっと先。それまでは、ずっと2人だけにとっての謎だった。
僕らに子供が生まれ、その子たちが思春期になって、口を揃えて
「お父さんとお母さんは味音痴だからなぁ。」
と呆れられるまでは。
ロイヤルミルクティー印籠 イロイロアッテナ @IROIROATTENA
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