トロイ(Equus Troianus)

バーニーマユミ

第1話

ーー災いはもっとも弱き者の姿を借りて来る。カエルムに古くから言われてきた言葉のひとつだった。それは聖書や何か形のあるものではなく、代々年長者から伝えられてきたーー時が来れば聞くような、ある種のお告げのような言葉だった。

 穏やかな山を背とし、美しい海を臨む小さな島、カエルムは漁業と素朴な焼き物が有名な、どこにでもあるような、活気に溢れた島だった。

 先の大戦では植民地化されつつも、強い決意と多くの犠牲の末に独立し、周辺のいくつかの小さな島を含む土地を領土とし、豊かな実りある土地になるように、と願いを込め、ヴァナヘイムと名付けられた小さな国が生まれた。

 やがて、戦争が世界中で下火になるにつれ、さまざまな土地から安寧の暮らしを求め、さまざまな肌の色、瞳の色の民族の人々少しずつ移って来た。元々暮らしていた人々は拒まなかった。

 大地は人のためにあるものではなく、その全ては神のものであり、争い奪い合うものではないーーそういう信仰めいたものが静かに根づいていた。それは島の精神そのものだった。やがて異なる文化は溶け合い、それは負の遺産かというには、あまりに美しかったが色彩豊かな文化が生まれた。さまざまな文化が何度も交差し、人々は4つ、ないしは5つの言語を自由に用いて交流していた。

 しかし結論から言えば、穏やかなカエルムはもうこの世界には存在していない。

 これはとある考古学者が見つけた、散り散りになった島の記録を繋ぎ合わせて書き綴ったものであり、何もかもが推測の域をいまだに脱していない。

 これは今から100年ほど、昔の話である。



「見ろ、あれは人じゃないか?」

「ああ、人だ、子どもだ」

「おい、舵を取れ!!」

「何だなんだ」

「人が浮かんでるんだ!まだ生きてるかもしれない!!」

「おおうっ」

 とある日差しの強い日、沖合の波間に人が浮かんでいるのを漁師たちが見つけた。

 近づくとそれは少女であった。10歳前後の、黒髪の、少女であった。しばらく海を漂っていたらしい少女はひどく弱っているように見え、漁師たちはそのまま港へと戻ることにした。

 港で作業をしていた者たちが女たちを呼び、医者を呼び、すぐに少女に必要な処置を施した。体力をひどく消耗していたらしかったが、少女は数日うちに回復し、起き上がれるようにまでになった。

 しかし少女は全く話さなかった。話しかけても全く反応はなく、自らの意思は全く示そうとしなかった。

 食事にも手はつけなかった。強く勧めると水と、アルコールには口をつけた。医者や女たちはひどく驚いた。あれこれと調べてみても、何ひとつ異常はなく、普通の少女であった。

 ある日、ある女が少女のために絵や文字を書いて教えていた。女は特に、おそらくは何となく、使っていたペンを少女に握らせた。もしかすると文字をなぞらせるつもりだったのかもしれないが、この辺りは分からないので、そういったつもりであったとする。少女はゆっくりと、余白に何かを書き始めた。それは文字のようであったが、誰が見ても読めなかった。

 お見せできないのが残念極まりないのだが、ここにその写しがある。もしかすると原本かもしれないがーー不思議なことだが、この文字は1912年にウィルフリッド・ヴォイニッチ氏により発見された、ヴォイニッチ手稿に見られる文字にあまりにも酷似していた。それは規則性のありそうな文字のようなものと挿絵が描かれておりーー解読は困難と言われている書物であった。ある説をとれば、その文字は略式のラテン語で書かれている説や、プロト・ロマンス語で書かれている説など、これについても分からないことばかりなので、これは一旦、忘れてほしい。ーーまあ、とりあえず少女は誰もが見たことのない文字を書いたということだ。それを当時の人々がヴォイニッチだと気づいたふうな記載はない。

 少女はどこから来たのか、人々が騒ぎ始めた頃、ある病が流行り始めた。

 最初は少女に文字を教えていた女や、医者から症状があらわれた。それは百日咳に似ていたが、やがてそれとは全く異なる恐ろしいものだと人々は身をもって知ることとなった。

 咳は治ることはなく、おそらくは呼吸困難に陥り、半年と絶たぬうちにその病は島を飲み込み、国を跡形もなく消してしまった。

 以上がどうにか分かったことである。

 なお、この島の存在はたまたまボートの故障により島に行き着いた青年からの、とある考古学者へのメールにより発見に至った次第である。この考古学はよくメディアに露出していた人物であったが、ここ数年は肺を患っているらしくメディアでは見かけていない。青年の無事は不明である。




 災いはもっとも弱き者の姿を借りて来る。ーーあの少女は邪神か、神の化身か。それ以後のことはだれも知らない。

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