銀漢亭のディソナンス

月雲花風

硝子越しの帝都

「銀漢亭」の空気は、帝都の喧騒を極薄の絹で濾過したあとのような、非現実的な静寂を湛えていた。


路地裏の深奥に潜むその空間には、蓄音機が爪弾く微かなバッハの旋律と、深く煎り上げられた珈琲の芳香だけがたゆたっている。


「また、騒々しい噂を持ち帰ったね、凛」


ベルベットのカーテンが常に引かれた奥座敷。そこから、鈴の音を転がしたような、それでいて氷のように冷ややかな声が響いた。店主、杠鏡花である。


彼女は蒼白い手首を静かに動かし、銀のスプーンで珈琲をかき混ぜる。琥珀色の液面に小さな渦が生まれ、やがて音もなく消えていった。


給仕の如月凛は、小走りに主人のもとへ歩み寄り、一通の新聞と自身の備忘録を差し出した。彼女の瞳には、街で拾い集めてきたばかりの熱気が宿っている。


「銀座の新設時計塔です。落成記念式典の最中、青年実業家の九条雅之様が忽然と姿を消しました。憲兵と警備員が階段も昇降機も完全に封鎖していた、完璧な密室だったとのことです」


「密室か。近代化を急ぐこの帝都において、実に時代錯誤で、それゆえに美しい響きだね」


鏡花は微かに口角を上げた。だが、彼の関心は事件の派手な演出よりも、凛が語るであろう「違和感」に向けられていた。


「奇妙なことがもう一つ。失踪の直前、正午を告げる鐘の音がいつになく『濁った』響きをしていたと、複数の見物人が証言しています」


「濁り、ね。純粋な青銅の響きを汚す何かが介在したわけだ。……ところで、この記事を書いた高木という記者だが。彼は正面玄関から堂々と取材したと記述しているが、凛、君の眼にはどう映った?」


凛は、脳裏に焼き付いた光景を反芻した。街角で立ち話をした際、視界に入った高木の足元を。


「……彼の編み上げ靴には、銀座のメインストリートには似つかわしくない湿った黒土と、微かな機械油の匂いが付着していました」


鏡花はスプーンを置き、満足げに目を細めた。

一度も店を出ることのない彼の脳内には今、銀座の時計塔の裏側、ぬかるんだ土路地と、重厚な歯車が噛み合う内部機構の地図が鮮やかに立ち上がっていた。


「虚飾は、真実よりも多くのことを語る。その濁った鐘の音が何を隠したのか。そして高木君が何を見たのか……。面白い。この珈琲が冷める前に、いくつか仮説を披露できそうだ」


帝都の喧騒をよそに、銀漢亭の時間は、事件の核心へと向かって静かに、しかし確実に刻まれ始めた。





銀漢亭(ぎんかんてい)の重厚な扉が開くと、乾いた鈴の音が店内の静寂を微かに揺らした。

滑り込んできたのは、雨を吸った外套のように重苦しい表情を浮かべた男――捜査一課の佐藤刑事である。


行方不明となった九条雅之の知人でもある彼の顔には、隠しようのない疲労と困惑が深く刻まれていた。


「鏡花さん、これはもう、人の身に負える事件ではない……」


佐藤は、常に厚いカーテンが引かれた奥座敷の主に向かって、絞り出すような声で現場の状況を語り始めた。


舞台は、銀座の象徴たる時計塔の最上階。

当時、そこは完全な密室だったという。

唯一の出入り口である階段の扉には内側から鍵がかかり、その前には式典警護の憲兵が微動だにせず立っていた。

窓は意匠を凝らした極小のもので、小鳥ならいざ知らず、大の大人が通り抜ける隙間などどこにもない。


九条がいたはずの部屋に残されていたのは、時を刻み続ける巨大な時計機構の無機質な律動と、床に無造作に転がっていた彼自身の懐中時計だけだった。


「九条は、時間そのものに飲み込まれて消えたとでも言うのか」


佐藤の震える言葉を、鏡花は鼻先で冷ややかに笑い飛ばした。

銀のスプーンで珈琲の液面を叩き、鋭い金属音を響かせる。


「馬鹿げている。幽霊は懐中時計を落としませんし、何より、自身の存在を証明するために『音』を濁らせたりはしない」


鏡花の脳裏には、先ほど凛から報告を受けた「ある記者」の靴の汚れが浮かんでいた。

黒い土と、こびり付いた機械油。

それは時計塔の華やかな表側ではなく、裏側の、それも動力部に近い場所の痕跡だ。


「凛、君に頼みがある。現場の周辺で当時聞こえた『音』を、徹底的に洗い直してくれ。街頭の喧騒、馬車の車輪、そして鐘が鳴った瞬間に重なった、あらゆる雑音だ。特に、『重いものが擦れる音』がなかったか、重点的にね」


困惑する佐藤を余所に、鏡花は冷徹な眼差しを暗がりに向けた。


「佐藤さん、密室とは視覚を欺くための手品に過ぎない。しかし、物理的な干渉は必ず空気を震わせ、音として刻印される。その『濁り』の正体こそが、君の友人を連れ去った怪物の正体だよ」




「銀座は、今や鉄と電波の街になろうとしております」


如月凛は、真新しいアスファルトを刻む自らの足音を聴きながら、静かに独り言ちた。


大正の空を無慈悲に切り裂く架線と、その下を火花を散らして疾走する最新式の路面電車。ほんの数年前まで柳の並木が優雅に揺れていた場所は、今や「近代化」という名の重機によって無残に掘り返されている。

かつての湿った土の匂いは掻き消え、代わりに鼻を突くのは、焦げ付いた機械油と煤の混じった、乾いた鉄の体臭だった。


凛の目的は、時計塔周辺の再開発によって居場所を追われた人々の聞き込みだった。

鏡花が口にした「音の濁り」という言葉が、どうしても耳の奥にこびりついて離れない。


工事現場の喧騒を抜け、時計塔の裏手にある資材置き場の隅に、その老人は佇んでいた。


「……源造さん、ですね」


呼びかけると、機械油で黒ずんだ作業着を纏った老人が、深く刻まれた皺の合間から鋭い眼光を覗かせた。

源造。かつてはこの地で三代続いた時計店を営んでいた職人だ。

土地を強制的に買収された彼は、皮肉にも、自らの店を奪った巨大な時計塔の整備工として日銭を稼ぐ身に甘んじていた。


「お嬢ちゃん、時計の修理なら他を当たりな。俺はもう、こいつの『心臓』を磨くことしか許されちゃいねえんだ」


「いいえ、修理の依頼ではありません。この時計塔が放つ『声』について伺いたいのです」


凛がそう告げた瞬間だった。

足元から地響きのような不穏な振動が伝わってきた。最新型の路面電車が、すぐ傍の停留所へと滑り込んできたのだ。


――キィィ、ィィィィン。


耳を劈(つんざ)くような、金属同士が悲鳴を上げて擦れ合う異音が、時計塔の上層部から響き渡った。

それは一瞬の出来事だった。路面電車の通過に呼応するように、塔内部の巨大な歯車が悶絶したのだ。源造は顔を顰め、忌々しそうに塔を見上げた。


「……聞いたか、あの音を。近代化だか何だか知らねえが、あの鉄の塊が走るたびに、ここの地盤は震えてやがる。昔のままの基礎に、無理やり重い歯車を載せて、その真横を路面電車が通る。共鳴ってやつだ。特定の振動が伝わると、あいつの軸がほんの数分の一ミリだけ、歪むんだよ」


凛は目を見開いた。

路面電車が通過する際の振動と、時計塔の機構に生じる微かな歪み。

それは果たして、ただの物理的な偶然なのか。それとも――。


夕刻、銀漢亭。

凛は戻るなり、奥座敷の重いカーテンの向こう側にいる鏡花へ、事の次第を詳報した。

路面電車の振動、老職人の証言、そして自身の耳で捉えた「軋み」の正体を。


「鏡花様。路面電車が通る瞬間に限り、時計塔は本来の律動を喪失します。地面を揺らす振動が、塔の内部で異常に増幅されている……そんな、生理的な違和感を覚えました」


深い沈黙が流れる。

銀のスプーンがカップの縁に触れ、硬質な音が一度だけ響いた。

やがて闇の中から、鏡花の冷徹な、しかしどこか歓喜を孕んだ声が返ってきた。


「……なるほど。地磁気でも幽霊の仕業でもない。犯人が利用したのは、文明開化そのものが産み落とした『不協和音』だったというわけだ」


鏡花は薄暗い部屋の奥で、勝ち誇ったように唇を綻ばせた。


「凛、素晴らしい。君が拾い集めてきたその鉄の音こそが、九条雅之という肉体をこの世から消し去った、魔術の種明かしだよ」





薄暗い奥座敷に、銀のスプーンが冷たく、しかし小気味よい音を刻む。

カチ、カチ――。

その規則的な律動は、鏡花の思考が一点へと収斂していくための、静かな儀式であった。


「凛、君が聞いたあの『悲鳴』こそが、すべての欺瞞を剥ぎ取る鍵だ」


重厚なカーテンの向こうから、鏡花の確信に満ちた声が響く。

彼は手元の資料と、凛が持ち帰った路面電車の振動の記憶を、脳内で一つの精緻な設計図へと組み上げていた。


「最新式の路面電車。それは帝都が誇る文明の利器だが、同時に、特定の周波数を大地へ叩きつける巨大な音叉(おんさ)でもある。それが時計塔の旧式な基礎と邂逅したとき、物理的な奇跡……否、必然の共鳴が起きたのだ。塔全体が微かに震え、重い歯車の軸が歪む。その一瞬、精密機械である時計は、死に体の巨人のようにその歩みを狂わせる」


鏡花は一度言葉を切ると、スプーンを置いた。

その瞳には、現場を見ていないはずの彼が捉えた「真実」が、冷徹に映し出されている。


「九条雅之の失踪。あの展望台は、人間が通り抜けられる隙間など存在しない密室だった。だが、犯人は肉体を消したのではない。視覚そのものを欺いたのだ。源造ら職人たちは、再開発の名の下に居場所を奪われた。彼らは時計塔の修理を通じて、内部に巧妙な細工を施した。路面電車の共鳴によって塔が歪む、その刹那にだけ光の屈折角が変わるよう、文字盤の裏側に鏡面を仕込んだのだ」


「鏡、ですか……?」


凛の問いに、鏡花は薄く唇を綻ばせた。


「そう、特定の振動が加わった瞬間、文字盤の一部が鏡の反射によって、あたかも背後の景色を透過しているかのような錯覚を生む。陽炎にも似た、物理的な蜃気楼だ。九条は逃げたのではない。そこに居ながらにして、観衆の眼から『消去』されたのだ。古き職人の叡智が、近代技術の不協和音を利用して成し遂げた、あまりに皮肉な復讐だよ」


銀のスプーンが再び手に取られる。

それは、傲慢な実業家が踏みにじった職人たちの矜持を、一つひとつ拾い上げる作業のようでもあった。





帝都の黄昏は、不吉なほど濃い朱に染まっていた。

銀座の街角に聳え立つ時計塔は、その残照を浴びて、さながら断頭台のような威厳と禍々しさを湛えている。


「……ここか」


捜査一課の佐藤刑事は、銀漢亭の主人・杠鏡花から授けられた「設計図」を脳裏に描き、時計塔の最深部、巨大な振子時計の基部へと足を踏み入れた。

辺りには古い機械油の凝った臭いと、冷たい石材の湿り気が混じり合っている。

鏡花は言った。――その場所は、時計の鼓動が止まる瞬間にのみ、真実の姿を現すのだと。


背後で、地を這うような轟音が鳴り響いた。

銀座の通りを路面電車が通過する、特有の振動。

その刹那、時計塔全体が微かに、しかし確実に呻き声を上げた。鏡花が指摘した「共鳴」である。


ガチリ、という硬質な拒絶の音が響く。

巨大な重りの影、本来ならば壁であるはずの場所に、数センチの隙間が生じた。

佐藤がその隙間に指をかけ、渾身の力で引く。石材に擬装された薄い鋼鉄の扉が、音もなく滑り出した。


「――そこまでだ、源造さん」


扉の向こう、機械室の死角に隠された狭隘な空間には、無残な光景が広がっていた。


失踪した青年実業家、九条雅之が、猿轡を噛まされたまま重りの直下に拘束されている。

重りは刻一刻と降下を続け、あと数分もすれば、彼の胸骨を無慈悲に粉砕するだろう。

その傍らには、油にまみれた作業服を纏った老整備工・源造が、虚ろな眼差しで街を見下ろしていた。


「……遅かったな、刑事さん。いや、あの安楽椅子探偵に敬意を表すべきか」


源造は、手にしていたレンチを床に転がした。

その顔には、罪が暴かれた絶望よりも、深い虚脱感が漂っている。


「なぜ、こんなことを。再開発は、この街の未来のためだったはずだ」


佐藤の問いに、源造は乾いた笑いを漏らした。


「未来、だと? こいつらが『近代化』と呼ぶたびに、何が消えていったか知っているか。路地の喧騒、古い職人の家、先祖代々守ってきた小さな店の記憶……。それら全てをコンクリートで塗り潰し、上辺だけの時計塔を建てた。この時計は、街の死を告げる鐘だ。だから私は、この時計そのものに、九条を、そしてこの歪んだ文明を裁かせようとしたのだ」


源造は、路面電車の振動を利用した仕掛けを淡々と語った。

塔の基礎が振動で歪む刹那、特定の鏡面が角度を変えて視覚を欺き、隠し扉のロックが外れる。

職人たちが数十年かけて培った、アナログと物理の極致。

それは皮肉にも、彼が忌み嫌った「最新の路面電車」がもたらす振動なしには成立しないトリックだった。


「鏡花さんは言っていたよ。あんたたちの技術は、帝都の誇りだったはずだと」


佐藤が拘束を解き、九条を安全な場所へ引き摺り出した。

九条はガタガタと震え、声も出ない。源造は抵抗することなく、佐藤が差し出した手錠をじっと見つめた。


「時代は変わるのではない。壊されているのだ。私たちは、その残骸の上で踊らされているに過ぎない……」


連行される際、源造は一度だけ時計塔の巨大な文字盤を見上げた。

そこには、何事もなかったかのように、冷徹な正確さで時を刻み続ける指針があった。


数日後。銀漢亭の奥座敷で、鏡花は凛が運んできた珈琲を一口すすり、不機嫌そうに呟いた。


「文明の進歩というやつは、常に犠牲者の血を潤滑油にして動く。源造の仕掛けた『蜃気楼』は、その血を隠すための、あまりに哀しい幕引きだったということだ」


銀のスプーンがカップに触れ、清澄な音を立てる。

その音は、あの日時計塔が奏でた不協和音とは似ても似つかぬ、静謐な響きを湛えていた。




事件が霧散し、銀漢亭には以前と変わらぬ静寂が戻っていた。


鏡花は指先で、報奨として届けられた古い懐中時計の銀色をなぞる。

九条雅之が愛用し、あの時計塔の展望台に残されていたものだ。

ねじを巻くと、チチチと小気味よい音が鏡花の細い指を伝い、鼓動のように響いた。


「……結局、何も変わらないのですね」


盆を抱えて控えていた凛が、静かに口を開く。

「街は相変わらず、新しいものを欲しがって騒がしい。あの職人の執念も、路面電車の音に掻き消されてしまいました」


窓の外では、また一台、路面電車が鉄の音を軋ませて通り過ぎていく。

あの微細な振動が、一人の男の人生を狂わせ、奇妙な密室を作り上げたのだ。

文明の利器がもたらす揺らぎが、皮肉にも古き良き職人の技術を『魔法』へと変貌させた。


「時代は、止まることを知らないからね。進歩という名の怪物が、昨日までの景色を食い潰していく。僕はここで、その残滓を眺めているに過ぎない」


鏡花は疲れたように目を細めた。

窓の外、宵闇に沈み始めた帝都にはガス灯が灯り、霧の中に淡い光の輪を作っている。

和洋が混ざり合い、美しさと歪さが同居する「大正」という時代の、これが黄昏時なのだろう。


「凛、カーテンを引いておくれ。光が、少しばかり目に障る」


「はい、鏡花様」


凛がしなやかな手つきで、厚手のベルベットを引く。

外の世界との唯一の繋がりが断たれ、座敷はランプの光に満たされた密室となった。


どれほど鮮やかに謎を解き、遠く離れた場所の真実を看破しようとも、病に蝕まれた鏡花がこの『揺り籠』を出ることはない。

彼にとっての世界は、客が持ち込む謎と、凛が運ぶ噂、そしてこの閉ざされた空間がすべてだ。


帝都の闇、人々の欲望、そして文明が落とす影。

それらはすべて、銀漢亭の重い扉の向こう側に仕舞い込まれる。


時計の針が刻む一定のリズムだけが、沈黙を守る鏡花の傍らで、静かに、深く、夜を刻んでいった。

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