となりにいる。

@toseko

前編

 幼馴染が死んだ。

 五月、初夏。梅雨に入る前のまだ空気が青々として気持ちが良い日曜日。そんな清々しい休日の昼間、家に誰もいないときにひっそりと死んでいたそうだ。

 僕は毎朝一緒に登校していたから、その日の夜のうちに幼馴染の、永太のお母さんから連絡があった。

 永太と僕は幼稚園からの仲で、僕の記憶にある永太はずっと健康優良児であったから、たちの悪い冗談ではないかと思った。年間欠席日数は僕の方が多いような気がする。インフルエンザが流行って学級閉鎖になったときも、永太はピンピンして休みを喜び、寝込んでいた僕にどれだけゲームを進めたぞ、と自慢をしてくるような奴だった。

 けれども、翌日親と一緒に永太の家まで線香を上げに行ったら本当に死んでいた。

 永太は整った目鼻立ちをしている。くっきりとした二重の垂れ目で、いつも笑ってるように見える。

 水色の棺桶の中で目を瞑っている永太も、なんだか笑っているように見えた。よくお互いの家を行き来して泊まったりしていたから、見慣れた寝顔と大差ない。

「寝てるみたいだ」

 と僕が言うと、永太のお母さんは鼻を啜りながら

「そうだね」

 と頷いた。

 永太のお母さんは僕の母さんと違いいつも身なりを整えている綺麗な人だったけれど、今日はそんなことなかった。前に会ったときから何年も経ったように老け込んで見える。

 はあ、そうか。永太、本当に死んだのか。

 永太のお母さんから、永太がどうして死んだのか、とか色んな話を聞いたのだけれど、僕にはなんだか遠い世界の話のようで頭に入って来なかった。

 ついぞ僕は涙を流すことなく、

「お前の親友は薄情なやつだな。ごめんな」

 と声をかけて、家に帰った。

 幼馴染が死んだ。

 週末、葬式だそうだ。


 そして、葬儀の日にそれは現れた。

 五月ではあるけれど外は汗ばむような気温だった。受付を済ませ、啜り泣く同級生たちの後に並ぶ。

 物心ついてから見知った人の葬式に参列するのは初めてだった。ドラマで見たことがある程度だった僕は礼儀が分からずそわそわして周りを見る。

 式場は僕たちの家から少し歩いたところにあった。大きい道路に面していて、車がたくさん止まってる。

 式場に入った途端クーラーで肌が冷えた。さあ、幼馴染の遺影がどんな顔をしているのかちゃんと見てやるか。

 そうして顔を上げて、僕は目を丸くした。

 祭壇には色とりどりのたくさんの花が飾られている。その真ん中に永太の遺影が飾られている。しかし僕が目を丸くしたのはそれに注目したからではない。

 遺影の下には永太の水色の棺桶がある。

 その上に、にっこりと笑った永太が座っているではないか!

「え」

 と声を上げようとした僕に、永太はイタズラっぽく笑い、人差し指を立て、口元に当てる。

 すっくと立ち上がる永太は僕の方に歩み寄ると

「よお、望」

 と普通に声をかけてくる。

 永太は見慣れた制服のブレザーを着ている。僕たち学生の正装だ。今日も暑いのにまだ衣替え前だからブレザーを羽織らなきゃいけないのが嫌だと思っていたんだ。

「な、なんで」

 と驚きすぎて金魚みたいに口をぱくぱくする僕に永太は続ける。

「いやあ俺死んじゃってさ、たぶん幽霊ってやつなんだよね」

「そんな、馬鹿な」

「な、馬鹿みたいな話だよな」

 あっけらかんと笑う姿は僕のよく知る永太の姿だ。白い歯を見せて笑うこの姿が女の子たちには人気だったんだ。僕も割と好きだった、と思う。

「幽霊って本当にいるんだなあ。まさか、身をもって知ることになるなんて思わなかったよ」

 そう続ける永太の姿を見ている者が他にもいないかどうか気になって、僕はきょろきょろと辺りを見回した。けれども、みんな俯いて泣いたり、一緒に来た人と話していたりして誰もこちらを見ていない。

「本当に、永太なの?」

 と訊ねる僕に、永太はもう一度しっと口元に人差し指を立てて添える。

「うん。そうだよ。でも、俺のこと見えてるのお前だけみたいだ。だから、俺と話してたら変な目で見られちゃうぜ」

 僕はハッとして口を閉じる。

 そうか、たしかに永太が見えていない人が見れば僕は虚空に向かって独り言を言っている怪しいやつになってしまう。

「それにしてもよかったよ、望に霊感があって。知らなかったな、お前見える人だったんだな」

 そんなまさか。これまで一度たりとも幽霊なんて見たことがない。

 けれども、もしかしたらそんなことはなかったのかもしれない。

 目の前にいる永太の姿は生きてるときとなんら変わりない。足もあれば、顔色だって普通だ。僕が最後に見たときと同じように見える。

 幽霊といえば真っ白な顔色をして、足がないものだと思っていたが、どうやらそうではないらしいのだ。

 これでは僕が今まで生きている人間だと思っていた者たちも、実は幽霊だった可能性がある。

 そうか、僕は見える人だったのかあ。

 そんなことを考えながらぼうっとしていると、

「望くん、大丈夫?」

 と女の子が声をかけてきた。

「え、あ、朝田」

 振り向くと、そこには僕の好きな女の子が立っていた。明るくて、優しい女の子。目の周りが赤くなっているから永太のことを思い泣いていたのだろう。やっぱり優しい。僕とはまるで違う。

「あっちに座ってお焼香の順番待つんだって」

「そうなんだ。ありがとう」

 朝田の指差す先にはパイプ椅子が等間隔に並べられていて、そこに僕たちのように制服を着た生徒たちが座っている。

「私、お焼香なんてするの初めてだから、やり方よくわからないや」

「……僕もはじめてだから同じだな。ここにいるやつらほとんど初めてなんじゃないか?」

 朝田は目を潤ませながら困ったような顔をして笑っている。その目は僕しか見ておらず、隣にいる永太のほうをちらりとも見ない。

 本当に僕にしか見えてないのだろうか。

 僕は改めて永太のことを見る。僕より少し高い位置にある顔。中学を卒業するまでは同じくらいの背だったのに高校に上がってから差がついてしまった。

「ん?」

 と小首を傾げる姿もあまりにもいつも通りだ。

 僕が話しかけるとよくこの仕草をする。昔じいちゃんの家で飼ってた犬みたいだと笑った覚えがある。

「……あの写真、いい写真だよね。さっき永太くんのお母さんに聞いたんだけど、望くんと一緒に遊んでたときの写真なんでしょう?」

 朝田さんが言う。

 僕が永太を見ていたのを、永太の遺影を見ていたのだと勘違いしたらしい。僕は遺影をちゃんと見ていなかったので、言われてからようやくまじまじと見つめる。見覚えはあるような気がするけれど、具体的にいつどこで、なんで覚えてない。

「ああ、うん、そう、そうかな、そうなんだ」

 僕は写真のことなど知らなかったので生返事になる。

「ほら望、あの写真、この前一緒に野球の試合見に行ったときのやつだよ」

「ああそうか。通りで見覚えあると思った」

 僕たちは小中と同じリトルリーグに入っていた。僕は練習についていけなくなって高校に上がるときにやめてしまったけれど、永太はまだ続けていた。あの写真は春先の開幕試合を家族ぐるみで見に行って親が撮ったときのものだと思う。

「……望くん、本当に大丈夫?」

「あ、ああ、うん、大丈夫。ごめん」

 心配そうに僕を覗き込む朝田さんにハッとする。僕はつい永太に返事をしてしまったが、朝田さんには永太が見えていないらしいので何もないところに向かって話しているように見えたのだろう。

「ううん、こっちこそごめん。……大丈夫なわけないよね」

「おいおい望、気をつけないと。朝田さん心配してるぞ」

 申し訳なさそうに俯く朝田さんを前に、永太が僕を嗜める。

 誰のせいだよ。と言いかけた言葉を飲み込む。

「いや、本当に大丈夫だから。僕たちも座ろう」

「……うん、そうだね」

 いつまでも突っ立ってるわけにもいかないし、僕は朝田さんを促してパイプ椅子に向かう。ちょうど列の端が空いていたから、端っこが僕、その隣に朝田さんと並んで座る。

 朝田さんの反対側の僕の隣、何もないところに永太は立ってる。

 朝田さんの隣には朝田さんの友達の女の子がやってきて腰をかけた。朝田さんがその子と小声で話し始めたのを見て、僕も小声で隣の永太に話しかける。

「なんでここにいんだよ」

「だって、他に行くとこないし」

 それはそうかもしれないが、僕にしか見えてないとか言いながらこれじゃやりにくい。さっきみたいにうっかり話しかけてしまうかもしれないし、なにより本人の幽霊に見守られながら葬式に参列なんて変な話だ。

「別にいいじゃん、ちゃんと静かにしてるから。退屈だったんだよ、みんな俺のこと見えないからさ」

 そう言われると僕は返事に詰まる。

 誰も自分のことが見えていないというのは、どういう気分なのだろう。

 永太はもともとかなりの寂しがりで、いつも僕や野球部の誰かと行動していた。こいつ顔が良いし人気があるからほっといても人に囲まれてるんだけど、一人になりそうなタイミングでは必ず僕のそばに来る。なんでって聞いたら退屈だからと。本当は寂しいんだ。永太の家はひとり親だから、子どもの頃からよくうちに来て一緒に遊んでた。

 そんな永太が大勢の人に囲まれながら、誰にも認識されないというのは、とても辛かっただろう。

「わかったよ」

「よかった」

 永太が嬉しそうに笑う。

 僕はこの顔に弱い。喧嘩したりして永太に腹を立てた後も、謝ってきた永太がこうして笑うので結局なんでも許してしまうのだ。

 そういえば、僕が最後に見た永太の顔はどんなのだっただろう。最後に永太と会ったとき、どんなやりとりをしていたっけ。

「永太」

 気になって訊ねようとしたら、ざわついていた式場が静まり返った。

 違和感に気づいて辺りを見ると、お坊さんが入ってきていた。ゆっくりとした足取りで、永太の棺の前に向かう。

「始まるみたいだね」

 永太が言う。

 しんとした式場で返事は出来ないので、僕は頷いた。

 自分の葬式を見るのはどんな気持ちなのだろうか。

 お坊さんは式のやり方を簡単に説明してから念仏を唱え始める。木魚を鳴らしてたまに小さい銅鑼のようなものを鳴らす。

 周りからは啜り泣く声が聞こえてくる。朝田さんも泣いている。

 みんな生前の永太のことを思い出しているのだろうか。それとも、もう会えないと悲しんでいるのかな。

 僕も隣に永太の姿がなければ泣いていたのだろうか。

 永太は何も言わずお坊さんの方を見ている。立ったままで疲れないのだろうか。幽霊は疲れないのかな。

 長い長い念仏の間、僕の頭はとっ散らかったままだった。生きていたときの永太のこと、隣にいる永太のこと。答えのないことばかり考えていた。

 まもなくみんなが順番に焼香をしに行く。まず永太のお母さんが焼香をして、そのあとに学校の人たちが続いてゆく。やり方がわからない僕は、前の人たちのやり方を注意深く見る。

 お辞儀をして、何かを摘んで撒いてる、のかな。

「あれ、なにやってんの?」

 と永太は呑気に言う。僕だってわからない。

 僕の前は朝田さんだった。朝田さんはハンカチで顔を押さえながら、滞りなく焼香をしたように見える。初めてだと言っていたけれど、そんなものなのかな。

 僕の番が来て、立ち上がる。祭壇のようなところに向かうと、永太が隣についてきた。

 なんだ来たんだよ。お前のための焼香なのに、なんで隣で見ているんだよ。

 木屑のようなものを指で摘み、焼けた石に焚べる。煙が上がる。

「これになんの意味があるのかな」

 永太が隣で呟く。

 僕はそれに答えない。その質問の答えを知らない。目の前で念仏を上げるお坊さんも何も言わない。お坊さんにも永太の姿は見えていないのだろうか。それとも見えてて無視してるのかな。

 他の人がしているように、僕はぺこりと頭を下げる。隣に永太がいるのに。たぶんこの一礼は死者に向けての一礼なのだろう。それなら永太に向けてお辞儀するべきじゃないのか? と頭を上げてちらりと永太を見る。すると永太は、困ったような顔で笑い、

「俺はここにいるのに、なんだかおかしいね」

 と言った。

 そうだな。僕もそう思う。

 僕は振り返り、参列している人たちに向かって頭を下げる。

 他の人たちと同じように自分が座っていた席に戻る。当たり前のように永太は僕の隣に立つ。

 お前、あそこにいなくていいのかよ。自分の葬式に来た人たちの顔を真正面から見なくていいのか? そう訊ねたくても、そんなこと口には出せない。

 変な目で見られるかもしれないというのも理由の一つだ。けれども本当は、僕が、死んだはずの永太がまるで生きているようにそこにいて、ぺこぺこ頭を下げられる姿を見たくないんだ。

 祭壇に向かい頭を下げる人たちの背中を眺めながら、どうして僕にだけ永太の姿の見えるのか考える。誰かの前に現れるなら、もっと相応しい人がいるんじゃないのか? お前のお母さんとか、お前のことを好きな女の子とか、お前のことを思って泣いてる人がこんなにたくさんいるのに。

 どうして僕なんだろう。

 長い長いお経を聞きながら、

「なんだか眠くなってきちゃうね」

 と隣で呟く永太の声を聞く。

 お前が隣にいなければ、僕もそんなことを考えていたかもしれないけれど。

 単調で何を言っているのかわからないお経がリズミカルな木魚の音と一緒に続くのだ。ああ、お前が生きて隣にいたら、そうだなって小声で返してたのにな。


 全員が焼香を終えると、計ったようにお経がまもなく終わった。そういうものなのかもしれない。

 お坊さんは

「若い方を亡くした悲しみは計り知れません。けれども、亡くなった方は我々を見守ってくれているので、前を向いて生きることが供養なのです」

 とかなんとか、そんな感じのありがたい説教をしてくれた。

 実際いま僕の隣で見守ってくれていると言ったら、みんなどんな反応をするのだろうか。

 朝田さんなんかは真面目だから、ふざけないでと怒るかもしれない。僕は朝田さんが怒っているところを見たことがないが、さすがにこんなところでそんなことを言い出したらいくら温厚な朝田さんだって怒り出すだろう。

 それくらい突拍子もないことなのだ。

 そんなことをぼうっと考えていると、席を立つように指示された。この後は永太の棺の中に花を入れるから、その準備をするのだそうだ。

 朝田さんは隣に座ってた友達と少し離れたところに行ってしまった。心配そうな顔をして、僕にも声をかけようとしてくれていたけれど、僕は苦笑して断った。

 僕が一人でいるのを気にかけてくれているのかもしれないが、むしろいまの僕は一人の方がいいのだ。

 だって、僕の隣には永太がいるし。

 朝田さん一人ならば良いけれど、あまり親しくない女の子の前でうっかり永太に話しかけてしまったら、白い目で見られてしまうかもしれない。それに、あまり女の子とばかり一緒にいるのもなあ。僕の親だっているし。周りの目が気になる。

 もちろん永太以外の男友達だっているけど、あえてベタベタしに行くのも変じゃないか。

 ちらりと隣の永太を見る。永太は式場をぼんやりと見ていたので、僕もそれに倣うようにぼんやりと準備が進むのを見ていた。

 

 そうこうしている間に、永太の棺が葬儀場の真ん中に運ばれる。

 僕はこの葬式場でそのなかを見ていなかったから、実は中身が空っぽなんじゃないかと疑っていた。

 だって、それの中身はいま僕の隣に立っている。

 しかしまったくそんなことはなく、水色の棺のなかには、綺麗な顔をした永太が眠っていた。

「俺だね」

「うん」

 永太のお母さんや、周りの人たちが啜り泣くのを尻目に僕たちは遠巻きに棺を覗いてそんな話をした。

 僕は棺のなかの永太と、隣にいる永太を見比べる。

 棺のなかの永太は、永太の家で見たときと変わらずなんだか笑っているような顔で目を瞑っていた。

 僕の隣の永太は、くっきりとした二重の垂れ目をこちらにむけていつものように小首を傾げて見せる。

 棺のなかの永太は、なぜか学生服を着ているので格好も同じだ。死装束って白い着物みたいなのを着るものだと思った。隣にいる永太とは肌の色くらいしか違いがない。

「生きてるみたいだ」

 と僕が永太に向けて言うと、僕のそばにいたクラスメイトがわっと泣き出した。

 僕は幽霊の永太のほうが生きてるように見えるという意味で言ったのだけれど、どうやらクラスメイトには違う意味で捉えられたらしい。たぶん、永太の遺体が生きてるように見えるという意味で。僕も最初に見たときはそう思ったけどさ。

「木下ってこういうとき泣くんだなあ」

 と他人事のような顔をして永太が言う。泣き出したクラスメイト、木下はいつもムスッとしていて永太や僕たちのグループを遠巻きに見ていたので、永太のことを好きではないと思っていた。だから僕も永太と同感だった。

 こいつの方がよっぽど悲しんでいるように見える。僕は今、悲しいのだろうか。

 やがて、永太の周りに敷き詰めるための花が配られ始める。さっきまで祭壇に飾られていた花のようだ。

 ピンクや白や黄色。淡い色ばかりで、僕が知っている永太の印象とあまりにも違う。学生服の紺色、ユニフォームの青色。永太の部屋も子どもの頃からあんまり変わっていないから青とか黒とかそういう色ばっかりだった。仏花というのは、故人の好きな色は選んでもらえないらしい。

 そして、僕の元には、永太のお母さんから白い大きな花が手渡された。 離れていたところにいたせいか、どうやら僕が最後のようだ。

 永太にこんな真っ白い花は全然似合わない。僕は花に詳しくないから、じゃあどんな花が似合うかと聞かれたら困ってしまうけれど。ひまわりとか、たぶんそういう花のほうがいい。

「顔の近くにおいてあげて」

 言われた通りに僕はその白い花を永太の顔の横に置く。

 甘い匂いが鼻をかすめる。棺に敷き詰められたたくさんの花から香ってるようだった。花がこんなに甘い匂いを放つと僕はこのとき初めて知った。 

「いい匂いだなあ」

 と永太が言った。 

 僕が離れると永太の棺に蓋が用意される。

 ゆっくりと永太の身体が重たい蓋の下に消えてゆくのを、みんな泣きながら見守っている。

 朝田さんは友達と肩を寄せ合いながら、永太のお母さんは僕の母さんに支えられながら、みんなじっと永太のことを見ている。

 僕は棺が閉じるその瞬間、永太のことを見ていた。僕の隣に立つ方の永太のことを。

 永太は僕を見ていた。笑っているように見えるが、なにを考えているのかよくわからない。いつも通りに見えるのだけれど、こんなときにいつも通りのやつがあるかよ。

 棺に向き直ると、もうぴったりと蓋は閉じられていて、永太の姿はもう見えなくなっていた。

 

「よかったら、火葬にもついてきてくれない? うちは身内がいないから、一緒に見送ってあげて欲しいの」

 永太のお母さんが、僕と僕の母さんにそう訊ねた。

 火葬は身内だけで済ますものなのか。僕はこのときそれを初めて知った。他の級友たちはみんなぞろぞろと帰り始めている。朝田さんもそのなかの一人で、心配そうにこちらを見ている姿と目があった。

 大丈夫だよという気持ちを込めてひらりと手を振ると、彼女も手を振り返してくれた。

 僕と母さんは特別に断る理由もないので、火葬場までついて行くことにした。

 それに、永太がずっと僕の隣にいるから、なんとなく、行かなきゃいけないような気がしていた。

 なんで、いつまで、いるのだろうか。僕にはそれがわからない。本人に聞ければいいのだけれど、僕が今ここで、お前なんでここにいるのって、なんか未練でもあるのって、そんなこと口に出したら、永太が初めに言ったように変な目で見られるに決まってる。

 


 永太のお母さんは霊柩車に乗って火葬場に向かうため、僕と母さんはタクシーに乗って向かうことになった。

 母親同士がやり取りしている間、僕は永太に訊ねる。

「お前はどうやって行くの」

 そう声に出してからおかしなことを聞いたなと思った。だって永太は幽霊なのだ。でも、こいつは僕が思い描く幽霊のように飛んだりしない。地に足をついて歩いている。だからなんとなく、置いて行ったらいけないような気がしたのだ。

「あはは、なんでそんなこと聞くの。俺、幽霊なんだけど」

「そりゃそうだけど。でも、お前、飛んだりしないし」

「うん、そうだなあ。母さんの方の車空いてるし勝手に乗っちゃおっかなって、思ってるよ」

「そうなのか」

「だって望の隣座ろうとしてうっかりお前の母ちゃんの膝の上とか乗ったら嫌じゃん」

 僕はなんとなくその様子を想像してみる。永太が母さんの膝の上に乗るくらいならまだいい。でも、もし先に永太が座ってる席に母さんが座ってきたら? すり抜けてしまうのだろうか。ホラー映画で見る幽霊のように。

 僕はそれを見たとき、怖がればいいのか、悲しめばいいのか、シュールさに笑えばいいのか、いまいちしっくり来なかった。

「たしかに。自分の親の膝にお前が座るの嫌だな」

「だろ? じゃあ、また後で」

「ん」

 僕が頷くと永太は永太のお母さんのほうに行ってしまった。歩いて。

 永太のお母さんは永太のことを見ない。見えていないから当然なんだけど。永太のお母さんにも永太の姿が見えていたらいいのに。

 僕は二人が並んでいる姿を見ていられなくて目を逸らした。

 まもなく母さんがやってきたので、僕たちは二人でタクシーに乗り込み、火葬場に向かった。

 母さんはタクシーのなかで僕のことを気にかけてくれたのだけど、僕はたぶん、そんなに悲しんでいないのだと思う。

 永太が死んだって聞いてからずっと、泣いたり取り乱したりしていない。

 もしかしたら僕が薄情だから、永太は化けて出てきたのかな。

 

 火葬場は町外れの森のなかにあった。

 古く色褪せたコンクリートの平屋の建物から、にゅっと煙突が生えている。

 火葬場の前は駐車場になっているのだけれど、大した整備がされていないように見えた。地面もコンクリートじゃなくて土で、あちこちから草が生えてる。

 車も全然停まっていないしなんだか寂しい場所に見える。

 その駐車場の真ん中で、先に着いていた永太が煙突を見上げていた。

 まっすぐ火葬場に向かう母さんにはついて行かず、僕は永太のほうに向かう。

「でかいね」

 と僕は永太に声をかける。

「そうだなあ」

 永太はそう言ってから僕を見る。

 僕は軽くあたりを見渡してから、周りに誰もいないことを確認する。みんな火葬場のなかに入ったらしい。

「今なら人がいないから話せるな」

「うん」

「なんで幽霊になったの」

「わかんないよ。気づいたらなってたんだから」

「そういうもんなの?」

「そういうもんみたい」

「なんで僕にしか見えないんだよ」

「それもわかんないよ。なんで望は俺のこと見えるんだろうな」

「なんか、未練とかあるの」

「そりゃあるよ。たくさん」

「そりゃそうか」

 あっけらかんと永太は言うが、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。言われてみれば当然だ。だって永太はまだ僕と同い年なのだから、やりたいことがあるに決まっている。

 本当はもうすぐ野球の試合があると言っていた。僕に応援に来てくれよと笑っていたのを覚えている。来月発売のゲームを心待ちにしていた。CMを見て一緒に対戦しようと話をした。

 ほかにもきっと、たくさんやりたいことがあったはずだ。

「だから俺、このままずっと望のそばで幽霊してるかも」

 永太はいつものように笑って、そう言った。

「……なんでだよ」

「未練が晴れないから?」

「それにしたって、なんで僕のそばなの」

「だって他の人のは俺のこと見えてないから、つまんないじゃん」

「……お前、死んでも寂しがりのままなのな」

「別に寂しいわけじゃないけどさ」

「ふうん」

 素直に認めないところもなにも変わらないのだなあ。そう思うともうこれ以上なにかを訊ねる気にもならなかった。

 あまりにもいつもと変わらなくて、やっぱり永太は永太なのだなあと思う。死んだのも幽霊なのも、なにもかも嘘みたいだ。地に足をつけて立ってるし。

 そこで、ふと一つ気になることが思い浮かぶ。

「あ、そういえばさ」

「なに?」

「お前って触れるの?」

 幽霊って触れないっていうし。でも、こんなに生きてる姿となにも変わらないのだから、触れそうな気がする。

「どうだろ、俺からは触った感じあるけど」

「試してみていい?」

「うん、いいよ」

 笑う永太に、僕は手を伸ばす。

 こういうとき、どこを触ればいいのだろうか。頭? 顔? 手? 改まって人を触ることなどないから、少し緊張するな。

 おそるおそる、僕がその頬に触れようとしたとき、

「望ー! そろそろ始まるから来て!」

 と母さんの呼ぶ声がした。

 僕はそこでぴたりと手を止めて、頭を掻く真似をした。

「わかった!」

 と火葬場に向かって向き直る。

「……また後で、試すね」

 火葬場に向かいながら、僕は隣を歩く永太に小声で伝える。

「うん」

 永太も僕に合わせているのか、小声でそう言った。


 火葬場の中はしんとしていて、母さんと僕の足音がよく響いた。

 がらんとしたエントランスから少し歩いたところに、火葬炉があった。

 エレベーターのドアみたいな銀色の両開きの扉の前に、永太の水色の棺がある。

 永太のお母さんは棺の前で俯いていて、その横にお坊さんと火葬場の係の人がいた。

 お坊さんがお経を唱える横で、もう一度お焼香を上げる。

 三人で順番にお焼香をすると、火葬炉の扉が開いた。

 奥の方は暗くてよく見えないけど、銀色でテレビで見たピザ窯になんだか似ている気がする。あそこで永太が焼かれるのか。

 棺が火葬炉の中に入ってゆく。

 僕は永太と並んでそれを見送る。

 あれが燃えてしまったら、永太はどうなるのだろう。一緒に消えちゃったりするのか?

 ちらりと永太を見るけれど、別に変わった様子はない。熱そうとか、苦しそうとか、そんな様子もない。

 声をかけたかったけれど、お坊さんと永太のお母さんの啜り泣きしか聞こえないここでは、出来なかった。


 あと一時間ほどかかるからと待合室に通されたけれど、僕はあまりの息苦しさにすぐに外へ逃げ出した。

 どうしてこんなことになってしまったのか、何が悪かったのかと自分を責める永太のお母さん。僕の母さんが慰めているのだが、居心地が悪すぎる。

 それに、永太とも話せない。

 がらんとした駐車場の隅にあった植え込みに腰掛け、溜め息を吐いた。

「お疲れ」

「誰のせいだよ、誰の」

「俺のせいか」

「そうだよ、お前のせい」

 笑う永太を蹴飛ばしてやりたくなり、軽く足をぶつけると、はたしてそこには永太の足の感触があって、僕は永太の顔を見た。

「触れたね」

「うん。あるんだな、幽霊も、足」

「ね」

 永太は笑っている。僕は、どんな顔をしているのだろうか。永太の目を見ても、その目に映ってる僕の表情まではわからない。

 触れるのに死んでるなんて、いよいよ死んだことが嘘みたいに思えてくる。

 悪い夢を見ているようだった。

「……永太、なんで死んじゃったの」

「心不全らしいけど」

「元気だったじゃん」

「そうかな」

 僕は言葉に詰まる。

 本当にそうだっただろうか。

 薄情な僕は、永太と最後に会ったとき、どんな話をしたのか、どんな顔をしていたのか、覚えていないのだから。

「……違ったのか? 僕が、それに気づかなかったから、だから僕の前にいるのか?」

「それは、わからないけど」

「……なあ、僕はお前と最後どんな話してたっけ? 思い出せないんだよ」

「思い出せないってことは、大した話じゃないんだよ。俺だって、よく覚えてない」

「本当に?」

「うん」

 永太はそう言うが、僕はどうしても思い出したかった。

 あの日、何があったっけ。

 いつも通り学校に行って、いつも通り永太と帰った。そのはずだ。

 本当に、本当にそれだけだっけ?

 もっとよく思い出せ。

 いつも通り学校に行って、クラスメイトに挨拶して、そうだ、今隣の席が朝田さんだから朝田さんに最初に挨拶したんだ。それで話す機会が増えて、嬉しくて、改めて朝田さんのことを好きだなって、思って、

「思い出せなくてもいいじゃん。今、こうして話せてるんだから」

「でも、お前との、最後の」

「最後じゃなくない? 今日いっぱい話したじゃん」

 それとこれとは話が違うんじゃないか? 死ぬ前のお前としてた最後の会話だぞ。と頭によぎったけれど、でも、それ以上に永太の言葉がすとんと腑に落ちてしまった。

「……たしかに」

「な?」

「うん」

 今、目の前に永太がいて、永太と話してるのだから、それでいいような気がした。僕も永太も覚えていないのだから、もう誰にもわからないんだ。

「そんなことよりさ、」

 と永太がたわいの話をし始める。この前プレイしたゲームの続きが気になるから僕に代わりに進めてほしい。それを隣で見てるから。

 そんな話をしていたら、あっという間に一時間が経っていた。


 呼びに来た母さんと一緒に火葬炉に戻る。

 永太のお母さんは火葬炉の前で俯いていた。

 まもなく火葬場の係の人が来て、エレベーターのような銀色の扉が開く。

 中から現れたのは銀色の台に乗った白い骨。

 それが見えた瞬間、永太のお母さんは声を上げて泣き出した。大人もこんな子どもみたいに大きな声で泣いたりするのかと、僕はびっくりしてしまった。

 対して僕は永太の骨を目にしてもやはり涙が出てこない。というか、これが永太のものと言われてもいまいちピンとこない。

 永太の入っていた水色の棺もなくなっていて、永太の身体と一緒に燃えてしまったのだと理解は出来てもどうにも腑に落ちない。

 僕は隣に並ぶ永太を見上げる。

 僕が見上げているのに気付いた永太は僕に向かって小首を傾げる。

 僕はそれに、なんでもないと首を振り返す。

 僕より少し背が高く、体格の良い永太。

 これが全部燃えたらこうなるなんて、いくらなんでも信じられない。

 それに、焼けた肉の臭いはひどいものだと聞いたことがあったけど、永太の骨からは甘い匂いがした。

 ますます作り物じみてる。

 火葬場の人はてきぱきと銀色のトレイのようなものに骨を移してゆく。そして、永太のお母さんが泣き止むのを待たずに、永太の骨をどれがどこのものだとかの説明をし始める。

 しかし、学校で見た骨格標本の骨とは全然形が違うなあ。焼けて崩れてなにがなにやら説明されてもわからない。

 永太のお母さんが泣いてしまって動けないでいるので、先に僕と母さんが永太の骨を拾うことになった。二人で骨を拾うというのは、昔食事のマナーを親に教わったときに聞いたことがあったので、これがそれか、と思う。

 永太の骨の前に、僕と、永太と、母さんの三人で並んで立つ。

 永太は後ろで待っていればいいのに。自分の骨を見てみたいのだろうか。

 火葬場の人に言われた通り、銀色の長い箸で、永太の太ももの骨だと言われたものを摘まむ。

 思ったよりも永太の骨は軽かった。

 銀色のトレイから白い骨壺に骨を移す。からんと音を立てて、骨壺の中に落ちる。

 それから、母さんが永太のお母さんの肩を支えながら二人で箸を握って、もう一度永太の骨を骨壺に移した。

 そのあとはあっという間に火葬場の人が骨を骨壺に入れておしまい。永太の骨は骨壺に入りきらなくて、火葬場の人が銀色の箸でなかの骨を潰して納めていた。

 これだけでかいのだから、そんな小さなところに収まりきらないのも当然だよな。

 そう思いながら僕はその様子を見ていたのだけれど、母さんたちは目を背けていた。

「俺、こんなにちっちゃくなっちゃったね」

 と永太が言った。

 

 骨壷を抱えた永太のお母さんは目を真っ赤にして、

「今日はありがとう」

 とか細い声で言った。

 後はタクシーで家に帰るだけだった。

 僕は親の前で永太と話すわけにはいかないので、トイレに行きながら永太にこれからどうするのかと訊ねた。

「家にいても母さん俺のこと見えないし、望むんち行きたい。良い?」

 と言われたので、別に僕以外には見えないのだから人が一人増えたって構わないだろうと頷いた。

 でも、タクシーに乗りきれないのは嫌だからと、ここに来るときと同じように永太のお母さんと車に乗るとのことだった。

 あとでうちに来るらしい。

 タクシーに乗る間際、永太のお母さんに呼び止められる。

「望君も、ありがとう。ゆっくり休んでね」

「……どうも」

 なんて返したらいいのか言葉に詰まって、小声でそう言って、会釈をした。

 さっきまであんなに泣いていたのに、僕を気遣うなんて出来た人だな。僕よりもよっぽど悲しんでいるのに。

 そんなことを考えていると、永太が僕に向かって手を振りながら、

「あとでね」

 と笑っていた。

 僕はそれにもなんて返したらいいのかわからなかったので、軽く手を挙げておいた。

 返事をしたら、母さんから変だと思われてしまう。

 そうして乗り込んだタクシーで、

「悲しすぎるときって、涙が出てこないこともあるんだよ」

 と、母さんに言われた。

 やはり、心配されているらしい。

 母さんから見た僕は、無理しているように見えているのだろうか。それとも、急に何もないところを見たりしているのをおかしいと思われているのだろうか。

 それとも僕はおかしくなっているのだろうか。永太は幽霊なんかじゃなくて、僕の見ている幻覚かなにかなのだろうか。

「……ねえ母さん、幽霊っていると思う?」

 僕は、なんともないような顔をして母さんに訊ねた。

 母さんは少し考えてから、

「……いたらいいね」

 と笑った。そして、

「四十九日になったらあの世に行くらしいから、それまでは、永太君は望のそばにいてくれてるかもね」

 と母さんは続ける。

「そうだと、いいな」

 あの世に行くまでの暇つぶしを僕のそばで永太がしてるのなら、いいな。と思った。


 結果としては、まったくそんなことはなかった。

 家に帰ったら永太がいた。

 夜寝てから朝起きても永太はそのままだった。

 さらに四十九日を過ぎても、永太は僕のそばにいた。

 四十九日に永太の骨を墓に納めるときだって、永太は僕の隣で一緒に墓の下に骨が仕舞われるのを見ていた。

 

 僕の日常は変わった。

 いつも隣に永太がいるようになった。四六時中、というわけではないが。風呂とかトイレとかにはついてこないし、たまに突然いなくなることがある。

 それでも、ほとんど一緒にいる。

 学校にいるときは、自分の席だった場所に座ったりしてる。生きてるときと変わらないので、僕は時々永太が死んだことを忘れて普通に話しかけてしまいそうになった。

 そんな様子の僕だから、クラスのなかではいつのまにか孤立していた。

 朝田さんは永太が亡くなってすぐの頃は、気を使って僕に声をかけてくれていた。でも、会話が弾まなくなった。前はあんなに楽しかったのにな。ただの雑談が噛み合わない。

 僕の日常には永太がいるのが当たり前になっていて、永太をいないものとして振る舞うにも限界があった。うっかり永太の名前を出しそうになって口ごもったり、永太の姿を目で追ってしまう。

 永太の死でショックを受けたと思われたのか、それとも頭が変になったと思われたのかはわからないが、少しずつ距離が空いていって、今は挨拶くらいしかしない。

 そんな日常に僕はすっかり慣れてしまって、もうどうでも良くなっていた。

 教室では、とっくにみんないつも通りになっている。僕もこれがいつも通りになっている。

「なあ、帰ったら昨日の続き見せてよ」

 と永太が話しかけてくるのに頷きを返す。昨日の夜遅くまで二人でゲームしてたんだ。

 僕がこうして永太と話している隣の席で、女子グループが集まってちょっと前から流行ってる恋のおまじないの話をしてる。

 この女子グループの中心にいる子は永太のこと好きじゃなかったか? それがもうこんな話を出来るくらい元気になってるのか。

 まあ、そんなものか。

 僕が新しい日常に慣れているのと同じように、みんなにも日常があるんだ。

 僕は永太を見る。

 永太はいつものように小首を傾げて僕のことを見下ろす。

 僕の隣に永太がいる。

 僕にはこれだけでいいような気がした。

 

 

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