第72講 歴女と王子と“止めてくれる声”と『太宗(李世民)』

 それは、成功の直後に起きた。


 その日、王宮の執務室は、朝から妙にざわついていた。

 書類を抱えた官僚たちが走り回り、国務大臣マクシム・ピエール卿、内務大臣エマヌエル・プリエスト卿、財務大臣ジャン・B・コルバール卿を中心に大臣クラスが大勢集い、声を荒げ、

 ほぼ不在の国王席、その隣の宰相席では老ビルス宰相が、丸い額を何度も撫でまわしながら深いため息をつき、ケイ王子絶対肯定イエスマンの女官リョーキューはあたふたしている。


 そして国王代理でよりにもよって王子席に座っていたケイ王子が――。

「よし! それでいこう! 国のためだし、問題ないだろ!」


 満面の笑みでそう言い放ったのが、ケイ王子だった。


「……殿下、それはあまりにも急すぎます!」

「医療制度の時はうまくいったでしょ!? 今回も同じだよ!」


 どうやら王子は、先日の感染症対策の成功ですっかり自信をつけてしまったらしい。

 “正しいことをした”“国民に感謝された”――その成功体験が、判断を一段飛ばしにさせていた。


(あー……来たな、これ)


 私は少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 王子が出した命令は、確かに理念としては間違っていない。

 だが、相談も調整もすっ飛ばした独断だった。


 結果、行政は混乱し、財政部門は悲鳴を上げ、外交筋からは早くも不穏な空気が漂い始めている。


「コヒロ! これ、間違ってないよな!?」

 助けを求めるように、王子がこちらを見る。


 私は一瞬、言葉を選んでから答えた。


「……“間違ってない”って言葉ほど、危険なものはないんだけどな」

「え?」


 私は一歩前に出て、静かに告げた。


「王子。その理屈で、一度国を滅ぼしかけた“名君”がいる」


 王子の目が、ぱちりと見開かれた。


「名君……?」


 ――来た。

 久々の、あれをやる時だ。

 私は軽く息を整え、声の調子を落とす。


「少し、昔話をしようか」



 *



 ――すーっと、憑依魔術という名の演技を始める。


「我は李世民。唐の第二代皇帝、太宗である」


 自分でも分かる。

 声が、いつもと違う。


「史書には“名君”と書かれ、理想の皇帝と称えられる。だが……我ほど、自分を疑い続けた王もいない」


 王子は、息を呑んでこちらを見ている。


「我は兄弟を殺して皇帝になった。正義のためだと信じて。

だが、その瞬間から分かっていた。――“正しいと信じる自分”ほど、信用ならないものはないとな」


 教室が、静まり返る。


「だから我は、あえて置いた。我を否定する人間を」


「否定……?」


「魏徴(ぎちょう)という男だ。我がどんな政策を出しても、面と向かって反対した。時には、皇帝である我を叱り飛ばした」


 私は、王子の方を見る。


「分かるかね? 王にとって一番怖いのは、反対意見じゃない。――“誰も止めなくなること”だ、と」


 憑依した声で、静かに言い切った。


「忠臣とは、耳に痛いことを言う者だ。それを遠ざけた瞬間、王は独裁者になるのだ」


 ふっと、空気が戻る。


 私は肩の力を抜き、いつもの口調に戻った。


「……ってわけだ」


 ケイ王子は、しばらく黙り込んでいた。


 やがて、小さく口を開く。

「……僕、間違ってた?」


「“善意”ではあった。でもな」


 私ははっきり言った。


「今のは、確認を怠った正義だ」


 王子は何も言い返さなかった。


 しばらくして、深く頭を下げる。


「……ごめん。急ぎすぎた」


 その一言に、リョーキューとビルス卿が同時に息を吐いた。

 命令は修正され、関係各所に謝罪が入り、事態はどうにか収束した。


 *


 夜。


 王子は一人、窓際に立っていた。


「なあ、コヒロ」

「ん?」

「王様ってさ……正しいことを言う役だと思ってた」


 私は首を振る。

「違うな。正しいかどうかを、確かめ続ける役だ」


 王子は、少し考えてから言った。

「……止めてくれる声、必要なんだな」

「そうだよ。それを欲しがれるうちは、まだ大丈夫だ」


 王子は、小さく笑った。


「じゃあさ。これからも、止めてくれよ。僕が調子に乗ったら」

「はいはい。その代わり、聞けよ?」

「聞く!」

 即答。


 私はその横顔を見て、心の中で思う。

(李世民は“強い王”だったんじゃない。自分の弱さを知っていた王だった)


 ――さて。

 この世界の王子は、どこまで行けるだろうか。


 少なくとも今は、“止めてくれる声”を手放していない。


 それだけで、歴史的には上出来だ。

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