第71講 歴女と王子と“見えない敵”と『山内保』

 アシュリー先生の部屋の扉は、閉じられたままだった。

 ――いや、正確に言うなら「閉じられている」のではない。

 開けてはいけない空気が、そこに張りついている。


 王宮の回廊は静まり返っていた。

 いつもなら、どこかで紙の擦れる音や、下働きの足音がする。

 けれど今日は、異様なほど音がない。


 私は腕を組んで、扉を見つめていた。

(……咳の音が、悪化している)

 昨日よりも、確実に。

 高熱。

 止まらない咳。

 息が浅く、声が出ない。

 汗は出ているのに、手足は冷たい。


 ケイ王子は、扉の前で立ち尽くしていた。

「……まだ、起きない?」

 声が震えている。11歳の王子が、必死に“泣かない声”を作っている。

「今は寝かせておけ。扉越しでも聞こえるだろ。重い咳と、高熱でハァハァって喘ぐ声が」

 私は、事実だけを言った。

 慰めは、ここでは毒になる。


 その時、足音が近づいた。

「殿下。コヒロ殿」

 現れたのは、白髪混じりの壮年の男だった。

 王宮典医――ヒポクリオン。

 王宮で40年以上、命を診てきた男。

 魔導院の祈祷師ですら、彼の診断には口を挟まない。


 リョーキューも一緒だ。

 いつも冷静な彼女が、今日は表情を崩している。

「ヒポクリオン先生……」


 ケイ王子が、縋るように言う。

「ヒポクリオン先生! アシュリー先生は……」


 ヒポクリオンは一度、深く息を吐いた。

「……診察の前に、ひとつ確認させてください」

 低い、慎重な声。

「以前、アシュリー氏は――風邪をひいていらしましたね?」


 その言葉に、私の脳裏に映像が蘇る。

 ああ──そうだ。

 『北里柴三郎』を教えた回。

 アシュリー先生は、くしゃみが止まらず、リョーキューが薬草茶を淹れて、無理やり休ませていたな。

 その時は、数日で収まった。

 だから、誰も深く考えなかった。


「……ええ。確かに」

 

私が答えると、ヒポクリオンは声を落とした。

「アシュリー先生は――恐らく、重い病に侵されています」

 その場の空気が、凍った。


「重い……病……ですか?」

 リョーキューの声が、掠れる。


 ヒポクリオンは、はっきりと言った。

「――『氷神の吐息ヒュドラ・ブレス』」

「なっ……!」

 リョーキューは、言葉を失った。


 ……いや、ちょっと待て。

(なんだその、いかにもファンタジーな病名)


 私が混乱していると、ヒポクリオンは淡々と続ける。

氷神の吐息ヒュドラ・ブレスの症状は、高熱、咳、喉の痛み、鼻水、関節痛、筋肉痛、倦怠感、頭痛……適切な処置を行わなければ、死に至る病です」


 ケイ王子は、声も出せず、立ち尽くした。

 その小さな背中が、急に頼りなく見える。


 私は、一歩前に出た。

「ヒポクリオン先生。その……『氷神の吐息ヒュドラ・ブレス』って、この世界特有の病気なんですか?」


「ええ。古くから伝承にも残っています。氷神の怒り。神罰。そう扱われてきました」


 私は、眉をひそめた。


(……うん?高熱、咳、鼻水、関節痛、筋肉痛、倦怠感、頭痛……いや、それって……)

 嫌な予感が、確信に変わる。


「……あ」

 思わず声が漏れた。


「それ、私の世界のに、めちゃくちゃ近いっす」


 ヒポクリオンの眉が、ぴくりと動いた。

「ほう……?」

「ええ。冬頃に流行って、感染力が高くて、昔は――」


 私は、一気に言った。

「1918年。私の世界で『』って呼ばれた大流行が起きました。

当時の世界人口、約18〜20億人のうち、約3分の1が感染。

死者数は、2000万〜5000万人。研究者によっては、1億人に達したとも言われてます」


 部屋が、完全に沈黙した。


 ヒポクリオンは、低く唸った。

「……パンデミックで、数千万人から一億人が……恐ろしい……」


 そして、ゆっくりと言う。

「伝承では、『氷神の吐息ヒュドラ・ブレス』は、かつてアストレア大陸の半分を死滅させたと……魔導院では、神の怒りとして祈りを捧げ、聖イェルダン山脈で鎮めたと記されています」


 彼は、私を見る。

「……ですが、医学者として言わせていただく。これは、れっきとしたです」


 私は、内心で頷いた。

(さすがだ。魔法じゃなく、


「コヒロ殿が仰っていた……“”。その可能性が極めて高い」


 その言葉に、ケイ王子が、ようやく声を絞り出した。


「……ア、アシュリー先生……その病気で……死んじゃうの?」

 涙を堪える声。

「やだよ……僕……」


 リョーキューも、ヒポクリオンも、言葉を失った。


 ――だから、私は言ってしまった。

「……もし」

 全員が、こちらを見る。

「もし、その病気が私の世界のインフルエンザと同じなら……なんとかなる。……かも」

 言った瞬間、後悔しかけた。


 でも、ケイ王子は、顔を上げた。

「コヒロ!? マジ!? 本当!?」


 ヒポクリオンも、身を乗り出す。

「……コヒロ殿の世界では、その病を、どう収束させたのです?」


 私は、深く息を吸った。

「まず、。徹底した手洗い、うがい。マスクの着用。部屋の換気」

「ほう……」

「そして、決定的だったのは――原因が“”だと突き止めたこと」


 ヒポクリオンの目が、見開かれる。

「……ウイルス」


「目に見えないほど小さい、。それが体の中で増える。それを抑える薬――が作られた」


 私は肩をすくめた。

「まあ……あんなパンデミックだったからな。人類総出で、研究しまくって、ようやく辿り着いた答えだけど」


 ヒポクリオンは、深く感嘆した。

「…………人の力で、そこまで……」




 私はカーディガンを翻した。

「さて私の仕事、講義といこうか」


 全員の視線が集まる。


「世界で初めて、インフルエンザを“”だと突き止めた人物――山内保やまのうちたもつ


 黒板に、その名を書く。


。日本の医学者。彼がいなければ、“インフルエンザ=正体不明の呪い”のままだった」


 私は、ゆっくりと憑依魔術に入った。

 ――演技だ。でも、今はそれでいい。

「“見えないからといって、存在しないわけではない”」


 声の温度を落とす。

「細菌では説明できない感染症を追い続けた。失敗して、疑われて、それでも顕微鏡の向こうを信じた……」


 ケイ王子が、息を呑んで聞いている。


「“”ではなく、“”として病を捉えた。だから、対策ができた。だから、命が救えた」


 ヒポクリオン氏が、

「つまり、この方がウイルスであると看破したことで、ウイルスを殺す薬が作れたのですね?」

「ええ。そうです。ちなみに当時パンデミックの中、世界中の医者、学者たちがこの恐ろしいインフルエンザについて研究したおかげで、治療法や薬、ワクチンなどができたんです」


 私は、黒板に大きく書いた。

『見えない敵は、恐れるな。理解しろ』


「王子」

 私は、ケイ王子を見る。

「今、お前がやるべきことは、祈ることじゃない」

 ケイ王子が、唇を噛む。

「……じゃあ何を?」

「守ることだ」


 *


 その日のうちに、動きは始まった。

 私、ヒポクリオン、リョーキュー。

 そして、ケイ王子の名で、命令が発令された。

 ――ケイ王子が建てたが科学院と協力し、緊急稼働。

 研究対象:『氷神の吐息ヒュドラ・ブレス』(=インフルエンザ様感染症)

そして、『』『』『』……。


 全機関に通達。


・安眠と休息

・水分補給

・栄養補給

・室温20〜25℃

・湿度50〜60%

・定期的な換気


 さらに、王国内全域へ。


・不要不急の外出を控える

・学校は臨時休校

・手洗い、うがい

・マスク着用


 王国内にある全新聞──トラディア時報、王都レポート、科学院ポータル。

 ――そして。医科学とは相反すると言われていた魔導院広報版すら、緊急掲載。


 他国では、感染は拡大した。

 だが、トラディア王国は――食い止めた。


 *


 一週間後。

 アシュリー先生は、ゆっくりと目を覚ました。


「……殿下……?」

「せ、先生!!」

 ケイ王子は、抱きついて、泣いた。

「よかった……! ほんとに……!」

 アシュリー先生は、微笑んだ。

「……ご心配をおかけしました……でも……」


 彼女は、私たちを見渡す。

「殿下がわざわざ私なんかのために付きっきりで看病してくださったこと。ヒポクリオン先生、リョーキューさん、そして……コヒロさん」


 声はまだ弱いが、確かだ。

「皆さんが、私のために尽くしてくださったこと……一生、忘れません」


 そして、にっこり笑った。その表情には一筋の涙がきらめいていた。


「……さて。算術の授業の途中でしたね」

「うええ!?覚えてたのかよ~!」

 ケイ王子は、文句を言いながら、どこか嬉しそうだった。


 私は、その光景を見て、独り言を漏らす。


「……ケイ王子。大切な人のために尽くす王なんて、歴史的にも、なかなかいないんだよ」


 窓の外を見る。


「……お前は、優しい、良い王になるだろうな」

 そして、もうひとつ。

「……それにしても。今までケイ王子がノリと勢いで建ててきた医療機関が、ここまで役に立つとはな……」


 私は、小さく笑った。

 ――歴史は、“人を守ろうとした行動”を、ちゃんと覚えている。

 それが、医学であれ、王の決断であれ。

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