俺の名は……ルイ13世

桔梗 浬

未知なる未来と呼ばれる酒

 カラン……。

 氷が溶け、グラスの中で音を立てた。


 俺は独りカウンターで白州のハイボールに酔いしれている。

 今夜は家に帰りたくない。かと言って女遊びをする勇気もなく、初めて入ったバーで時間を潰していた。


「マスター、もう一杯」


 俺は空になったグラスをマスターに差し出す。

 ここは居心地がいい。静かに流れるジャズは耳に心地良く、壁一面に飾られた酒の種類の多さに圧倒されつつ、押し付けがましさがない所も気に入った。


「お客様、今日は特別な酒が手に入りましたので、もしよろしければお飲みになられませんか?」


 マスターは丁寧にそう言った。


「なぜ私に?」

「はい、差し出がましいかとも思ったのですが、何か思い悩む事がおありなのかと思いまして。このお酒はそういう方に飲んで頂きたい、とっておきのモノなのです」

「ははは。悩みなんて……悩みすらない事が悩みですよ」


 俺はそう応えながらも、財布の中身を気にしていた。持ち合わせはほとんど無い。

 カードは使えるのかを考えていた俺の顔を暫く見つめていたマスターは「お代はよろしいですよ。私がお客様に飲んでいただきたいだけですので」と、笑顔で黒く輝くボトルを俺の前にそっと置いた。


「これは……?」

「こちらは『レミーマルタンのルイ13世』です」

「あー、私は酒に詳しくないんで。それに高そうだ。もっと酒のことがわかる奴に振舞ってくれ」


 俺はそう言い手のひらをふりふりする。


 だがマスターは微笑み「あちらの女性からですよ」と女性に挨拶をする。

 そこにいつから居たのか、髪の長い女性が座っていた。


 赤いマニュキュア、赤い艶やかな唇。そしてカウンターの下にのぞく美しい足。その先に真っ赤なピンヒールを履いて、女は座っていた。

 こんなピンヒールで殴られたら、痛いどころの騒ぎではないだろうな、などと俺は思っていた。


「よろしければ一緒に飲みません? マスターお願い」

「かしこまりました。飲み方はいかがいたしますか?」

「私はロックで、貴方は?」


 女の美しさと、有無を言わせない迫力に押され、俺はご馳走になることを決めた。


「それでは……私は、ストレートでお願いします」

「かしこまりました」


 カラン。

 彼女のグラスが鳴いた。


「ルイ13世はコニャック地方で作られたブランデーで、厳選されたブドウを使って、2年以上熟成されたモノのみがコニャックと名乗ることができます。100年の熟成を持つ樽で作られたものもあり、シリアルナンバーを持つボトルもあるほど貴重なコニャックなのですよ」


 マスターは饒舌に話し始めた。

 この仕事を選んだだけはある。酒には詳しい様だ。


「こんな話はご存知ですか? 100年後に見ることができるルイ13世の特別な映画と音楽があることを」

「へー、それは気の長い話ですね」

「ルイ13世を造るには100年の歳月が必要ということをコンセプトに作られたそうで、映画の公開日は2115年だそうです。なんとも可笑しな話ですよね。まだ見ぬ『未知なる未来』にかけたお話であり、こちらはその題材にもなったお酒なのです」


 女はマスターの話に耳を傾けながら、指先で氷を揺らす。


「『未知なる未来』なんて、面白いわね」

「100年後なんて、忘れ去られるのがオチですよ」

「あら、世の中はそう捨てたモノじゃなくてよ」


 カラン。

 再び女のグラスが鳴いた。


「『未知なる未来』がお気に召さないのなら、『未知なる自分』というのはどう?」


 女はグラスを掲げ、俺に微笑みかけた。

 これは、俺を誘っているのだろうか? 帰りたくない俺の心を見透かされている様だった。

 毎日が平凡で何もない毎日。妻や子どもたちにとって俺は金を運ぶ空気みたいなものだ。

 そんな生活に疲れきっている自分がいる事を、俺は知っていた。


「自分を解放しろ、という意味ですかね。この酒が己を解放してくれる……と?」

「ふふ、そうね。ある意味キツめのお酒は、新たなる自分を解放する媚薬なのかもしれないわね。それに貴方が思うほど毎日は平凡でもなく、100年後は貴方の想像をはるかに超えるものかもしれないわよ。変わらないのはこの『ルイ13世』だけ」


 不思議だった。

 氷が溶ける様に俺の心がとろけていく。彼女の言葉には人を惑わす何かが、確かに存在していた。


「私の人生と交換しない?」


 柔らかく囁く声が耳元で聞こえた。


「えっ? 人生?」

「ふふ」


 彼女は意味ありげに微笑むと、俺のグラスを手に取りグイッとルイ13世飲み干した。

 そして「どうぞ」と、飲みかけのグラスを俺に寄越した。丸かった氷がゆっくりと溶け出したソレは、彼女の美しさと妖しさが混ざり合っていくかの様に見えた。


 彼女は俺を明らかに誘っている。「己を解放しろ」とまで彼女に言わせておいて、口説き文句の一つも出せない俺は、なんとも平凡以下だ。



 カラン。

 氷が溶ける音が俺を現実へと引き戻す。俺は少しの間眠ってしまっていた様だ。気づけば彼女の姿はなく、彼女が残したコースターの裏に連絡先が書かれているわけもなく、俺は俺を解放するどころか、平凡な毎日に戻るしか選択肢がない事に気付かされる。


 彼女が言った『私の人生と交換しない?』は、俺の聞き間違いだったのかもしれない。

 その言葉自体、意味のない事だったに違いない。


 俺はマスターに礼を言い、バーをあとにした。

 外の風は冷たく、熱った頬に気持ちがいい。


 ヨタヨタと歩く。

 見慣れた街並みに、深夜にも関わらず人だかりが出来ていることに気づいた。

 近づいてみるとパトカーが何台か止まっている。黄色いテープで境界線が出来ており、ブルーシートまで設置されている。


「何かあったのですか?」


 俺は寝巻きにコート姿の野次馬に声をかけてみた。


「どうやら殺人事件らしいっすよ」

「殺人……」


 俺はほんの少しの好奇心で野次馬をかき分け、もう少し近く前に進んだ。これも酒の力なのかもしれない。いつもの自分にはあり得ない行動だ。


「あんた……」


 先ほどの男が驚いた顔をしている。

 何故だ? 知り合いだったか?

 

 男の声をきっかけに周りがざわつき始め、徐々に人との間隔が開いていく。


「すみません」

「はい?」

「その手にしているモノを見せていただけますか?」


 制服警官が騒動に気付き、俺に話しかけてきた。左肩にあるインカムに何やら話しかけている。「ここにいてはダメだ」と俺の本能が叫んでいる。


 だが、俺は平凡な人間だ。

 国家権力に逆らう事などできるわけがない。

 

「コレは何ですか?」


 遠くで警官の声が聞こえる。

 これは酒のせいだ。

 俺は警官が目の前に差し出した赤いヒールを眺めるしかなかった。これはあの女が履いていたピンヒールだ。そのヒール部分はべっちゃりと何かが着いている。警官の白い手袋のコントラストが美しくさえ見える。



 俺は改めて差し出された紙袋をのぞく。

 その時にやっと違和感を覚えた。俺は仕事の帰りで、黒いカバンを持っていたはずだ。紙袋などどこで手にしたのだろう。


「暑までご同行願います」



 何人かの警察官、私服の男たちに捕まれパトカーに連れられていく。俺は他人事の様になされるがまま従うしかなかった。



「貴方、名前は?」



 女の刑事が隣に滑り込み、俺の顔も見ずにそう尋ねた。「失礼しますね」そう言うと、ゴソゴソと俺の鞄の中を物色する。

 これは夢だ。俺はバーにいて眠り込んでいるだけだ。

 俺は動かぬ頭で必死に考える。「目を覚ませ!」と何度も何度も呪文の様に唱える。



「緒方……沙月さん、どうしてこれを?」

「サツキ……?」



 俺はその時気づく。

 バックミラーに映る俺は、バーの女、彼女のソレそのモノだった。彼女は微笑んでいる。


「違う……俺は、俺の名は」





『私の人生と交換しない?』


 彼女の言葉が頭の中で響き渡った。




END

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俺の名は……ルイ13世 桔梗 浬 @hareruya0126

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