『未送信』

島原大知

2025_12_18

太陽の光は、僕の体を起こすためのものじゃない。


三階の部屋に差し込む白は、起き上がれないことを、ひとつひとつ検品するみたいに照らす。

カーテンの隙間から入った線が、床の埃の筋を浮かせ、机の上の紙束の角を際立たせ、ケーブルの絡まりを、昨日のままの形で保存する。


保存、という言葉がしっくりくるのが嫌だ。

保存できるなら、僕はもう少しマシな自分も残せているはずだから。


壁沿いに金属ラックが三つ。

段ボールの角がへたって、ガムテープの端がめくれている。

ラベルの剥げたHDD。黒い小箱に入ったマイク。

ネジの小袋が、種類ごとに輪ゴムで束ねられている。輪ゴムの色だけが新品みたいに鮮やかだ。机の下にキャリーケースが二つ、どちらも半開きで、ファスナーが最後まで閉まらない。

閉めようとして、途中でやめた痕跡がある。手の跡だけ残る。


寝巻きのまま床にいる。

フローリングが冷たくて、背中のほうからじわじわ上がってくる。

畳の冷えと違って、逃げ場がない。

窓の外で鳥が鳴き、すぐにやむ。やんだ隙間に階下の音が入り込む。

水が流れ、食器が触れ、誰かの足音が移動する。家はちゃんと動く。

僕のところだけ止まっているみたいに見える。


喉の奥に引っかかりが残る。

息を吸っても、吸った感じがしない。

壁の時計の秒針が鳴って、一秒ごとに頭の内側を叩く。

二階から上がってくる匂いがある。

洗剤の匂い、湯気、出汁。生活の匂い。三階は別だ。

消臭剤と埃と、機材の熱の残りと、灰の匂いが混ざって、どっちつかずのまま漂う。


消臭剤はタバコ用のやつだ。

甘い柑橘が、吸い殻の残り香を半端に包んで、どっちも中途半端にする。

嫌いなのに、使う。

棚の上のスプレー缶は、残量が軽い。押したときの手応えが軽い。


机の上に紙が散っている。編集のメモ。

撮影の請求書。領収書。封筒が数枚、角が揃っていない。

いちばん上に赤で「至急」。赤が強い。

見ていると目の奥がじんとする。赤の圧は、声に似ている。

声が紙になって置かれている。


スマホは伏せてある。画面は見えない。

見えないのに、机の上で小さく震えるたび、未返信の数字が増えた気配だけが分かる。

数字に返事はできない。できないのに、数字は増える。

増えることだけは止まらない。


いったん、スマホを掴んで、また戻す。指の腹が少し湿っている。

机の端をなぞると、木のささくれが触れる。

昔刺さった木片の痕が、指先の内側にまだ残っている。

そこに当たると、軽い痛みが返ってくる。痛みだけは、遅れない。


パソコンの電源ボタンを押す。短い起動音。ファンが回り始める。

いつもと同じ回り方なのに、今日はやけに耳に入る。

回転が安定するまでの数秒が長い。落ち着く前に、落ち着かなさが先に来る。


画面の中にフォルダが並ぶ。

継続、定例、毎月、隔週。フォルダ名は生活の形をしている。

クリックすれば開くのに、カーソルが上で止まる。止まっているあいだ、息が浅い。


隣に下書きのファイルが並ぶ。似た名前で、日付だけが違う。


返信_12-02

返信_12-08

返信_12-14


どれも送っていない。送っていないのに、日付だけが増える。

ファイルを選択すると、選択色だけが増える。

増えているのは色と日付だけだ。


「継続」の中を開き、すぐ閉じる。

契約書のPDFがひとつ見える。ファイル名に「更新」「自動」「年」の文字。

開かなくても内容が分かってしまう。

分かってしまうことが一番厄介だ。分かっているのに手が動かないから。


切る、と頭で言う。口に出すほどの体力はない。

切ること自体はメール一本で済む。

メール一本で済むはずなのに、封筒の赤と、契約書のファイル名と、請求書の数字が同じ机の上に並んでいる。

並んでいるものは話し合わない。ただ、並ぶ。


胸の下を指で押さえる。押さえても落ち着かない。

指先がそこにあるだけで、何かやった気になる。

気になるだけで、何も進まない。


夕方、通知がまとめて来る。

チャットサーバー。

進捗。

イベント。

誰かの「了解しました」。誰かの「お疲れさまです」。

僕へのメンションは付いていない。

付いていないから、画面を見続けられる。

見続けた瞬間、胸の内側が冷える。冷えるのに、手のひらは湿る。

矛盾だけが正確に起きる。


スクロールする。

話は先へ進んでいる。

写真が添付されて、スタジオの白い壁が増えている。

床に養生テープが貼られ、天井からケーブルがぶら下がる。

誰かの「搬入完了」の一言。

誰かの「明日調整します」。僕はそこにいない。

いないのに、肩書きだけはある。

肩書きの文字が、画面の外でじっと見てくる。


自分が言えそうな話題が出そうになると、指が先にスクロールして流す。

流すと、流せた気になる。流したあとは、喉が乾く。


机の端の封筒に目が戻る。

赤い「至急」。未開封。封筒の紙は、触ると乾いている。

乾いた紙の感触が、別の乾いた場所を脳内に連れてくる。


入口の金属音。

案内板の硬い文字。

待合の椅子の固さ。

番号札の薄いプラスチックに、指先の汗が貼りつく。

蛍光灯の白が白すぎて、肌が青く見える。

廊下は乾いて、紙の匂いが強い。


その匂いが来るだけで、胃がきゅっと縮む。

机の上のコーヒーの跡が、リングのまま残っているのが見える。

コーヒーを飲んだはずの味を思い出す。

胃の奥が「やめろ」と言っていたのに、無視して飲んだ味。


キーボードの上に指を置く。

指が震えているのは、カーソルじゃなくて指先だ。

Excelみたいな表の行が、目の前で揺れる気がする。

数字の列。日付。振込先。戻らない金額。戻らない、という単語だけが灰色で残る。


画面を閉じる。閉じても匂いは残る。

残るものはいつも、内容じゃなくて感触だ。


週末。倉庫。空調がない。息が白い。手袋をしても指先が冷たい。だが手袋はしない。

木材。ビス。メジャー。インパクト。回転音が空気を震わせる。

震えが腕に返る。返ってくるだけで、少しだけ呼吸が戻る。

ここで決めるのは角度と長さと強度だ。

決めたら、決まる。木は黙って言うことを聞く。


木片が指に刺さって、抜く。抜いた先から血が出る。

傷跡を文字通り舐めて、続ける。

鉄っぽい匂いが鼻に入る。痛みは小さい。

小さい痛みは、無視できる。無視できる痛みばかり増える。


「ここ、もうちょい奥ちゃう?」


誰かに言われて、僕は自然に「俺」になる。

「いや、そこ奥にしたら照明機材の逃げなくならん?」

声が返ってくる。

倉庫の壁に当たって返ってくる。

返ってくる声が、胸の奥の空洞にも当たる。

空洞があることを、響きが先に教える。


段取りの紙をめくる。

鉛筆で線を引く。線が引けることが楽だ。

線は引けば残る。人の気持ちは引いても残らない。

残らないものを扱うと、指先が空振りする。


撮影は来年の寒い時期。

完成がいつになるかは誰も言わない。

言わないまま、打ち込むビスだけが増える。

木材の端材だけが増える。

床に落ちたビスを拾って、ポケットに入れる。

ポケットが重くなる。重くなっても、進んだ気になる。


夜、東京へ行く時を思い出す。


新幹線は速い。窓の外が流れて、景色がどこにも属さない。

九号車の空調は乾いてなくても、喉がひりつく。

ペットボトルの水を飲んでも、奥の引っかかりが取れない。

車内販売のカートは通り過ぎる事はもうない。

あの時のコーヒーの匂いと、暖房の乾きが混ざる。匂いだけ残ったのが懐かしい。


イベントハウス兼オフィス。

床に散らばったケーブル。空のペットボトル。

濡れた上着が乾ききらない匂い。

生活と仕事が混ざって、どこにも排水口がない感じがする。

僕は「僕」のまま、短く頷いて、短く笑う。

笑ったあと、頬が固い。


「スタジオ、今月から運用始めれるぞ」


洗面所から戻ってきた誰かが言う。

手を拭きながら、何でもない顔で。

僕にメンションの付かない進捗が、現実には進んでいる。

僕は笑って「いいですね」と返す。

返した瞬間、舌が乾く。乾いた舌で、また笑う。


夜更け。適当に作業をして、そのまま横になる。

眠りは浅い。

換気扇、遠くの車、人の声。雨が降っている。

外に出てコンビニへ行く。レジの照明が明るすぎる。

タバコを買う。火をつける。

煙が肺に入って、少しだけ体が自分のものに戻る。

濡れたアスファルトの匂い。ごまかさない匂い。


SNSを開く。

責任転嫁、ネットリンチ、新着のAI情報、もう無理、まだいける。

画面を閉じても、残る。

残るものは言葉じゃなくて、胸の圧だ。

圧が抜けないまま、喉が渇く。


意識は三階に戻る。

夜は昼よりましだ。パソコンを起動する。

ファンが回る。起動音。起動音は励ましじゃない。

ただ、今日が続いてしまう合図だ。


メールを書く。文章の中では「私」になる。


お世話になっております。

先日の件につきまして、現状の進捗をご共有いたします。

なお、納期調整の可能性についても併せてご相談させてください。


文面が整う。

整うほど、指先が遠い。

送信ボタンの上でカーソルが止まる。

止まっているあいだ、奥歯が浮く。口の中が薄く苦い。


銀行アプリを開く。

残高の数字が静かに出る。

静かすぎて、耳が詰まる。桁が少ない。

入金予定の欄は空白だ。

引き落とし予定日だけが並ぶ。

税金、保険、支払い。

具体的な名前が並ぶだけで、首が少し締まる。


封筒は机の端に残ったままだ。未開封。

未開封のままでも週は終わる。終わってしまう。


カーソルが震える。震えているのは指先だ。

指先の震えは、倉庫で刺さった木片の痛みに似ている。

小さくて、無視できて、無視すると後で膿む。


僕は呼吸をひとつ分だけ遅らせて、画面を閉じる。


閉じたあと、机の端の封筒を裏返す。赤い「至急」が見えなくなる。

少し楽になる。すぐ戻る。


下書きのファイルを開いて、名前を変える。

返信_12-18。

日付だけが、また増える。


送らない。送らないという決定だけが、手に残る。


階段を下りようとして、やめる。

段差で膝が鳴るのが嫌だ。鳴った音が家に響くのが嫌だ。

響くと、誰かが振り向く気がする。

振り向かれると、何かを説明しなきゃいけない。

説明できる言葉は、もう残っていない。


机に戻る。椅子に座らない。

床の冷えが、まだ背中にいる。


起動音はもう鳴っていない。

ファンの回転だけが、永遠と夜を回し続ける。

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『未送信』 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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