きせる

あじゅが

キセル

 こちらを覗くなと言われたわたしは、すすり泣くように衝立ついたてのこちら側で静かに言葉をこぼしていました。

「誰が皆を束ねるのですか、誰が語りをなさるのですか」

大丈夫だ、と音の乗らないかすれた声がわたしを撫でました。

そして。

畢竟ひっきょう、おまえに袖時雨そでしぐれ似合におうまい、と。

姉様は衝立ついたての向こうからその白く細い腕だけをのぞかせて、わたしへ、かのキセルを持たせるのでした。

鉄のようなその手に触れてキセルを持つと、衝立ついたての向こうからはっきりと、ふーーと。満足そうな息が聞こえてきました。

してしばらく、わたしは何とも言えず、動くこともできず息を浅くさせていました。

キセルを離したその腕が、大きく下弦かげんの弧を描いた刹那せつなを、ほてる頭はひたすらに繰り返して。それはまるで、わたしの力を魂から奪ってゆくようでした。

部屋がぬくもりを消していく。

冷たい時雨しぐれはいたずらに、わたしの頬をくすぐって。

ああ、。

 それから衝立ついたてのむこうを覗いたのは、夜が更け、お医者様が参ってからでした。

 わたしは、おなじ部屋の禿かむろをたったの四年でしつけ終えたのち、家に戻りました。


 あれから何十年が経ったでしょうか。商人を通じて蘭学の蘭方医学と測量術を学んだわたしは、女ながら教えに発つことになりました。

行李こうりにものを詰め終わり、あたりを見回すと、ふと箪笥たんすの側に、黄色がかった紙を目に入れました。

「病状のたより...」

考えるより先に、机の煙管箱きせるばこから一本のキセルを持ち出していました。

そのしなやかな線と妖艶ようえんで優美な黒紫くろむらさき月光つきびかりひるがえし、優しさが包むようにも、しかしあのときの感傷に触れさせようとするようにも映ります。

今なら姉様の後ろを、その格に怖気ず、もう一歩近くで歩ける気がしてくるのです。

もうわたしの方が歳をとってしまいましたが、姉様にはまったく敵わない。

しかしこれでわたしも一人前だと、ふかすだけのキセルを指に乗せました。かつての姉様がそうしていたように。

「人を束ねてものを語る」と、その背中を追いかけて久遠の時を過ごしたその誇りを胸に、最後のえつに浸りながら。


 キセルはいまも、箱の中。

 わたしのなかに、もうキセルはありません。


 ある冬の日、雑踏のほんのかたわら、神田橋ふもとでキセルをくゆらせるかつて姉様と呼ばれた女は、

その切れ長の目尻でいつしかの禿かむろ射抜いぬいたかと思うと、穏やかに微笑み、消えてゆくのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きせる あじゅが @ajuga_reptans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ