魔女レゼリア・リオン・ノネットの聖女として生きる道
大外内あタり
第1話 幸福の王子
「し・ん・で・れ・ら・は・きょ・う・も・そ・う・じ・し・ま・す」
屋敷から外れた厩近くの倉庫の中で、小さな少女はボロボロの絵本を読む。
字を教えてくれたじぃやを思い出しながら「シンデレラ」を読む彼女はレゼリア・リオン・ノネット。
屋敷の主、ノネット公爵の三女で今年八歳になる。
しかし、レゼリアに歳は関係なかった。教えてもらわなかったからだ。
灰色の服に煤だらけのエプロン、黒髪に黒の目は月に照らせば一層輝くだろう。
「ぶ・と・う・か・い」
舞踏会というのは何だろう。絵本には綺麗な服を着た人たちの絵が載っている。
お父様とお母様や「きょうだい」たちみたいだ。
「ま・ほ・う・つ・か・い・が」
魔法使いというのは何だろう。お母様が頭に乗せるものよりも大きい布を乗せて、
「し・ん・で・れ・ら・は・き・れ・い・な・ふ・く・を」
着ている服をドレスに替えました。
レゼリアも、この洋服以外にキラキラした服を着られるだろうかと本を置いて立ち上がるとくるりと回る。
だが、ここに魔法使いはいない。
レゼリアをいじめるのは継母たちではなくて実父母と
まともな教育を受けることはなく、あっても「じぃや」が、こっそりレゼリアの前にご飯を持って現れ、字を教えてくれる。
まだレゼリアには知らないことがあり、いや、ありすぎた。
帽子を知らない。ドレスを知らない。舞踏会を知らない。愛情を知らない。
愛情の愛さえも知らずにレゼリアは生きていた。
実子だというのにノネット公爵はレゼリアを無い者として扱い、ボロ雑巾のような服を着せ、彼女の上の子供たちに「ああなるなよ」と教え、何故もなく、どうしようもなく、レゼリアはそう生まれてきたのである。
最初の頃こそ、両親にも上の
状況が変わったのは三歳になった頃、レゼリアは使用人たちが好きで掃除の手伝いをよくし、使用人から暖かい笑みで見守られ、手が届く範囲まで真似をし、なんでもしたがる歳であると皆が思いつつ、
「レゼリア様はお優しいですね」と頭を撫でられたものだったが、今のレゼリアに「その記憶」はない。
掃除をしているレゼリアを両親はよく思わなかった。
周りが子供がしていることですから、と告げてもノネット公爵はレゼリアを見て「奴隷に成り下がった」と言い、彼女の倉庫に追いやり、綺麗な服も、ご飯も、全て取り上げたのである。
三歳のレゼリアは拙い言葉しか喋れなかったが、自分が暗く怖いところに閉じ込められたと、二日間泣き叫び、三日目からは人形のように、ぐったりと倉庫の荷物に背を預けて、天井近くの窓から夜空を見ていた。
その間、食事をとらずに。
レゼリアには「死」が分からない。
だんだんと眠くなってきて、腫れてしまた瞳を閉じようとした時、じぃやはやって来た。
焦った様子で、レゼリアに水を少しずつ飲ませ、水で柔らかくしたパンを口に運ぶ。
自然に口を開いてパンを飲み込み、レゼリアは一命を取り留めた。
それから着ていたドレスは奪われて小汚い服に代わり、本邸の倉庫を掃除する役目を負うことになる。
三歳には、よく分からなかったが両親はレゼリアに年に一回以外、会いに来ることもないし、
ただ使用人たちが、ちらちらと気にかけながら終わらない倉庫の掃除を見ているだけで、だれも屋敷の主人に抗議するものたちはいない。
「正室の子なのに」と誰もが言った。
どこでどう歯車がおかしくなったのか分からない。分からないがレゼリアの知らぬところで父は「低俗なことをしている人間はああなるのが普通なのだ」と言い「アレを助けるなよ。あの歳でも最低限のことは分かるからな。手を出すな。同じ目にするからな」それに、ぽつりと「汚いものはいないとな」と呟いた。
ノネット公爵は「見世物」としてレゼリアを作り上げたのである。
何人かの使用人は「お嬢様はご家族なのですよ」と口答えをしたものをクビにして腫れ物扱いをしろと暗に言っていた。
それに倣い、他の兄と姉は近づいてくるレゼリアに石を投げることになる。
一番上の長男、ピリシア
二番目の次男、カルシア
三番目の三男、ルシリア
四番目の長女、ハレシア
五番目の次女、マリシア
六番目の三女のレゼリアをいれなければ、上の五人がレゼリアを無視した。
三歳で労働に身をやつすレゼリアは、多少の言葉は分かれど知識は足らないし、字の読み書きも出来ない。
それを助けてくれたのが、じぃやだった。
週三度の食事と絵本を持って使用人はやってくる。読み聞かせてくれるのは基本じぃやで、レゼリアはじぃやから沢山の言葉を学びながらも、何も知らない。
見たことがないからだ。
想像ができなくて、レゼリアにとって絵本は遠い異国だとしか思えず、本当に世にあるのか分からないもでしかない。
そして、レゼリアには注意しないといけないことがあった。
年に一回、父と母がやってきて倉庫を検分する。そこに絵本があると捨てられ、身体を温める布があれば捨てられる。
絵本を取られた時は泣かないレゼリアも泣いて父に縋ったが、杖で叩かれ、地面に転がった。どこまでもレゼリアを追いつめていったのだ。
そのまま使用人に言いつけてレゼリアを中庭に連れていくと、
「卑しいことをした人間の末路はこれだ」
何を言っているかレゼリアには分からなかったが、背中に浴びる痛さに「ごめんなさい」と言葉が出た。
終わらない倉庫掃除をさせられ、絵本を奪われ、毛布も奪われ、
「お前たちも覚悟しろ。ノネットの一族は高潔でなければならない」
ただ使用人たちと掃除しただけのレゼリアは酷い折檻を受け続けた。
「父上、よく分かりました。これは生きるに値しないものです。だけれど、父上たちの慈悲で生かされている。歳も歳で、まだ分からないでしょうが、そのうち自覚するでしょう。自分が生きるに値しない人間だと」
誰が言ったが、レゼリアはぼろぼろの身体で顔を上げる。
ああ、あれは、あの白髪はルシ兄様だ。ルシ兄様は、よく見かけることがあった。
ばしん、と音がなる。
「ごめんなさいっごめん」
「喋るな卑しい人間め」
ばしん、と音がなる。
「……ぅっ」
「お前らは「こう」なるなよ。なる前に相手を殺せ、いいな」
「はい」
レゼリアは地を見ながら、遠い世界を見ていた。
取り上げられた本は「幸福な王子」
金銀や宝石で作られた王子の像は民を愛しており、冬越えというのができなかったツバメという動物が王子の頼みで身体から様々な宝石を不幸な人たちに届けるという話だった。
金銀が分からない。宝石が分からない。王子様が分からない。ツバメという生き物が分からない。
でも「綺麗」な物語りなのであるとレゼリアは心の底で思った。
ばしんっと音が鳴り「う」と小さな声が漏れたところで、
「もういい。倉庫に連れてけ。あと聞いているだろう。我が家で仕えたければ、余計なものをこれに渡すな」
ずりずりと足で地面を掻く。
倉庫につけば放りなげられるところを使用人が隙を見て藁を持ち、その上にレゼリアを横たえた。
「実の子に、このような扱いをいつまでなさるつもりなんだ」
「旦那様は気が触れているに違いない」
「背に血が……だめだ、今、なにかしたら旦那様に見つかる」
藁に顔を埋めながらレゼリアは、世の中には「幸福な王子」のような人がいることを知っていた。
折檻後は身動きができないことが多く。背中にあたる部分がぱりぱりと音がした頃に使用人がやってきて背を拭いて、何かを塗ってくれる。
しばらくして起き上がることができて掃除をしなければ、と思い出す。
レゼリアがすることは、それしかない。死に方を知らないのだ。
「お嬢様」
じぃやがやってきて汚れた服をくれる。汚れてないとノネット公爵が怒る。
血で汚れた服をじぃやは回収して、新しい服をもらうと、次の日には掃除をし始めないといけない。
まだ背は痛い。でも、じぃやが一年に一回だからと言う。
レゼリアは正直に、こくりと頷いて思考が停止していた。
それでも、またレゼリアの周りには絵本と毛布が集まる。使用人たちが渡してくるのだ。
そして奪われてしまう。その繰り返し。
ノネット公爵は誰が渡したか分からないので事実上、首になる使用人はいなかった。いるのは、この状況に苦言を呟いた人間だけだ。
レゼリアは時間が分からない。雨の日、暖かい日と寒い日、雪の日があるという感覚だけで春夏秋冬が分からない。歳はいくつのころだろうか。
ひっそりと絵本を読んでいると、人の気配がして絵本を閉じ、毛布を隠すと地面で寝ているふりをする。
「明日、また父上が広場にお前を連れてくると言っていたから、隠すものは掃除の倉庫に隠すんだよ」
パッと起き上がって扉を開けるが、そこには誰もいない。
追いかけると本邸に入っていく白髪が見えて「るしにいさま」とレゼリアは呟いた。
その年から「予告」してくれる人が現れるようになり、レゼリアは夜の内に絵本と毛布を掃除倉庫隠して、何も知らないふりをする。
父と母が来て荒らそうとも、何も出ないことに父と母は喜んでいた。
「みんな、お前を捨てたんですよ」
そう母は言う。
だが、そうではない。そうではない。レゼリアには「幸福の王子」がやってきたのだ。
背中を叩かれるのは痛い。
そのうち、小さい自分の弟が増えているのに気がついた。その子は怯えきってルシリアの服を掴み、涙ぐんでいる。
レゼリアは「ごめんね」と思えるほど成長していた。
事実、もうレゼリアは十は越え、この折檻が年の始まりだと理解し、これがおかしいことだと思い始めるまで出来たのである。
怯えているのは弟だけじゃなかった。母の横に知らぬ女性がいて同じく怯えていた。
レゼリアにとって些細なことではあったが、その女性と弟の髪色が同じことが分かり、なんとなくではあるが理解する。
今年も父の演説が続き、引き摺られるのではなく、自分の足でよろよろと歩く姿を背に視線を感じつつ、小さい頃は気づかなかった井戸や布を使って背を拭き、しばらくしたら汚れた服を持ってくるじぃやのと交換する。
「レゼリアさま」
「きょうは、すくなかった」
「……そうでございますね」
言葉は、普段しゃべらないせいで拙いままだ。
「レゼリアさまは、憎くはないのですか」
「にくい?」
よく分からないと首を振ると、じぃやは困ったように眉を下げて「そうですか」と言う。
それから二年か三年か、十五歳になる頃にレゼリアは、
「本邸に入ることを許可された」
使用人の何人かは「まともになった」と喜んでいたが、実のところはレゼリアを学校に行かせる為に教育する場として許可されたのである。
今さら学校に行かせる? そう思った使用人もいるだろう。
しかし、ノネット公爵は三歳になったレゼリアの誕生会を開いてしまい、他の家から見ると「あそこのお嬢さんはどこに?」となる。
死んだと言えばいいが、親族を呼んで葬式をしないのはおかしい。プライドの高いノネット公爵が娘の死という「悲しみの感情を見せて同情を誘う」手を使わないのは、少なからず親族や各貴族に怪しまれることだ。
本邸に入る時のレゼリアは、腰に縄をつけられて勉強部屋に入る。
そのまま何の感情を見せない名前の知らない教師によって授業を受けた。
レゼリアの言葉はいらない。ただ問題を解くだけの日々が続き、間違えれば手を叩かれ、それを母は面白そうに笑い、レゼリアは学校に行く準備だけさせられる。
幸運だったのは、学校では寄宿舎に入ることが決定されており、レゼリアは家から出られることだった。
仕度は制服と地味な洋服ばかりだったが、レゼリアはなんとも思わない。
そうレゼリアの心は死んでいる。
ただ目の前の光景を見るだけで、右を向けと言われれば右を向き、左と言われれば左を向く。掃除しか知らない少女は、付け焼き刃の教養とともに、一人、家を出た。
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