第3話
その異変は、静かに始まった。
王城・中央塔の地下。
王国の魔術研究を担う魔導院で、夜明け前の当直をしていた老魔術師が、ふと眉をひそめた。
「……おかしい」
水晶盤の上に描かれた魔力波形が、微かに乱れている。
誤差と言えば、それまでだ。
だが、三十年この装置を見続けてきた彼にとって、その歪みは見過ごせるものではなかった。
「結界値、再測定だ」
助手が慌てて応じ、魔力を注ぎ込む。
水晶盤が淡く光り――次の瞬間、警告音が鳴り響いた。
「なっ……!? 結界出力が、低下しています!」
「馬鹿な。昨日まで、基準値を保っていたはずだ!」
老魔術師は、震える指で数値をなぞる。
王都を覆う防衛結界。
魔獣や災厄を遠ざける、王国最大の守り。
その出力が、確実に――下がっていた。
「原因は!?」
「不明です! 魔力供給源は正常、魔石も劣化していません!」
研究室に、重苦しい沈黙が落ちる。
その時、誰かが小さく呟いた。
「……“調整役”は?」
一斉に、視線が集まる。
「……まさか」
「いや、しかし……」
言葉は続かなかった。
昨夜、王太子によって断罪され、追放された令嬢の顔が、皆の脳裏に浮かんだからだ。
「エリシア・フォン・リーネ……」
その名を口にした瞬間、空気が冷えた。
「彼女は……確かに、毎週、地下祭壇に出入りしていたな」
「魔力は低いが、結界の安定値だけは、異常なほど正確だった」
老魔術師は、苦々しく唇を噛んだ。
「……彼女がいなくなった、たった一晩で、これか」
否定したかった。
だが、現実が、それを許さない。
「すぐに王太子殿下に報告を!」
「結界低下は、国家存亡に関わる!」
慌ただしく人が動き出す。
一方、その頃――。
王城・私室。
レオンハルト王太子は、紅茶を飲みながら報告書に目を通していた。
「結界値の低下?」
彼は鼻で笑った。
「誤差の範囲だろう。あの女を追放したからといって、何が変わる」
隣では、聖女候補リリアが不安げに首を傾げる。
「でも殿下……昨夜、地震のような揺れが……」
「偶然だ」
きっぱりと言い切る。
「エリシアは、ただの調整係だ。代わりはいくらでもいる」
だが、その言葉とは裏腹に。
王城の外壁を覆う結界が、淡く――一瞬だけ、揺らいだ。
「……殿下?」
リリアの声に、レオンハルトは窓の外へ視線を投げる。
遠く、王都の上空で、空気が歪んだように見えた。
「気のせいだ」
そう言いながらも、胸の奥に、言い知れぬ不安が広がる。
――知らない。
自分たちが、どれほど重大なものを失ったのかを。
結界の最深部。
誰にも気づかれず、魔法陣の一部が、静かに崩れ落ちていた。
修復する者は、もういない。
その夜、王都近郊で、通常では現れないはずの魔獣が、確認された。
それは、すべての始まりに過ぎなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます