第12話
「おまえは……? 父親がいなくなって、これまで辛くなかったか?」
私に向けてくれる目があまりに優しくて、そしてどこか悲しみに満ちていてはっとする。
「交通事故だったんです」
タクシードライバーだった父は、道路に突然飛び出して来た子どもを避けるためハンドルを切った。打ちどころが悪くて、即死だったと聞いている。
「あまりに突然のことで、その時の衝撃は今でも覚えています。でも、きっと母の方が辛かったと思うんです。一人で小さな私たちを育てなきゃって心細かったはず。それなのに、母はいつも明るくて。そんな母のおかげで、毎日の生活は大変だったけど、不幸ではなかったです」
彼が包み込むように見つめて大きなてのひらでやさしく髪を撫でてくれるから。つい安心して胸の内を心のままに話してしまった。
「おまえは、母親に似たのかな。いつも、勉強にバイトに頑張ってる」
思いもよらない彼の言葉に驚かされる。
「い、いえ、全然……。本当はもっと母を助けなきゃいけないんですけど――」
「頑張ってるだろ? いつも必死にバイトして大学の勉強もして、おまえはおまえのままで十分だ。俺とは違う。俺とは全然……」
そこまで言って彼は口を噤み、その代わりきつく私を抱きしめて来た。
何を思っているのだろう。
私を抱きしめる腕がどこか辛そうだったから、そう聞いてしまいたくなったけれどやめておいた。
いつも、強くて堂々としていて。きっと、その奥に隠し持つものを、人に見せることは望んでいない気がする。
「父親のいなくなった後のおまえが、辛いだけじゃなくてよかった……」
そんなこと言わないで。そんな風に、優しくしないで――。
もしかしたら、ほんのわずかでも愛されているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
くるりと身体を反転させて、彼の胸に顔を埋める。そんな私の背中に腕を回し、きつく抱き寄せてくれた。
私と同じように小さい時に肉親を失って、きっと寂しい思いもしたんだろう。
でもきっと、寂しいだなんて間違っても言わない人――。
そんな気がしてならなかった。
「あなたの周りにはたくさんの人がいるけど、でも、私も、いますから……」
私が一番だなんて言わない。でも、私もいるんだって思ってほしい。
自分で言っておいて、すぐに弱気になってしまう。彼が黙ったままだから少し図々しかっただろうかと後悔した。
「……そうだな」
ぎゅっと強く抱きしめられて、掠れてしまった声で「はい」と答えた。否定されなかったことが嬉しくて、それはまるで傍にいることを許されたみたいで。今度はその喜びで泣きたくなる。それを誤魔化すように、声を上げた。
「あのっ!」
「ん? どうした?」
つい勢いで大きな声を上げてしまったから、彼が私の顔を覗き込んで来た。そうまじまじと見られると言いづらくなってしまう。
本当にどうでもいいことで。でも、私にとっては切実な問題でもある。
「なんだ」
「えっと……」
彼のことを何と呼べばいいかと、実はずっと困っていた。
「ひゃっ」
突然身体を持ち上げられて、ひょいっと彼の身体の上に載せられてしまった。
「こ、この体勢は、ちょ、ちょっと……!」
お互い何も着ていないのにこんな風に抱えられては、いろいろと意識してしまって会話どころじゃない。
「おまえがさっさと言わないからだ。何か、言いたいことでもあるのか?」
意地悪く笑っているのが恨めしい。私が困っているのをきっと楽しんでる。
「ほら、言えよ」
彼と違って私にはまったく余裕がなくて。つい俯きがちになる顔に、彼の手が添えられそのまま彼の方を向けさせられた。
もう片方の腕が私の腰を抱いている。逸らしたくても逸らせない顔の代わりに視線だけを違う方へと向けた。
そんな私をもっと困らせるように、無理矢理に視線を合わせて来る。
「ほら、早く」
「な、名前……」
観念して彼を見る。
「名前?」
「はい。実は、何て呼べばいいかなって困っていて……」
「ああ、そんなことか。創介でいいよ」
頬に触れていた彼の手のひらがそのまま私の頭を撫でる。
「えっ? でも、呼び捨てになんかできません」
なんてことないという風に答えるから、私はすぐに反論した。
「俺も雪野って呼んでいるんだ。お互い様だろ?」
「私は年下なので、そういうわけにもいきません」
「学校でも職場でもないんだぞ? 年とか関係あるのか?」
「あります。大ありです!」
間違っても”創介”なんて呼べない。絶対に無理だ。大真面目にそう訴えた。
「じゃあ、おまえの好きなように呼べよ」
そんな私に呆れたように彼が笑う。
「では……、そ、創介さん、にします」
名前をちゃんと呼ぶのは初めてで。声が小さくなってしまう。なんだか照れしまって、つい、彼の胸に顔を埋めた。
「顔、上げろ」
「は、はい……」
「……雪野」
さっきとは違う、どこか掠れた声で名前を呼ばれて、恐る恐る顔を上げた。鋭い視線とぶつかって、息を潜めればすぐに唇を奪われる。ほんの少し前までさんざん貪り合うように抱き合って何度も唇を重ねたのに、すぐにその熱に溶けだしてしまう。なまめかしく動く彼の舌が私のそれを絡めとり、それと同時に私の背中を強く抱く。息を吐く隙を与えてくれない。
「……んんっ」
「名前、呼んで」
苦しげに顔をしかめて、彼がほんの少し唇を離して囁く。激しいキスで荒くなった呼吸を整えようとしてもまた深く重なって。
「呼んでくれ……」
キスの合間に零す彼の吐息のような声に、身体中に再び熱が灯る。
「創介、さ――」
その名前を呼ぼうとしたけれど、それさえも封じ込められた。
激しく官能的な行為なのに、何故だか私は泣きたくなる。創介さんと出会って、一緒にいるようになって、私は涙もろくなった。
あなたの傍にいさせて。ただ、それだけでいいから――。
言葉に出来ない願いを、胸の中で祈るように繰り返す。
こんな日々がいつ突然終わるのか。その不安から逃れられなくても、この瞬間、こうして創介さんの傍にいる時だけは確かに幸せを感じていた。
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