Raven's Slit  ―ある魔女の寝床―

砂東 塩

Raven's Slit  ―ある魔女の寝床―

 奥様の愛猫が死んだ。昨夜馬車に轢かれたらしかった。もとはネズミ捕りのために飼われていた黒毛のほっそりとした猫で、使用人の間でレイヴンと呼ばれていた。私がこの屋敷に来た七年前にはすでに尻尾の先が鍵状に曲がっていたが、それはダウエル侯爵様の飼い犬、トマスにやられたものだと聞いている。

 奥様がレイヴンを気に留められるようになったのは、死産がきっかけだ。ちょうど三年前のことで、産声をあげることなく世に出たダウエル侯爵夫妻の最初で最後の子は、奥様と同じ黒髪の女の子だった。もう子は望めないだろうと医師に告げられ、奥様が虚ろな眼差しで塞ぎ込んだ期間は三ヶ月にも及ぶ。

 雨の降りしきる六月半ば、私が部屋を訪れると、奥様はベッドに起き上がって愛しそうにレイヴンを撫でていた。侯爵様から、奥様の気晴らしになるものをと命じられ、刺繍の図案集をいくつか選んでお持ちしたときのことだった。この日、レイヴンはネズミ捕りから奥様のペットへと昇格した。

 奥様は少しずつ元気を取り戻され、じきに社交の場へ出られるほどに回復された。とはいえ、娘を失った悲しみが完全に癒えることはない。淑女らしいたおやかな笑みに、拭うことのできない影が常に差している。

 侯爵様が屋敷にユーイング医師を連れておいでになったのは、今から一年ほど前のことだ。それまでも入れ替わり立ち替わり新しい医者を連れてきては奥様を診察させており、使用人たちは驚きもなくこの医師を迎え入れた。しかし、この医師は他の医者とは違っていた。二十代前半と思しきその若さもだが、まずは鞄。診察の最中、私は奥様の体をお支えしながら、台の上に広げられた医者鞄の中身に密かに心を奪われた。よく見かける医者鞄は口の大きく開く革鞄だが、ユーイング医師の鞄は四角い箱を横半分にした形と言ったらいいのか、四角い箱をふたつ合わせた形と言ったらいいのか。ふたつの角箱が蝶番でつなぎ留められた状態で、持ち歩く時はそれを立てて金具で留め合わせるという仕様のものだった。医療器具も薬瓶もすべてベルトや紐で固定され、まるで標本のようだ。

 さらに私の興味を駆り立てたのは薬瓶だ。瓶はすべてガラス製。茶色いものと透明なものの二種類あるのだが、透明な薬瓶の一本に、ひときわ美しい色の液が入れられていた。二層に別れた薬液は境界面がゆらゆらと怪しげに揺れ、上の層が妖艶なアメジスト色、下の層が深遠なエメラルド色。二種類の液体が混じり合うことはなく、台が揺れてうっかり紫に混じったわずかな緑色は、美しい球形を保ってしばらく漂い、羽毛のようにゆっくりと下降して、境界面に触れると下層にスルリと吸い込まれる。

 ユーイング医師はその瓶を手に取り、「侯爵夫人が妊娠可能かどうか検査をしてみましょう」と微笑んだ。白い手で蓋を開けると、どこか甘く、饐えたような匂いが漂ってくる。瀉血で抜いた奥様の血をその瓶の中に垂らし、数日おいて変化を見るのだと彼は言った。

 以来、ユーイング医師は月に一度奥様の診察に訪れ、そのたびに検査と言って血をあの薬瓶に入れ持ち帰った。再び妊娠できるのかどうかについて、医師が奥様に対して明確な答えを口にしたことはない。「もう少し経過を観察すべきかと……」「前回よりは可能性がわずかに見えたように思います」「良くなっているようですが……」奥様の傍に控えていた私が耳にしたのは、そのくらいだ。

 奥様は、医師の曖昧なその言葉に希望を見出していたわけではなさそうだった。期待しそうになるのを自覚的に押し留めているように、私には思えた。検査に使われるのはどうせ毒素を排出するための瀉血なのだから、あえて拒絶する理由もなかったのだろう。

 ユーイング医師による治療に期待していたのは、侯爵様のほうだ。医師が訪れる日は全ての仕事を済ませて自ら出迎えていた。来訪はいつも日が沈んでから。駅まで迎えにやった馬車が戻って来ると、侯爵様と医師とは抱き合って再会を喜んだ。その後、奥様の部屋で一時間程度の診察が行われ、血を抜かれた奥様がお休みになられている間、晩餐という名の、男ふたりきりの密談がなされる。侯爵様とユーイング医師との間でどんな会話が交わされたのか、知る者は誰もいない。

 ただ、侯爵様は執事のバンバリーに次のような話をしたらしい。かの医師は、子のできない夫婦のために寸暇を惜しみ、身を削って「新医術」の研究を続ける崇高な医師なのだ、と。執事は、侯爵様がユーイング医師に心酔していらっしゃるようだと、私に溢した。報酬額もさることながら、食事も最高のものを用意し、邸内の指定された客間を、一等良い部屋にしつらえてご案内する。出身を尋ねてみたものの田舎の出でと躱されて、ユーイング医師がどこから何日かけてダウエル侯爵家の王都邸宅を訪れているのかもわからない。隠そうとされているが訛りがあり、どこで医学を学んだとも知れず、人の良い侯爵様が騙されてはいないか少々気がかりだと。

 使用人一同ユーイング医師への応対に細心の注意を払っていたが、執事の次に神経を擦り減らしていたのはフットマンのスチュアートだ。ユーイング医師は例の医者鞄の他に大きな手提げの旅行鞄をひとつと、飼い犬のトマスがすっぽり入ってしまいそうな大きな革張りの木箱をひとつ携えていた。「箱は地面と水平に、なるべく揺らさないように」と注意を受けていたため、馬車への積み下ろしの際はぐっと息を詰め、台車で部屋へと運ぶ際も段差に注意してゆっくりと運ぶ。ずいぶん重く、中で液体が跳ねるような水音がするから怖いんだと、スチュアートは馬丁のトニーに愚痴をこぼしていたと聞く。

 レイヴンが馬車に轢かれて死んだ夜も、スチュアートはこの大きな木箱を運び出す役を命じられている。深夜三時頃に執事に起こされ、客人(ユーイング医師)が急な用事で出立されるから荷物を馬車に積み込むようにと。この時、馬車は正門ではなく裏門側に用意され、スチュアートがユーイング医師と顔を合わせることはなかったそうだ。作業を済ませたスチュアートは、もうひと眠りしようと部屋に戻る途中で馬車が出立した音を聞いている。

 その馬車が、裏門を出て少し行ったところでレイヴンを轢いた。御者は何かを轢いたことには気づいたものの、野良猫だろうと思いそのまま駅まで医師を送り届け、空が白み始めた頃に戻って来てレイヴンだと気づいたらしい。

 奇妙な話だった。レイヴンは人ならば八十歳になろうかというほどの老猫で、最近では屋外に出かけることも滅多になくなっていた。寝床は奥様のベッドの上か、適当な部屋の絨毯や物陰。なぜあんな時刻に屋敷の外にいたのか、使用人はみな首をかしげていた。結局、御者はダウエル侯爵家を去ることになった。

 気になることはもうひとつある。ユーイング医師の泊まった部屋を掃除していた下女が、床にガラス片と血痕、そして獣のものと思われる短く黒い毛を見つけた。血を拭き取ったらしいシーツには、血と毛だけでなく、紫色と緑色のわずかな染み。下女はさらに「これがベッドの下に」と古びた書物を差し出して、家政婦長に報告すべきでしょうかと聞いてきた。私は硬貨を一枚握らせて口止めした。使用人が知ってはならない類のことだと直感が働いたためだ。何より、私自身がユーイング医師の行動を怪しみ、こうして彼の泊まった部屋を確認しに訪れている。

 この一年、医学書や薬学書をめくっても紫と緑の薬品の手がかりが掴めなかった理由を、私は下女から渡された書物を見て悟った。『The Discoverie of Witch魔女術の露見craft』と題されたその本を、私は密かに厨房の竈に焚べて見なかったことにした。

 レイヴンの亡骸は、馬丁のテリーが馬小屋の裏に埋めたようだった。奥様は朝のうちは落ち込まれたものの、チャリティーバザーには予定通り出席され、それでいくらか明るさを取り戻された。結局のところ、レイヴンは死産した愛娘の身代わりに過ぎず、そして猫は猫に過ぎないのだ。

 レイヴンの死からちょうど一週間後の深夜、ユーイング医師が例の大きな箱を携えて侯爵邸を訪れた。ほとんどの使用人が寝静まった後のことで、慌てて服を着たのか、荷物運びに起こされたスチュアートのシャツのボタンはひとつ掛け違っていた。一階の奥の、いつもユーイング医師が泊まる部屋に私と執事とが呼び出されたのは、その箱が運び込まれてからしばらく経ってからのことだ。そこにはユーイング医師とダウエル侯爵様、そして、黒髪の赤子を抱いた奥様の姿があった。箱の蓋は開けられ、縁にはだらりと布が掛けられている。

「エマ、私の娘よ」

 そう奥様はおっしゃった。生まれて一週間ほどといった様子のその赤子には、たしかに奥様の面影があった。灰色の瞳は侯爵様と同じ。黒髪の、奥様似の女を侯爵様が外で孕ませたのではと、おそらく私だけでなく執事も考えたはずだ。しかし、奥様は曇りのない笑みを浮かべている。目尻に浮かんだ涙も、愛おしさと歓喜の表れとしか思えなかった。

 侯爵様は、その子を遠い親戚から譲り受けた養女だと言った。なぜ、生まれたばかりの親戚の子をユーイング医師が連れてきたのか。それについては誰の口からも説明がなされないまま、私と執事とは「かしこまりました」と全ての疑問を飲み込んだ。


 キャサリンと名付けられたダウエル侯爵令嬢の愛称は、キティ子猫ちゃんだった。性格は愛称そのもので、幼少期はダウエル侯爵邸の屋敷や庭を駆け回り、木に登り、お気に入りの遊び場は厩舎だった。使用人の目を盗んで好き勝手するものだから、うっかり馬に蹴られやしないかと馬丁のトニーは肝を冷やしていたが、お嬢様の前ではどの馬も大人しかった。一方、飼い犬のトマスのことは好きではないらしく、お嬢様はトマスの気配を察知すると驚くほどの早さで逃げ出した。

 そんな奔放な生活が許されたのは、四歳くらいまでのこと。乳母はずいぶん苦労したようだ。困ったのは家庭教師。雇っても数日で音を上げ、新しい家庭教師を募集する――ということが何度か繰り返された。そして、奥様の侍女だった私が当面の間お嬢様の教育係を務めることになった。

 結局、お嬢様が外部の家庭教師を受け入れたのは十四歳になってから。その間の私の苦労については、俸給の増額分がそれを表している。堪え性がなく自由奔放で、刺繍なども動く鳥を窓外に見つければ放り出してしまう。それを、ハンカチーフに家紋の刺繍を入れられるくらいには育て上げた。しかし、ダウエル侯爵令嬢はずいぶん変わり者らしいという噂は、すっかりロンドン社交界に広まっている。

 

 お嬢様の学びへの姿勢が変化したのは、奥様とともに参加されたチャリティーバザーの後のこと。思い当たることと言えば、バザー会場で話題になっていた新貴族のユーイング男爵。三十後半だが独身で、男ぶりも羽振りも良く、元医者の事業家だという。奥様の表情から察するに、あのユーイング医師に間違いなさそうだった。

 しかし、なぜお嬢様はユーイング男爵を気にかけるのか。

 彼がダウエル侯爵邸を訪れたのは、お嬢様をお連れになったあの日が最後。使用人の間では、ユーイング医師の話題はタブーとなっている。侯爵夫妻や執事のバンバリーが箝口令を敷いたわけではないけれど、誰しもが言語化できない違和感をあの男に感じていたのだ。その違和感を、お嬢様と結びつけて考える使用人が私以外にもいるかどうかはわからない。しかし、お嬢様は異様に勘の鋭い方だった。奥様の微細な表情の変化をみてとったのか、それとも、探索しつくしたダウエル侯爵邸内で「Ewingユーイング」の文字を見つけていた可能性もある。

 飽き性なのは相変わらずで、動くものに目を向けてしまう癖は何年経っても治らなかった。それでも、飽きては勉強に戻り、飽きては勉強に戻りを繰り返し、獲物を狩る時のレイヴンさながらの集中力で、社交マナーや礼儀作法について学んだ。そして、着実に淑女として成長していかれた。

 お嬢様の愛らしい耳たぶが、ユーイング男爵の話題になるたびピクリと動く。ずいぶんお年も離れていらっしゃいますし、噂話だけでユーイング男爵様に懸想されているわけではございませんよねと、私は戯れを演じて問うてみたことがある。

「エマは気にならないの? お金持ちで男ぶりもいい。きっと男爵位バロンでは満足していないだろうから、ソーン子爵家との縁談は男爵様の頭の片隅にあるのではないかと思うけれど」

 妙に大人びた口調で私の実家を持ち出され、背に悪寒が走った。窓辺に立つお嬢様の瞳を見つめていると、日向ぼっこするレイヴンの、スウッと縦に細く伸びた瞳孔が脳裏をかすめる。私の中に流れる子爵家の血が、生理的な警告を発した。

 年月を経て、お嬢様は見まごうことなきダウエル侯爵令嬢に成長された。けれど、ふとした瞬間――特に日が落ちて邸内がガス燈と蝋燭の火だけになると、灰色の瞳が金色に輝くことがある。見間違いなどではなく、何人もの使用人が目撃していた。それを口にするのも、いつ頃からかタブーとなった。

 馬丁のテリーとフットマンのスチュアートは、レイヴンを埋めたあたりによく花を供えている。胸の前で十字を切る彼らが、胸のうちで神に何を祈っているのかはわからない。お嬢様はふたりのことを気に入っている。


 私がユーイング医師と再会したのは、奥様に同行した舞踏会でのことだった。「知らないふりをなさい」という奥様の囁きで、彼が侯爵邸に出入りしていた約一年間のことは、やはり表に出てはならないことなのだと確信した。ガラス片と血痕と獣の黒毛、紫と緑の染み。慌てて帰ったユーイング医師と、ベッド下の書物。彼が連れてきた。死んだレイヴン。お嬢様の目。

 ユーイング男爵は複数の事業を手掛けているらしく、東インド産鉱石による合成染料開発と、ペットの輸入販売が主なものということだった。あのドレスはうちの染料ですねと、男爵は周囲に集まった人々の視線を舞踏会場へと誘った。彼の曖昧な指差しに、紳士淑女の視線はうつろに彷徨っている。

 ユーイング男爵の口から語られる事業は、きっと表向きのものだ。爵位を買えるほどの財を成したのは、ダウエル侯爵夫妻のように密かに口を噤んだ顧客が他にもいるからに違いない。裏の事業は、スチュアートが運んでいたあの大きな箱。異様に重く、中で水が跳ねる音がする――。

 歓談中の奥様からわずかに距離をおいて待機している時、ユーイング男爵が声をかけてきた。

「一曲踊っていただけませんか」

 チラと奥様の顔をうかがうと、扇で口元を隠してわずかに首を横に振る。我知らず、多くの人の耳目を集めていた。

「申し訳ありませんが、ダウエル侯爵夫人のおそばを離れるわけには参りません」

 男爵は差し出した手を引っ込めはしたが、「では私もしばし休息を」と去る様子はない。香水に混じって、甘い、饐えた匂いがした。

「ダウエル侯爵令嬢は今年で十六になられるそうですね。いずれ舞踏会で顔を合わせることもあるでしょう。その日が楽しみです」

 新貴族の四十路近い男が侍女の耳元に囁きかける姿を、周囲は求愛と解釈したようだった。ソーン子爵家、没落、新貴族、行き遅れといった言葉と、ひそめた笑い声が切れ切れに耳に届く。言葉を返さず口を引き結んでいると、ユーイング男爵は「またいずれ」と舞踏の輪に戻っていった。

 そのユーイング男爵からダウエル侯爵邸に、私宛ての手紙が届いたのは翌日のことだ。ロンドンから遠く離れた、北部の地方都市への小旅行とオペラ観劇の誘い。演目は、イタリアのヴェルディという作曲家による新作『マクベス』。シェイクスピアの戯曲で、 主君を殺し、魔女の予言のままに破滅へと突き進む男、マクベスの物語だ。

 この件について、私は侯爵様から書斎に呼び出され、お受けするようにと命じられた。かつては抱擁で出迎え「崇高な医師」と称した相手にも関わらず、侯爵様の顔に親しみや懐かしさはみじんも見られなかった。例えるなら、領地で災害との報があったときに浮かべる憂いと焦燥、そして不安。

 おそらく、お嬢様は人の道から外れた方法で生まれて来られたのだ。侯爵様はそれをご承知の上で高額の報酬を支払われた。共犯と脅されれば、あの男の言いなりになるしかないのだろう。私など取るに足りない没落子爵家の娘。――しかし、ユーイング医師とキャサリンお嬢様の関係を知る数少ない人間の一人だ。

 名家が一度の凶作で没落へと転じるように、領地すらない新貴族の男爵など、信用を失えばあっという間に転落する。私は覚悟を決め、口を開いた。本当は、胸のうちに溜め込んだものを、ただ吐き出してしまいたかっただけかもしれない。

「お嬢様はユーイング男爵に興味をお持ちです。自分の生い立ちについて何かご存じのようでした」

 侯爵様は顔を強張らせ、それ以上口にするなと言いたげに私を睨んだ。それでも私は喋り続ける。ダウエル侯爵夫妻が口封じのために使用人を人知れず始末するような、人でなしではないことを知っているから。

「お話していないことがございます。奥様がかわいがっておられたレイヴンのことです。馬車に轢かれて死んだというのは、おそらくユーイング男爵による偽装でしょう。あの夜、彼が泊まった部屋に黒猫の毛と血、紫と緑の染みがついた布が見つかりました。彼にとっても何か不測の事態が生じ、あの部屋で死んだ猫を轢死ということにしたのだと思います。レイヴンを轢いた御者は、許されたにも関わらずこの屋敷を去っております。金を握らされて、ユーイング男爵に協力したのではないでしょうか」

 侯爵様の顔がサッと青ざめた。にも関わらず、「そういうことか」と、どこか腑に落ちた顔つきでストンと肩を落とされる。何に納得されたのかは想像に難くない。お嬢様の振る舞いのことだ。

 猫のように奔放でおてんばなダウエル侯爵令嬢。キティ子猫ちゃんの愛称で呼ばれるそのお嬢様は、魔女の化身ではないかと平民たちまでもが囁いていた。貴族たちは、神経症のせいで精神を病んでいるのよ――と、下卑た笑みを扇で隠した。魔女だなんだと貴族がおおっぴらに口にするのは、己の不見識をあえてひけらかすようなもの。時は十九世紀だ。

 ――しかし。ユーイング医師が「新医術」で人の子を生み出したのだとしても、その子が猫のような振る舞いをすればそれは魔術で、その子は魔女の化身ではないかと疑いもしよう。魔術や魔女など存在しないと思っていたとしても、いざそれらしいものが目の前に現れれば、それは魔術であり魔女なのだ。

 ダウエル侯爵様は私への命令を撤回し、すべて忘れるようにとおっしゃった。その後二か月ほどし、キャサリンお嬢様はデビュタント・ボールに参加された。目を離すと何をするかわからないのは相変わらず。ダウエル侯爵夫妻も、付き添った私も、純白のドレスに身を包んだ漆黒の髪の少女を目で追いかけていた。予想に反してお嬢様は大人しく、私はふと、レイヴンの後に連れて来られたネズミ捕り係の白猫、ピジョンのことを思い出した。数日間は厨房の隅にいて、近寄るたびに毛を立てていたという。

 大人たちの心配をよそに、お嬢様はその後、積極的にお茶会や舞踏会に参加された。ユーイング男爵を探るためのようだった。

 お嬢様が噂好きの令嬢たちから仕入れた話によると、ユーイング男爵の手掛ける合成染料は大量の返品があり、資金繰りに苦しんでいるのだという。理由は、染めた布が時間の経過とともに饐えた腐敗臭を放つようになるからだとか。さらに、ユーイング男爵からペットを購入した家で、以前から飼っていた犬が病気にかかり死亡したという噂もあるらしい。それらの情報の出どころはどれも不確かで、何者かが意図的に流したのだと察せられた。

 おそらく、ユーイング男爵が本当に行き詰まったのは裏の事業。あの男をダウエル侯爵様に紹介した誰かはきっとロンドン社交界におり、ダウエル侯爵様から彼を紹介された貴族も同じように何人かはいたはず。そういった繋がりを利用し、侯爵様が何かしら手を回されたのだろう。

 元医師で事業家だという新貴族の転落話は、半年ほど社交の場で話題に上り続けた。その年の暮れ、ユーイング男爵が邸宅を売り払って姿を消したという噂が流れ、その後は彼の名をぱたりと耳にしなくなった。ダウエル侯爵邸には表面上何の変わりもなかったけれど、侯爵夫妻も執事もどこか軽やかな顔つきで、もしかしたら私もそうだったかもしれない。屋敷の上空にかかる煤煙が、ほんの少し払われたようだった。

 

 ――これは、ダウエル侯爵夫妻にもお話していない、私とキティお嬢様だけの秘密。

 雪のチラつく十二月の半ば、ユーイング男爵が家財を売りに出すらしいという話をお嬢様がご友人から聞きつけ、ふたりで密かに男爵邸を訪れた。「見ておきたいわ」と言うお嬢様の眼差しは共犯者に向けたもの。何より、私も知りたかったのだ。あの男はいったい何者で、キャサリンお嬢様はいったい何から生まれたのか。

 観劇に行くと言って屋敷を出て、馬丁のテリーに金を握らせ馬車をユーイング男爵邸に向かわせた。ほとんどの家具には「SOLD」の紙が貼られ、娼婦染みた風体の女たちが売却代理人に金を渡して宝飾品を持ち去っていく。若い令嬢がいることに人々は好奇の眼差しを向けたが、ひときわ冷え込みの厳しい日で厚着をしていたこともあり、ダウエル侯爵令嬢と気づく者はいなかった。あえて古びた外套を羽織ったせいもある。

 お嬢様は屋敷内を興味深そうに見回しながらも、足取りに迷いはなかった。「匂いがするの」と小声で囁くと、階段を上がり、通路を突き進み、書斎と思しき部屋へと立ち入る。人の姿はなく、机には売却済みの紙が貼られ、引き出しの中身は空っぽ、書棚にわずかな本が残っているだけだった。

 最近出版された大衆小説が数冊投げ置かれ、その中に異様に古びた書物が一冊。『Macbethマクベス』だ。お嬢様はそれを手にとり、鼻に近づけた。低い位置から差し込む陽光を受けて縦長にすぼまっていた彼女の瞳孔が、好奇の笑みとともに丸く広がる。まるで毛糸玉を狙うレイヴンのように。

「エマ。、ユーイング医師はで蓋を開けていたの。紫と緑の二層の液体に、黒髪の赤ん坊が沈んでいたわ。そして、とてもとても懐かしい匂いがした。まだ空が澄んでいた昔の、立ち昇る煙とともに喪われた者たちの。私は焼かれることなく、長い時を経て老いさらばえ、このまま朽ちるのだと思っていたけれど、その匂いを嗅いだ途端に見えてきたの。あの男の暗い影が、秘めた欲望が。

 あの男は、子を望む者のためにやっていることなのだと言った。自分は聖人だとでも思い込んだ顔で。だから私は囁いた。【おまえは赤子で莫大な財を築くだろう】【いずれ爵位を得るだろう】。男は、この魔女め!と叫んでグラスを投げつけた。破片で傷ついた老猫の血が、赤子を浮かべたあの美しい液にひと雫垂れたとも知らず、老猫の中身がそこに眠る赤子の体を奪ったとも知らず。薬液に抱かれてまどろみ、視界は灰色の霧に包まれ、聞こえる音はおぼろに歪み、泣くか笑うかしかできない赤子の姿で男をどうそそのかそうかと思案し、気づいたらお母様に抱かれていた。ダウエル侯爵家の娘になっていた」

 途中から口調も声色も変わり、甘やかな、饐えた匂いが部屋を満たしていた。窓の外を一羽の鴉が過ぎり、お嬢様は手に持った『マクベス』から視線をあげる。

「エマ、信じる?」

「お嬢様が、魔女だということをですか?」

 首肯する代わりに、お嬢様はゆっくり瞬きする。

「十九世紀のロンドンに魔女などおりません。さ、雪が積もる前に戻りましょう。お嬢様は、昔から寒いのが苦手でしょう?」

 心のうちを見透かすような金色の双眸が、じっと私に向けられる。そして、少女らしい無垢な笑みを浮かべた。

「厨房の竈の前がいいのよ。あそこにいると、たまにおこぼれがもらえるの。でも、今は部屋の暖炉のほうが好きよ。火を見てると時々ゾッとするけど」

 何も買わず男爵邸を出ると寒風がひと吹きし、吸い込んだ息で肺がひやりとした。嗅ぎ慣れた煤煙の匂いと、いつもより淡い灰色の空から舞い落ちてくる雪の、白く澄んだ匂い。御者台から飛び降りたテリーがキャビンの扉を開け、お嬢様は誰の手も借りず軽い身のこなしで乗り込む。扉が閉まり、「エマ」と上目遣いでこちらを見た。

「侯爵様と奥様には内緒ですよ」

 窓際に体を寄せると、隣に座って私の膝に頭を預ける。甘えるようにこちらを見上げるお嬢様の、灰色の瞳の中で瞳孔はこれ以上ないほど細く狭まっていた。


〈了〉

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