箱の出口に待っていたもの

ずっと、嫌だったのかもしれない。

ただ淡々を危なげなく毎日を暮らすことが。

成功する可能性の少ない仕事を諦め、堅実に稼げる、女としてケチのつかない仕事をすることが。


——私はずっと、自分の足で、新しい世界に踏み出したかったのかも。この狭い世界から、飛び出したかったのかも。


「そういやあご注文ですけど。どうしますか?」


「あ、すみません、私ったら」


「よかったら、おすすめがあるんですけど。それにしてみます?」


律が、イタズラっぽく口角を上げる。

その顔が可愛らしくて、ふ、と思わずつられてしまった。


「じゃあ、それで」


「承りました」


キッチンの方へ振り返り、湯を沸かし始めた律は、テキパキとティーカップを用意する。


差し出されたのは、白いカップに注がれた爽やかな香りの紅茶。よく見れば、カップの持ち手は猫の手になっている。これは、彼の趣味なのだろうか。


「わ、いい香り」


「長崎で作られた日本の紅茶、和紅茶です」


「え、日本でも紅茶って作ってるんですか?」


「はい。渋みが少なくて優しい甘味のものが多いんですわ」


ひとくち含めば、フルーティーな香りが鼻を抜けた。律の言うように、苦味が少なく、ストレートでも飲みやすい。


「蝶々夫人の舞台となったのが、長崎なんです。ということで、安直ですけど選んでみました」


不思議なことに、和紅茶を飲んでいたら、胸の中につかえたおりが、すうと溶けていく感覚があった。


夢子は徐にスマホを取り出すと、律が教えてくれた曲名で、検索をしてみる。

『ある晴れた日に』。ブラウザ上で見つけ、音声サンプルの再生ボタンをおす。

いやというほどに逃げ回ったその曲が、店の中に流れた時。


夢子の瞳からは、涙はこぼれなかった。


聞こえるのは、穏やかで、たおやかで。愛に身を捧げた女性が、耐え忍ぶ心で綴る歌声。


蝶々夫人に別れを告げよう。

待つのはもう終わり。前に踏み出さなければ。


夢子は会計を終えると、律にあらためてお礼を言った。この店に来なければ、きっとまだ自分は足踏みをして、あの曲に悩まされたままだっただろう。


ちょうど客がいなかったこともあり、彼は出口まで送ってくれた。


「今後はどうされるつもりなんですか?」


「ええと、あの笑わないでくださいね」


「笑いませんよ」


フルフルと首を横にふる彼を見て、夢子ははにかんだ。


「私、物語を書く仕事がしたかったんです。シナリオライターを目指して、ゲーム会社から内定をもらったこともあったんですけど。親から、そんなの真っ当な仕事じゃないって、反対されて辞退しちゃって」


「それはいい夢ですね。今から目指すのもいいんじゃないかやぁ」


「ちょうど派遣の契約が来月末で終わるので。探して……見ようかな」


「あ、でも。そうすると空白期間ができてしまいますよね。もしよかったらなんですが。お仕事が決まるまで、うちでアルバイトしませんか?」


「え?」


「音楽にまつわるご相談、多くはないんですけど。その間にホールを回す人員が足らんことがあって。ちょうどアルバイトさんを募集しまいかと思っとったじゃんね」


そう言うと、律は首を傾げて、甘えるように夢子に言う。


「お願いできませんか?」


「う」


こんなふうに懇願されて、断れる人間がいるだろうか。


「わ、わかりました……」


「よかった!」


ジングルベルが商店街に流れる中。

夢子の新しい旅路が始まりを告げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

音楽共感覚〜横浜元町ティーサロン・ムジコの相談録〜 春日あざみ @ichikaYU_98

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ