二人のブレンド、雨上がりの体温

南條 綾

二人のブレンド、雨上がりの体温

「いらっしゃいませ」


 いつものように声を出すけれど、私の心臓が小さく跳ねるのは、決まってあの席に座る人を見た時だけだ。

大学の近くにある静かな個人経営の喫茶店。

私はここで週に三回、夕方のシフトに入っている。

そして、彼女結衣ゆいさんは、いつも木曜日の午後の、この窓際の席に座る。


 結衣さんはいつも同じものを頼む。深煎りのブレンドと、シュガーを三つ。

そして、小さな文庫本を読んでいた。

彼女が本を読む仕草は、まるで教会のステンドグラスを通して差し込む光のように、静かで美しい。

彼女の横顔を、レジカウンター越しに盗み見るのが、私の密かな楽しみだった。


 今日の結衣さんは、黒いセーターを着ていた。首元が少し緩んでいて、華奢な鎖骨が覗いている。

そこに、私の視線が釘付けになる。

もうすごく癒しでいくらでも見れちゃう。


「綾、ぼーっとしてないで。あれ、伝票切って」


 マスターの少し低くて優しい声に、私はハッと我に返った。


「す、すみません!」


 慌ててレジを操作する。こんなに何かに夢中になるなんて、自分でも驚いている。

こんな風に注意を受けたのは初めてで、いけない、いけないと思いながら目は結衣さんを追っていた。


 結衣さんとは、一度もまともに話したことがない。

飲み物を運ぶ時の「お待たせいたしました」と、会計時の「ありがとうございました」だけ。

それなのに、結衣さんがいるだけで、この喫茶店の空気は、どこか甘く、淡い光に満たされているような気がする。


 それから数日が過ぎてこの日は、雨だった。

誰もが足早に通り過ぎる中、結衣さんだけが、いつものように窓際に座っていた。

雨のしずくが、窓ガラスを伝って滑り落ちていく。

その光景と、ブレンドの湯気に包まれた結衣さんの姿は、まるで一枚の絵画のようだった。


 マスターが急な用事で早く帰ることになり、その日は私が閉店作業をすることになった。

お客様はもう結衣さん一人だけ。

私は、カウンターの中を片付けながら、意を決した。


「あの……もうすぐ閉店のお時間になりますが、よろしいでしょうか」


私が結衣さんの席まで歩み寄り、声をかけると、結衣さんはゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、雨の日の空の色みたいに、少しだけ翳っていて、でも澄んでいた。


「ごめんなさい。気づかなくて」


 結衣さんは小さな声でそう言って、読んでいた文庫本をパタンと閉じた。

その時、彼女さんの指先が、カップに残った冷めたコーヒーの縁を、そっと撫でた。


「あの、もしよければ……」気づいたら、言葉が口からこぼれていた。


「よかったら、今淹れたばかりの熱いコーヒーを、もう一杯いかがですか。今日のお詫びに、私からのサービスです」


 言ってしまってから、なんて大胆なことを口走ったのかと、顔が熱くなっていくのを感じてしまった。

私、こんなこと、お客さんに言ったことないのに。

結衣さんは少し驚いたように目を丸くした後、ふわりと微笑んだ。


「ありがとう、綾さん」


 私の名前を、知っているの? 名札を見てくれたのだろうか。

その事実に、結衣さんが知っている。それだけで私の心身は熱くなってリンゴのように赤くなっているんじゃないのって思うぐらい。


「いただきます」


 そう言った結衣さんの声は、雨の音の中でも、私にはっきりと聞こえた。

私は急いでカウンターに戻り、豆を挽き、丁寧にドリップする。

いつもより少しだけ、多めに愛を込めて。


結衣さんに、熱いブレンドコーヒーを差し出す。湯気が、二人の間の空気を暖めた。


「あの…いつも、ここで何を読んでいらっしゃるんですか?」


勇気を出して、聞いてみた。


結衣さんは、目を細めて、閉じた文庫本をそっと指差す。


「ふふ、これはね、悲しい恋の物語」


「悲しい、ですか?」


「うん。でも、悲しいからこそ、そこにある光が、とても綺麗に見えるのよ」


 結衣さんは、そう言って、私が出した熱いコーヒーに口をつけた。

その瞬間、窓の外の街灯の光が、ふいに強く結衣の顔を照らした。

その横顔は、今日、私が今まで見た中で、一番美しかった。


 私は、彼女の言葉が、その悲しい恋の物語が、まるで自分自身の未来を映しているようで、胸の奥が締め付けられるのを感じた。

結衣さんが私の淹れたコーヒーを飲み干した後、私たちはしばしの沈黙を分かち合った。

雨は小降りになり、外の空気はひんやりとしている。


「ごちそうさまでした。美味しかったです、綾さん」


 結衣さんはカップを置いて、立ち上がった。

その一連の動作が、名残惜しさを強く感じさせる。


「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」


 お礼を言うのは私の方だ。彼女と、こんなに長く、近くでいられたことが、私には奇跡のようだった。

結衣さんは、コートを着て、出口へ向かいながら、ふと立ち止まった。

振り返った彼女の目は、何かを探すように、私を見ていた。


「あのね、綾さん。さっきの話、悲しい恋の物語のこと」


「はい」


「あの本を読むたびに、私はいつも、現実には悲しい結末は迎えたくないって、強く思うの」


 彼女はそう言うと、持っていた文庫本をぎゅっと胸に抱きしめた。そして、少しだけ俯きながら、続けた。


「私の生活の中で、綾さんのいるこの喫茶店の時間が、一番の『光』だった。毎週木曜日、会えるのが楽しみで。綾さんがカウンターに立つ姿を見るだけで、私はまた一週間頑張れたの」


 私の心臓は、激しい音を立て始めた。彼女の言葉が、私の凍っていた感情を、一瞬で溶かしていく。


「それは……私もです。結衣さんが窓際にいると、お店全体が明るくなる気がしていました」


 震える声でそう返すと、結衣さんは目を上げ、まっすぐ私を見つめた。その瞳は、もう曇りなんて一つもなかった。


「綾さん。私ね、この関係を、この光を、喫茶店の外にも連れ出したいと思っているの。悲しい物語じゃなくて、二人で温かい物語を作りたい」


彼女は、少し頬を赤らめながら、はっきりと言った。それは、迷いの一切ない、まっすぐな告白だった。


「私と、友達から、始めませんか」


 数日後、私たちは、別の街にある「ルーンカフェ」という店でお茶をしていた。

ちょうど雨がぽつぽつと降ってきたので、雨宿りのつもりで入ってみた。

お互いの大学の話、好きな音楽、それからバイト先のマスターのちょっとした失敗談。

他愛のない話のはずなのに、結衣さんと向き合っているだけで、世界がまるごと特別になったような気がした。


「まさか、私が先に声をかけられる側になるとは思わなかったなぁ」


「え?」


「だって、綾さん、いつも熱心に見てくれるのに全然話しかけてくれないんだもん。正直、もう私から行くしかないかなって諦めてたところだったんだよ。だから、すごく嬉しい」


私の顔は、きっと真っ赤になっていただろう。結衣は意地悪そうに微笑む。


「……あの、ごめんなさい。気づかれてたなんて」


「いいの。私も勇気がなかったから。でもね、雨の日のあのコーヒーのおかげで、私も一歩踏み出せた」


 結衣さんは、私の手をそっと握ってくれた。温かくて、柔らかい感触に幸せを感じてしまう。


「あの時、綾さんが淹れてくれたコーヒー、すごく温かかった。……手渡された時のカップの熱さが、私の迷いを溶かしてくれた気がするの。だから、私も自分の気持ちをちゃんと伝えなきゃって思えたんだよ」


 彼女の指が、私の指に絡まる。二人の手が、完全に一つになった。


「結衣……」


「綾」


 お互いの名前を呼び合う。初めて店員とお客の関係を超えて呼び合ったその名前は、世界で一番甘い響きを持っていた。


 私の心の中に、新しいコーヒーの香りが広がっていくのを感じた。

それは、深煎りの苦さだけではない、シュガー三つ分の甘さだけではない。

結衣という存在と混ざり合った、私たち二人だけの、新しいブレンドの香り。

しばらくすると、雲の隙間から陽が差し込み始めた。


「あ、雨、止みましたね」


「本当だ。……行こうか、綾さん」


 店を出ると、街は洗われたように輝いていた。

窓の外には、雨上がりの午後の、優しい光が溢れていた。

悲しい恋の物語は、もう、いらない。

私たちは、二人で、この温かい光の中を歩き始める。

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