第1章 不死鳥亭
クライフェルトは、リヴルダール公国の国都シャン・グリーンにたどり着いた。
城下街に入る門の手前で、馬から降り、街へと足を踏み入れる。
これは、騎士であった頃の名残と言える。
敵国であろうと、城や城下街に入る際には、その国に住まう人々へ敬意を示し、馬上からではなく自らの足で入る――そう教えられてきた。
(もう、騎士ではないのだがな)
頭では分かっていても、馬に乗ったまま門をくぐるのは、どうにも気持ちが悪い。
結局、癖のように下馬していた。
街に入ると、これまで通過してきた街や村とは、明らかに人々の顔色が違っていた。
なにより明るい。
殺伐さや、張り詰めた緊張感が感じられない。
門をくぐって左手には市場が広がっている。
城門近くの馬宿に馬を預け、ひとまず市場を一回りしてみた。
賑わう声。行き交う人々。
並ぶ品も、大陸からの交易品や食料だけでなく、剣や槍、鎧までが当たり前のように売られている。
物価も、特別高いというほどではない。
周辺の街や村で耳にしていた戦支度の噂も、ここでは感じられなかった。
クライフェルトは、少し拍子抜けした。
だが、その変わらない日常の風景に、どこか引っかかるものがある。
(……やはり、なにかある)
それは、理屈というより直感だった。
とにかく、まずは宿を取らなくてはならない。
この人混みの中で、馬を連れて長居はできない。
城門から城へ続くメインストリートを避け、街の奥へ少し入った宿を探す――。
これまでの旅路で身についた癖も、まだ抜けてはいない。
それに、この人混みだ。
雑踏の往来が届かない、静かな宿が望ましかった。
「ねえ? お兄さん」
不意に、女の声がした。
年はクライフェルトと同じくらい…。いや、やや上のように見えた。
薄らと化粧をしていて、人懐っこい表情でクライフェルトの正面に立った。
「なにか?」
クライフェルトは足を止め、無意識のうちに馬の首を撫でる。
「旅の方でしょ? うちの宿に泊まっていかない?」
「……わかるかね?」
「ええ。分かるわ。それも、上品な旅の方ね」
「上品だって?」
その言葉に、クライフェルトはわずかな違和感を覚えた。
女性は屈託のない笑顔で話を続ける。
「だって、旅の方が城下の門をくぐるのに、わざわざ下馬はしないものよ。それはね、高貴な騎士様たちがすることよ」
「……見ていたのか?」
女性はくすりと笑った。
そこに嘲りはなく、ただ会話そのものを楽しんでいるようだった。
「私はクライフェルトだ。
故あって、ブリティン島を廻っている」
名乗ると、女性はまた小さく笑った。
「私はアリス。曽祖父の代から宿屋をやってるわ」
アリスはそう言って、クライフェルトから手綱を取る。
馬に対しても、慣れた仕草だった。
「なにがおかしい?」
「ごめんなさい。気を悪くしないでね。
クライフェルトは、大陸の貴族の出身?」
「……なぜだ?」
「だって、ただの旅人が宿屋の女相手に、先に名乗ったりしないわ」
そう言って、アリスは歩き出す。
「こっちよ」
クライフェルトも後を追った。
整備された石畳に、馬の蹄の音がよく響く。
その音が気にならないほどの人の流れの中を、アリスは慣れた足取りで進んでいく。
「うちは、街の奥の方なの」
そう言っているうちに、古い石造りの城壁が目の前に現れた。
外の城壁よりも高く、そのあちらこちらに、白地に赤い二羽の鳥が背を向け合う軍旗が掲げられている。
「あの鳥はツガイなんだって」
アリスは歩きながら言った。
「一羽は航海の安全を見ていて、
もう一羽は街の平和を護ってるの」
シャン・グリーンは、ブリティン島西部において最大の交易都市としても知られている。
「ここから、旧市街ね」
整備された新市街とは違い、道幅は次第に狭くなる。
表通りから人影は消え、生活の井戸の周囲にだけ、数人の夫人らしい女性が話し込む姿が見えた。
路地裏からは、子供の遊ぶ声が聞こえてくる。
「この上よ」
なだらかな坂の道を上がると、それまでの旧市街とは少し違う、陽の温かさが穏やかな風に乗って流れてきた。
「ここよ」
アリスはそう言うと、馬留めに手綱を結び、『不死鳥亭』と書かれた看板の建物に入っていった。
リヴルダールでは珍しい木造の建物で、脇には馬房も備えられている。
なにより目を引いたのは、『リヴルダール最古の宿』という文字だった。
クライフェルトは、今来た道を振り返った。
国都シャン・グリーンが一望できる。
新市街と旧市街だけではない。
西側には巨大な港が広がり、貿易品を収める倉庫だろう建物群が並んでいる。
広い道が、街の中心から城へと、目抜き通りのように真っ直ぐ伸びていた。
「いい宿に当たったな」
「なにしてるの? 早く入って入って」
アリスの明るい声に促され、クライフェルトは建物の中へと足を踏み入れた。
中には宿帳が置かれたカウンターがあり、クライフェルトは名を書き入れる。
「いつまでシャン・グリーンにいるの?」
「うーん……」
「決めてないの!?」
本気で悩むクライフェルトの顔を見て、アリスは少し呆れたような表情になる。
「うちは一泊二十五リゼルなんだけど……」
その言葉と同時に、アリスの表情がわずかに曇った。
上品な旅人といっても、それが潤沢な懐を意味しないことは、宿屋を営む者としてよく知っている。
世間知らずの落ちぶれた貴族というのも、珍しくはない。
「その……リゼルなんだが……」
クライフェルトの言葉に、アリスは客引きを失敗したと感じた。
「いや……よく分からなくてな……。金貨なら何日泊まれる?」
その言葉に、アリスは目を見開いた。
「き、金貨ですって!?」
「ああ。手持ちが金貨しかなくてな」
クライフェルトは頭を掻きながら、アリスの言葉を待つ。
「そ、そうね……金貨なら、うちだと……馬もいるから、だいたい一か月くらいね……」
その答えに、クライフェルトはほっと息をついた。
「でも、お釣りは出ないわよ」
「そうか。助かる」
泊まれると分かった途端、クライフェルトは話を聞いていないように、カウンターの調度品や古びた柱時計へと視線を巡らせていた。
アリスは、クライフェルトの世間知らずぶりに、思わず溜息をついていた。
アリスは、宿帳を片づけると顔を上げた。
「部屋は二階よ。案内するわ」
クライフェルトは頷き、荷を背負い直して後に続いた。
古い木の階段は、踏むたびにかすかな音を立てる。
その軋みすら、この宿では生活の一部なのだろう。
二階の突き当たりの部屋で、彼女は扉を開けた。
「ここ。窓から港が見えるの」
中に入ると、宿の前で振り返った景色より、ひと段高いせいか、窓の外は絵画のように落ち着いて見えた。
夕日が港の先、海の果てに沈もうとしている。
「夜のシャン・グリーンも、いいとこなんだけど……」
そう言いかけて、アリスは言葉を止めた。
「どうかしたのか?」
それまでの軽やかな調子との違いに、クライフェルトは首を傾げる。
「ううん……。私、夜のシャン・グリーンを知らないの」
「勇士の募集で、治安でも悪いのか?」
「違うわ」
アリスは小さく首を振った。
「私、十五歳だもの」
クライフェルトは、思わず言葉を失った。
「……十五、か」
「驚いた?」
アリスは、気にした様子もなく笑う。
「少し化粧をすれば、大人に見えるでしょ。それに、冒険者や旅人相手に子供じゃ通らないもの」
その言葉を、クライフェルトはすぐには受け止めきれなかった。
十五歳という年齢と、その割り切った口調が、どうにも噛み合わない。
彼女が特別なのか。
それとも――この街では、それが当たり前なのか。
そう考えかけて、クライフェルトは思考を止めた。
「……そういうものなのだな」
自分でも、曖昧な返しだと思った。
「朝食は付けるわ。簡単なものでよければ、だけど」
付け足すように言ってから、アリスは扉に手を掛ける。
「何かあったら、呼んで」
そう言って、軽く手を振り、階段の方へ戻っていった。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
クライフェルトは、もう一度窓の外を見た。
沈みゆく夕日を背景に、街は何事もないかのように息づいている。
だが――
昼に感じた街の違和感が、消えたわけではなかった。
to be continued…
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