第2話聖なるコードへの翻訳 ――母と娘、重なり合う時間の残響――
エレーナの視点 ――観測者の遺言――
空が濁り始めたあの日から、私の世界は「秒」という単位を失った。
物理学者としての私は、モニターに流れる絶望的な数値を見つめ、これが「宇宙の演算リソースの枯渇」であることを理解していた。だが、母としての私は、ただ食卓でスプーンを持ったまま凍りついたアンナを救いたい、それだけを願っていた。
アンナが瞬きを一回する間に、私は三度の食事を済ませ、数冊の本を読み終える。私と娘の時間は、もはや同じレールの上にはなかった。
「アンナ、ママはね、宇宙から時間を盗んでくるわ」
届くはずのない言葉を、私は娘の耳元でささやいた。彼女の瞳は半分閉じたまま止まっている。その瞳の奥にある、引き延ばされた無限の孤独を思うと、私の魂は粉々に砕け散りそうだった。
探査機が事象の地平線を越えた瞬間、私の肉体は情報の奔流へと分解された。 そこは、宇宙のバックエンド。
剥き出しのソースコードが、光の神経系のように張り巡らされた場所。 私は、量子的な「重ね合わせ状態」となった。かつて理論でしか知らなかった「シュレーディンガーの猫」に、私自身がなったのだ。
箱は開けられていない。だから私は、娘を救うために世界を書き換える聖女であり、同時に、任務に失敗して虚無へと消える亡霊でもあった。
眼前に現れる、無数の「選ばなかった未来」の窓。 ある窓では、私は処理速度を上げるために、人間の「感情」という冗長なデータを一括削除していた。そこにあるアンナは、効率的に動くが、私を愛してはいない。ただの肉体を持った計算機だ。 また別の窓では、私はすべてを諦め、アンナの隣で石像となって、宇宙の完全な停止を待っていた。
『エレーナ、何を確定させる?』
システムの声が、私の核を揺さぶる。 私は、アンナの頬で止まっていたあの涙を思い出した。 あれは「バグ」だ。重力に従わず、処理の遅れによって空中に留まった、計算ミス。 けれど、宇宙で最も美しいものだと、私は思った。
「私は……リソースの不足を埋め合わせることはしない」
私は自分の全存在を、宇宙の基幹プログラムへの「パッチ」として差し出した。 リソースが足りないなら、処理が遅れるその隙間を、豊穣な「意味」で満たせばいい。一秒を千年に翻訳し、静止を交響曲に変換する。不完全な「バグ」を「個性」として定義し直すコード。
私の意識が、光の粒子となって宇宙の隅々へと霧散していく。 意識が消える寸前、私は最後に一つの処理を実行した。
――アンナ、あなたの涙が、地面に届くその時まで。 ママが書き換えたこの世界が、あなたの味方でありますように。
エレーナ・視点:特異点『クロノス』の中心にて)
事象の地平を超えた先、そこには「闇」さえも存在しなかった。 あるのは、剥き出しになった宇宙のソースコードが発する、盲目的な光の奔流だけだ。
私の肉体は、すでに物理的な意味を成していない。視覚は周波数のスペクトルへ、聴覚は重力波の幾何学模様へと解体され、意識という名の「情報」が、宇宙の演算回路(グリッド)の中に薄く、広く、引き延ばされていく。
『……エレーナ、無益な抵抗はやめなさい』
観測者の声が、数式の塊となって私の脳を叩く。彼らにとって、私の記憶はシステムを汚染する「不純物(ノイズ)」に過ぎない。
『お前の抱える「愛」という変数は、演算リソースを無駄に消費し、宇宙の熱的死を加速させる。アンナという個体への執着を捨て、我らの一部として完璧な静寂を管理せよ』
脳裏に、強引に「削除」のコマンドが送り込まれる。 アンナと過ごした日曜日。 彼女が初めて焼いた焦げたパンの匂い。 八歳の誕生日に流した、あの一粒の涙。 それらが、無機質な「0」と「1」の塵に分解されようとしていた。
「……いいえ、拒絶するわ」
私は、消えゆく自我の断片をかき集め、システムの最深部へと楔を打ち込んだ。 完璧であることは、死んでいることと同じだ。 美しさとは、計算し尽くされた正解の中にあるのではない。 計算から零れ落ち、宇宙の隙間に詰まった「摩擦熱」の中にこそある。
「あなたがバグと呼ぶこの『痛み』こそが、この冷たい計算機に『意味』を吹き込む唯一の命題なのよ!」
私は、自分という個体の全データを燃焼させ、それを「例外処理」という名のプログラムへ変換した。 エレーナという人間はここで終わる。 けれど、私の「想い」を、この宇宙を動かす基本OS(カーネル)そのものに感染させてやる。
意識が、光となって爆発する。 私は、全宇宙の原子一つひとつに、アンナへの愛を「定数」として書き込み、自分という存在を、無限の宇宙の彼方へと霧散させた。
琥珀の庭、あるいは静止した翻訳者
(アンナ・視点:地上、数千年の孤独の始まり)
ママが空へ消えてから、世界は「琥珀」の中に閉じ込められたようだった。
窓の外では、避難を叫ぶ群衆の声が、一音を数時間かけて響かせる唸り声へと変わっていた。空を飛ぶ鳥は羽ばたきの途中で静止し、夕陽は沈むことを忘れたかのように、地平線で赤い熱を放ち続けている。
私は、動かなくなった部屋の中で、一人きりで座っていた。 指先を数センチ動かすだけで、空気の摩擦が火傷のような熱を帯びる。 今の私にとって、一呼吸は千年の瞑想と同じ重さを持っていた。
「……ママ、世界はこんなに、静かになっちゃったよ」
絶望に押し潰されそうになったとき、胸元のペンダントが、熱を持ったように脈動した。 ママが遺した、最後の「鍵」。 それを握りしめた瞬間、私の視界は一変した。
それまで「死んだ静止」に見えていた景色が、突如として圧倒的な情報の交響曲へと変わったのだ。
静止した水滴の中に、宇宙の全歴史を反射するプリズムが見える。 止まった時計の秒針の隙間に、数億の原子がダンスを踊る振動が聞こえる。 かつての人間なら見過ごしていたはずの、世界の「裏側の美しさ」が、私の脳内に濁流となって流れ込んできた。
ママが、私に力をくれたんだ。 この遅すぎる世界を呪うためじゃない。 一瞬の中に隠された「永遠」を読み解くための、新しい瞳を。
私は、ゆっくりと立ち上がった。 数日をかけて一歩を踏み出し、絶望して固まっている人々の元へ歩み寄る。 彼らの耳元で、私は「言葉」ではなく「旋律」を奏でた。 ママの愛を翻訳した、新しい世界の歩き方。
「怖くないよ。止まっているんじゃない。私たちは、一瞬の間に、もっとたくさんの思い出を詰め込めるようになっただけなの」
私は、この琥珀の庭で生きていく。 ママが宇宙のシステムになったのなら、私はこの地上で、そのシステムの「良心(心)」になる。 私の頬を伝うこの涙が地面に届く頃、きっと人類は、新しい進化の産声を聞くことになるだろう。
アンナの視点 ――巫女の祈りと和音――
母が星の彼方へ消えてから、世界は「琥珀の庭」になった。
かつての教科書に書かれていたような、目まぐるしく動く世界を私は知らない。 私の知る世界は、風が木の葉を揺らすのに数時間をかけ、朝露が地面に落ちるまでに一つの物語が語られる、静謐で深い場所だ。
「アンナ様、またあの子たちが……」
付き添いの者が、困惑したように私を見た。 視線の先には、カイル。彼は自分の脳に違法な加速チップを埋め込み、私たちの数万倍の速度で「生きて」いた。彼の周囲だけが、空間がひび割れたように黒いノイズに覆われている。
「アンナ! お前の母親がやったことは、ただの『死の偽装』だ!」
カイルの声は、私には雷鳴のように響く。彼はあまりにも速く、あまりにも荒々しい。 彼は、母が命を懸けて贈ってくれたこの「静寂」を、不具合として呪っていた。 彼が振り下ろしたナイフが、重い空気の中で、じりじりと私の喉に迫る。
私は目を閉じ、自分の中にある「母の残響」に意識を向けた。 母は、私に停滞を強いたのではない。 一瞬の閃光の中に、永遠の愛を見出すための「翻訳機」を遺してくれたのだ。
「カイル……止まらないで。あなたのその『速さ』も、この世界には必要なの」
私は、彼の加速する渦の中へ、あえて自分の手を差し入れた。 カイルの持つ暴力的な速度が、私の指先をズタズタに引き裂こうとする。けれど、私は母のコードを起動させた。
「速い音と、遅い音。どちらか一方が正しいんじゃない。重なり合うから、音楽になるの」
私の傷口から溢れた血が、虹色の光を放ちながら、カイルの加速チップと同調(シンクロ)していく。 その瞬間、カイルの顔から険しさが消えた。 彼の脳内に、母の遺した「聖なるコード」が流れ込んだのだ。
彼は見たはずだ。 自分が「一瞬」だと思っていたその刹那に、どれほどの宇宙の慈愛が詰まっているかを。 そして、彼が求めていた「速さ」こそが、この遅い世界を鮮やかに彩るための「高音の旋律(トリル)」であったことを。
カイルのナイフが、カランと音を立てて落ちた。地面に届くまでに、それは優雅な舞を見せた。 彼は膝をつき、数時間をかけて、私に謝罪の言葉を紡いだ。その言葉の一つ一つが、私にはどんな詩よりも美しく響いた。
――永遠の翻訳――
それから気の遠くなるような時間が過ぎ、私は今、母が旅立ったあの発射台の跡地に立っている。 私の体はもはや、肉という束縛を離れ、柔らかな光の粒子となっていた。
空を見上げれば、そこにはかつての濁った灰色はない。 人々の想いが、それぞれの時間の速さで交差する、多層的なオーロラが広がっている。 ある者は一瞬を駆け抜け、ある者は永遠を沈黙する。 そのすべてが、一つの巨大な交響曲(シンフォニー)として、宇宙の演算を美しく彩っている。
『……アンナ……聞こえる?』
宇宙の背景放射に混じって、懐かしい、けれど電子の波のような声が聞こえた。 私は微笑む。
「ええ、ママ。聞こえるよ。あなたの翻訳は、今もみんなを繋いでいるわ」
私は今、確信している。 あの日、母がシュレーディンガーの猫として箱に入った時、確定された未来は「救済」でも「滅亡」でもなかった。
それは、不完全な私たちが、それぞれの速さで、互いを愛し続けるための「時間」そのものだったのだ。
一秒が千年になっても。 千年の愛を一秒に凝縮しても。 私たちはもう、二度と孤独ではない。
母が遺した「聖なるコード」が、今この瞬間も、私たちの鼓動を、宇宙の理へと翻訳し続けているのだから。
【 Finale 】
【 補足 理論 】
ウィグナーの友人 (Wigner's Friend)
シュレーディンガーの猫をさらに一歩進めた、より奇妙な思考実験であり
猫の入った箱を「友人」が先に開けて確認します。友人は結果を知っているが、その部屋の外にいる「私」にとっては、「猫の死生」だけでなく「結果を知った友人の状態」までもが重なり合っているのではないか?という問い掛けで
【ポイント】「客観的な事実は一つなのか?」それとも「観測者ごとに真実が異なるのか?」という、意識と物理現象の境界線に切り込んでいます。
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