事象の地平に咲く螺旋 2(らせん)

比絽斗

第1話 静止する琥珀の庭

静止する琥珀の庭


その日、世界から「躍動」が失われた。

空の色は、古いフィルムを幾層にも重ねたような、濁った灰褐色に澱んでいた。

 かつて、夏の午後に見上げたような突き抜ける青はどこにもない。大気そのものが重粘な液体のようになり、光の粒子でさえ、その中を進むのに苦労しているかのように見えた。


 物理学者エレーナは、自宅のキッチンで、愛娘アンナの姿をじっと見つめていた。 八歳になるアンナは、食卓に座ったまま、まるで透明な琥珀に閉じ込められた蝶のように静止していた。

 いや、厳密には動いている。彼女がスプーンを口元へ運ぼうとするその動きは、ミリ単位の進捗に数十分を要していた。


「……アンナ。ゆっくりでいいわ。ママはここにいるから」


 エレーナの発した言葉は、アンナの耳に届くまでに、どれほどの「時間」を旅しなければならないのだろうか。エレーナは胸の奥が焼きつくような痛みを覚えた。

 外を見れば、さらに無残な光景が広がっていた。道路の真ん中で、排気ガスの煙を排出したまま静止した車。飛び立とうとした瞬間に、見えない糸で吊るされたかのように空中で固定された鳩。そして、歩道で助けを求めるような表情のまま、一歩も動けなくなった隣人たち。


 世界中で同時多発的に発生した「時間の病(クロノス・パンデミック)」。 当初は未知のウイルスによる神経疾患だと疑われた。

 だが、エレーナはその真実にいち早く到達していた。これは生理的な病ではない。

 この宇宙を成立させている「演算リソース」が、知性体の爆発的な増加と情報の複雑化に耐えきれず、致命的な処理落ち(フリーズ)を起こし始めているのだ。


「ママ……」


 数時間の沈黙の後、アンナの唇がわずかに戦慄き、地底から響くような重低音が漏れた。 「……空気が……硬くて、泳いでる……みたい。暗い、水の底に、いるの……」


 アンナの瞳から溢れた涙の一粒が、頬を伝うこともなく、頬の途中で丸い真珠のように浮き上がっていた。重力という物理法則さえも、演算の遅延によってその効力を失いつつある。

  エレーナは、娘の冷たくなった小さな手に触れた。指先に伝わるのは、生命の鼓動というよりは、停止しつつある機械の微かな振動に似ていた。


「大丈夫よ、アンナ。ママが必ず、この『空気』を溶かしてみせる」


 その夜、エレーナは大学の研究室に籠もり、狂ったように数式を書き連ねた。モニターに映し出されるのは、宇宙の基幹プログラムを構成する多次元のフラクタル構造だ。

「計算が合わない……このままでは、あと数年で宇宙の全演算は停止する」

地球上のどんなスーパーコンピューターも、この巨大な「バグ」を修正することはできない。修正できる場所はただ一つ。事象の地平線の向こう側、宇宙のソースコードが剥き出しになっている特異点のみ。


エレーナは決意した。

自分が、システムの内部に直接アクセスするための「パッチ」になることを。


事象の地平線、あるいは観測者の消滅


 漆黒の虚無、ブラックホール『クロノス』へ向かう探査機の中で、エレーナは最後の手記を綴っていた。

「私は宇宙から時間を盗みに行く。だが、それは略奪ではない。この不完全な世界を、神の視点ではなく、母の視点で翻訳し直すための旅だ」


事象の地平線を越えた瞬間、轟音は静寂へと反転した。 肉体という境界が溶け、エレーナの意識は純粋なビットの奔流へと解体されていく。

 そこは、過去・現在・未来という線形的な時間が存在しない「情報の海」だった。


 彼女の眼前に、無数の「可能性の窓」が浮上する。量子的な重ね合わせ状態となった彼女は、同時に複数の人生を観測していた。

  一つの窓では、彼女はアンナを救えず、冷たい石像となった娘を抱きしめて永遠に泣き続けていた。 別の窓では、彼女は完璧な理性を手に入れ、人類の感情という「非効率なノイズ」をすべて削除して、宇宙の演算速度を強制的に引き上げた。


『エレーナ、何を選び、何を確定させる?』


宇宙のシステムの声が、彼女の魂に直接響く。  エレーナは、特異点の中心で、アンナのあの涙を思い出していた。あの涙は、重力に従わない不格好な球体だったが、そこには母を求める切実な命の輝きがあった。


「私は、効率化を選ばない。そして、絶望も選ばない」 エレーナは、自分の記憶、感情、そして個としての自我をすべて、宇宙の基幹コードを書き換えるための「代償」として差し出した。 「宇宙を、リソースの量で測るのをやめなさい。処理が遅れるなら、その『遅れ』そのものを、豊穣な意味を持つ空間として定義し直すの」


 彼女の手が、空中の光り輝く糸を紡ぎ、複雑な結び目を作っていく。

それは「例外処理」の挿入だった。演算が追いつかない場所では、知性体の主観をその速度に同調(シンクロ)させ、一瞬を永遠に、静寂を交響曲に変えるプログラム。 エレーナという個体は、その瞬間、宇宙全体へと拡散し、消滅した。彼女は神になったのではない。世界を愛するための「言語」そのものになったのだ。


 時の巫女と加速する亡霊


 エレーナが消失した瞬間、地球に奇跡が起きた。 アンナの頬で止まっていた涙の玉が、ゆっくりと重力に従って滑り落ち、彼女の服を濡らしたのだ。


「……ママ?」

アンナの瞳に光が戻った。世界は以前よりずっとゆっくりと、粘りつくような時間の中にある。だが、もはや誰もそれを「病」とは呼ばなかった。人々の精神は、母が遺した「翻訳」によって、この静謐な世界を謳歌する術を身につけていた。


二十年後 アンナは、クリスタル化した森の中に立っていた。 彼女は、かつての母のように、宇宙の律動を人々に伝える『時の巫女』となっていた。

「見て。一滴の雫が葉から落ちるまでのこの一時間。そこには、一つの銀河が誕生し、消滅するほどの物語が詰まっているの」


だが、その静寂を切り裂く者が現れた。

「そんなのは嘘だ! お前たちは、ただゆっくりと死に向かっているだけだ!」


 鋭い金属音と共に現れたのは、カイルという名の若者だった。

 彼の背後には、かつての「速さ」という麻薬に取り憑かれた「加速派」の集団がいる。彼らの脳には、非合法な加速チップが埋め込まれ、その周囲だけが狂ったように高速で振動していた。


 カイルがナイフを構えて突進する。アンナの時間の流れでは、その刃は数分かけて迫ってくるはずだった。

 しかし、カイルの加速は強引に宇宙のリソースを収奪しており、彼の通る道筋には黒いノイズが走り、空間がボロボロと崩落していた。


「カイル、やめて。その加速は、あなたの魂を焼き切ってしまう」

「うるさい! 俺は、この泥のような時間の中で腐りたくないんだ。一瞬でいい、本物の速さの中で生きて、死んでやる!」


 カイルの刃が、アンナの喉元に迫る。

アンナは逃げなかった。彼女は、母から受け継いだ唯一の遺品である、数式が刻まれたペンダントを強く握りしめた。

「ママ、教えて。異なる速さを持つ私たちが、どうすれば一つの音楽になれるのか」




 交響曲(シンフォニー)の完成


 アンナは、カイルの突進をあえて受け入れた。彼女は自分の主観速度をカイルの極限の加速へと同期させ、同時に、ペンダントに封じられた「エレーナの最終コード」を解放した。


 その瞬間、カイルの脳内に、爆発的な情報量が流れ込んだ。 それは、彼が求めていた「速さ」を否定するものではなかった。

速い旋律

 しかし、それを支えるための深い、深い低音の持続。 一瞬の閃光の中に、数億年の歴史を読み解く視座

「速さ」と「遅さ」が対立するのではなく、一つの巨大な「和音(コード)」として重なり合う感覚。


「……これが、翻訳……?」


 カイルのナイフが、アンナの皮膚をわずかにかすめたところで静止した。

彼の周囲の黒いノイズは、穏やかな虹色の光へと変貌していた。

 アンナは、震えるカイルの手をそっと包み込んだ。

「速く動いてもいいの、カイル。でも、世界を壊さないで。あなたの速さを、この静かな世界を彩る装飾音(トリル)に変えて」


 カイルは崩れ落ち、初めて、このゆっくりと流れる世界の豊かさに涙した。彼が流した涙は、数時間をかけてゆっくりと地面に届き、美しい結晶となった。


 星々の譜面


 さらに数億年の時が流れ、人類は肉体を脱ぎ捨てた。

「地球」はもはや物理的な場所ではなく、知性体が共有する「最初の記憶」という名のアーカイブとなった。


 新人類は、情報の雲として星々の間を漂っている。彼らはエレーナのコードに基づき、重力の強い星では数千年の瞑想を楽しみ、虚無の空間では一瞬で銀河を横断する。

 時間の速さの違いは、もはや争いの種ではなく、宇宙を彩る「和音」となっていた。


 銀河の端で、一人の記録者が宇宙の背景放射に問いかける。

「アンナの残響よ。宇宙の演算は、今も健やかですか?」


どこからともなく、温かな風のような、しかし確かな数学的調和を持った波動が返ってきた。


『ええ、とても健やかよ。あの日、ママが盗んできた「時間」は、今や数え切れないほどの命の輝きに変わったわ』


 宇宙の特異点――かつてのブラックホールは、今や宇宙で最も美しい「図書館」として、情報の光を放っている。

そこには、エレーナとアンナの記憶が、永遠の二重奏として刻まれている。 一人は理を翻訳し、一人は心を調和させた。


 星々の瞬きは、宇宙が呼吸するリズム。

それは、かつて不完全な世界を愛した二人の女性が、今も宇宙のどこかで手を繋いで笑っている証拠なのだ。


不完全なまま、永遠に続く音楽のように。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る