焦土の迷宮
@sidemusi
第1話
昭和二十一年、三月。
東京は死んでいた。空を焦がした炎は消えたが、街は灰色の骸となって横たわっている。
十四歳の竹田ケンジにとって、世界とは上野のガード下に敷いた薄汚れたムシロであり、空腹で鳴り止まない腹の虫のことだった。
だが、その日は違った。
「ケンジ! 大変だ、仲見世に巨大な穴が開きやがった!」
靴磨き道具を抱えたトミーが、血相を変えて飛び込んできた。
「穴だと?」
「ああ! 底が見えねえほど深くて、おまけに……光ってるんだ」
浅草へ向かうと、そこには異様な光景があった。
かつての賑わいの中心、仲見世通りの焼け跡に、直径二十メートルほどの巨大な「縦穴」が口を開けていた。
穴の奥からは、この世のものとは思えない淡い青光が、冷たい風と共に吹き上がっている。
「なんだ、ありゃあ……」
野次馬の端でケンジが呟く。その時、穴の縁から「それ」が這い出してきた。
犬のような形をしているが、毛はなく、皮膚は湿った岩のように硬そうだ。目は爛々と青く光っている。
「化け物だ!」
悲鳴が上がる。警戒にあたっていた浅草署の佐々木巡査が拳銃を抜いた。
「離れろ! 近寄るなッ!」
乾いた銃声。
怪物は奇声を発し、再び奈落の底へと転落していった。
人々はそれを「奈落」と呼び、駐留する進駐軍(GHQ)は「ダンジョン」と名付けた。それが、新しい時代の始まりだった。
その夜、ケンジたちの「家」は沈痛な空気に包まれていた。
一番年下のヨシオが、ついに空腹で動けなくなったのだ。
「……ケンジ、もう配給は来ないの?」
十一歳の美智子(ミッちゃん)が、濡らした布でヨシオの額を拭いながら尋ねる。彼女は元看護婦の娘で、手際だけはプロのようだった。
「闇市じゃ、芋一個が軍人の月給並みだ。まともな方法じゃ、もう食わせられない」
ケンジは、トミーが持ち帰った噂を思い出していた。
『ダンジョンの中に、甘い果実が実っている。それを持ち帰った米兵がいる』
「行くぞ。トミー、ミッちゃん。準備しろ」
「えっ、あの中に行くの?」
「座して死ぬのを待つよりはマシだ。俺たちは戦争を生き延びたんだ。化け物一匹に殺されてたまるか」
ケンジは父が残した唯一の形見である軍用ナイフを腰に差し、三人は夜の闇に紛れて上野の「穴」へと向かった。
ロープを使い、三人は奈落の底へと降りた。
深さ十メートルほどで足がつく。そこは、地上の喧騒が嘘のように静まり返った、青い苔が光る洞窟だった。
「見て、これ……」
ミッちゃんが息を呑む。
壁一面に、拳ほどの大きさの紫色の果実がなっていた。甘く、どこか懐かしい匂いが漂っている。
「トミー、毒見だ」
「へっ、俺かよ。……モグ……。っ! ケンジ、これ、すげえよ! 砂糖より甘え!」
トミーが涙を流して果実を頬張る。
その時だった。
奥の通路から、ギチ……ギチ……
と硬いものが擦れる音が聞こえてきた。
「隠れろ!」
ケンジは二人を岩陰に引き寄せた。
現れたのは、昼間に見た怪物ではなかった。
ぼろぼろの旧日本軍の軍服を着た、人型の「何か」だ。
皮膚は死人のように灰白色で、眼窩には瞳がなく、ただ真っ黒な穴が空いている。
「……日本兵?」
ミッちゃんが声を漏らしそうになり、ケンジがその口を塞ぐ。
それは感情のない機械のような動きで果実を収穫すると、暗闇の奥へと消えていった。
「……ありゃあ、人間じゃねえ」
ケンジの背中に冷たい汗が流れる。この場所は、ただの穴ではない。
三人は袋いっぱいに果実を詰め込み、引き返そうとした。
しかし、異変が起きていた。
「……道が、違う」
ケンジが足を止める。
降りてきたはずの場所に、ロープがない。どころか、さっきまであったはずの丁字路が、一本道に変わっている。
「そんな、魔法じゃあるまいし!」
「落ち着け。ここは生きてるんだ。道が変わるなら、別の法則を探すしかない」
ケンジは父から教わった「斥候の心得」を必死に思い出した。
迷宮を右手の壁に沿って進む。決して焦らない。
その途上、三人はうずくまる男を見つけた。
「助けてくれ……足が……」
闇市で一攫千金を狙ったという中年男だ。
ミッちゃんが迷わず駆け寄り、手際よく応急処置を施す。
「おじさん、立てる? 私たちが連れてってあげる」
「すまない、お嬢ちゃん……」
だが、出口を目前にして、彼らの前に三体の「灰色の兵士」が立ち塞がった。その手には、錆びついた銃剣が握られている。
「トミー、おじさんとミッちゃんを連れて走れ。俺が引きつける」
「バカ言え、ケンジ! 死ぬ気か!」
「死なない。……あいつら、光を嫌ってる」
ケンジは壁の苔をナイフで削ぎ落とし、松明のように振りかざした。
「こっちだ、化け物!」
眩い青光に、灰色の兵士たちが怯む。その隙に、ケンジは三人を出口へと押し上げた。
背後から迫る異形の咆哮。ケンジは全速力でロープを登り、朝の光が差し込む地上へと転がり出た。
「おい! 無事か!」
駆け寄ってきたのは、心配して夜通し穴を見張っていた佐々木巡査だった。
五人の姿を見て、彼は声を詰まらせる。
「馬鹿野郎が……ムチャしやがって……」
ケンジは泥だらけの手で、袋から紫色の果実を取り出した。
「佐々木さん。……これがあれば、ヨシオたちは助かるよな?」
佐々木は複雑な顔でその果実を見つめ、やがて小さく頷いた。
焼け野原の向こうから、真っ赤な朝日が昇ってくる。
「ケンジ、これからどうするんだよ」
トミーが不安げに尋ねる。
ケンジは、未だ青白い光を放つ奈落の底を見つめた。あの場所には、食料がある。そして、得体の知れない「何か」が眠っている。
「決まってる。ここを利用して、生き抜くんだ」
ケンジの目は、かつての戦災孤児のそれではない。迷宮に挑む「探索者」の鋭さを宿していた。
「戦争は終わったかもしれない。でも、俺たちの戦いはここからだ」
上野のガード下に、子供たちの力強い足音が響く。
焼跡の迷宮。そこは地獄か、それとも希望の箱舟か。
少年たちの物語は、今始まったばかりだ。
「いいかケンジ。恐怖を消そうとするな。恐怖を御せ。それが戦場(そこ)で生き残る唯一の術だ」
闇の中で、まどろむケンジの頭に父の声がリフレイド(反響)する。
父は陸軍少佐だった。
規律に厳しく、めったに笑わない男だったが、空襲の夜、燃え盛る家からケンジを突き飛ばした時の顔だけは、必死に歪んでいた。
「生きろ。何をしてでもだ」
それが父の遺言となった。
「……ケンジ? ケンジってば!」
ミッちゃんの声で、ケンジは浅い眠りから引き戻された。
上野のガード下。
配給の薄い粥ですら手に入らなくなった今、昨日持ち帰った「奈落の果実」は、ヨシオたち年少の孤児にとって奇跡の恵みとなった。
「みんな、顔色が良くなったよ。でも、もうあと三つしかない」
ミッちゃんが、大切そうに抱えた袋を見つめる。
ケンジは立ち上がり、父の形見である軍用ナイフの刃を石で研ぎ始めた。
「……また行く。今度はもっと奥までだ」
ダンジョンへ向かう前、ケンジはトミーを連れてアメ横の闇市へ向かった。
そこでは、昨日助けた「スーツの男」が待っていた。
「坊主、助かったよ。これ、約束の礼だ」
男が差し出したのは、数個の乾パンと、一本の古びた長バールだった。
「進駐軍の連中が、あの果実を『マナ・フルーツ』と呼んで調査を始めた。一個で一週間は飢えを凌げる高エネルギー体だって話だ。今の東京じゃ、金より価値がある」
男は声を潜めて続けた。
「だがな、欲を出して潜った奴らが何人も戻ってきてねえ。穴の中には『灰色の兵隊』だけじゃなく、もっとヤバいのがいるらしい」
ケンジは無言でバールを受け取ると、トミーに渡した。
「トミー、これはお前の武器だ。逃げるためじゃない、生きるために振るえ」
トミーは引きつった笑顔で、それを握りしめた。
3. 再訪・第二層への階段
上野のダンジョン。
二度目の潜入は、前回よりも組織的に動いた。
ケンジ、トミー、そして「救護班」として同行を志願したミッちゃん。
三人は、前回「灰色の兵士」に遭遇したエリアを通り過ぎ、さらに奥へと進む。
壁の苔が放つ青白い光が、ある場所で途切れていた。
そこには、下へと続く「石造りの階段」があった。焼け跡の地下に、こんな精巧な建築物があるはずがない。
「……ここから先は、別の場所だ」
ケンジを先頭に階段を下りると、空気の匂いが変わった。
土の匂いから、鉄錆と、何かが腐敗したような死の臭い。
ギチ……ギチギチギチ……ッ!
暗闇から、無数の「音」が迫る。
現れたのは、前回の「灰色の兵士」よりも一回り大きく、四つん這いで動く奇妙な怪物だった。
背中からは折れた軍刀のような骨が突き出している。
「来るぞ! 固まれ!」
4. 泥中の死闘
怪物が弾丸のような速さで跳ねた。ターゲットはトミーだ。
「うわあああッ!」
トミーが闇雲にバールを振り回す。
怪物の鋭い爪がトミーの肩をかすめ、血が舞う。
「トミー、伏せろ!」
ケンジが割って入る。
怪物の動きは速いが、単調だ。父との訓練で叩き込まれた「敵の重心を見極める目」を、ケンジは極限まで研ぎ澄ます。
(恐怖を御せ。心臓の音を聴け)
怪物が再び跳躍した瞬間、ケンジは一歩踏み込み、怪物の懐に潜り込んだ。
手にした軍用ナイフを、怪物の光る眼球へと突き立てる。
「死ねッ!」
硬い手応え。
しかし、ナイフは深く突き刺さった。
怪物は激しくのたうち回り、やがて青い体液を撒き散らして動かなくなった。
ケンジもまた、肩で息をしながら泥の中に膝をつく。
「……ケンジ、大丈夫!?」
ミッちゃんが駆け寄り、手際よくトミーの傷を縛り、ケンジの無事を確認する。
「ああ。……それより、これを見ろ」
怪物の死骸が、霧のように消えていく。
その後に残されたのは、一粒の小さな「透き通った石」だった。
「宝石……?」
トミーが恐る恐る手を伸ばす。その石は、洞窟の苔よりも強く、温かい光を放っていた。
その時、迷宮の奥から、地響きのような低い声が響いてきた。
それは言葉ではなかったが、ケンジの脳裏に直接、冷酷なメッセージが届いたような気がした。
『――捧げよ。さらば与えられん――』
「今のは……」
三人は顔を見合わせた。
この迷宮は、ただ食料を恵んでくれる場所ではない。
命を賭け、何かを「討ち取った」者だけに、未知の対価を与える残酷な遊戯場なのだ。
ケンジは手の中の光る石を強く握りしめた。
この石があれば、闇市でもっと良い薬が買える。服も、毛布も。
だが、そのためには、これからもこの化け物たちを殺し続けなければならない。
「ケンジ、帰ろう。今日はもう十分だよ」
ミッちゃんの不安そうな声に、ケンジは頷いた。
しかし、彼の視線は、さらに深くへと続く闇の先をじっと見据えていた。
「ああ。……だが、次はもっと強い武器が必要だ」
地上の焼跡へと戻る三人の背中に、迷宮の冷たい風が吹き付ける。
彼らが手にした「魔石」が、戦後日本の暗い夜を、小さく、だが鋭く照らし出していた。
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