文字熱

小狸

掌編

 インフルエンザの検査は、陰性だった。


 一昨日おとといから風邪をこじらせていて、今日朝一番にかかりつけの内科に行った。


 朝から頭痛と発熱があり、これは多分インフルだな、と想定していたのだが、どうも見当違いだったらしい。


 一安心、ではあるものの油断はできない。


 病院から帰宅し、一応備蓄されている飲料水の類を確認し、薬を飲んで、さっさと寝た。


 不思議な夢を見た。


 大量の、とても背の高い本棚と本棚の隙間に、私はいた。


 図書館なのだろうか、と思ったけれど、あそこまで上に本があると、簡単な脚立では届くことはないだろう。インテリアとして書籍が置かれているのだろうか。それにしては、あまりに棚の数が多すぎる。ここからでは端が観測できないレベルの長さである。一体どれほどの書籍が、この棚に陳列されているのだろうか。


 学生時代、あまりに本を読み過ぎて「読書の鬼」というあだ名で呼ばれたことのある(女子に対して「鬼」は流石にセンスがないと思う)私からすれば、ここまで嬉しい空間もなかった。正直、心躍った。


 本棚に陳列された書籍を一冊手に取ってみた。それは緑色の装幀がなされた私の知らない小説家の全集本であった。自分の無知さが、どこか悔しかった。全集本が出るほどの著名な作家を私が知らない、という実情は、国文学専攻卒の者としては、何か恥ずかしかったのである。しかしそれも当然というものだろう。それは夢であり、私の想像上の作家名だったのだから。夢から覚めた後で、その作家名を検索してみたけれど、一件もヒットしなかった。


 遠くから、どぉん、という音が響き渡った。


 何の音だろう。

 

 そう思って、耳をそばだてると、また。


 どぉん。


 という、空間を鳴動させるような、音が響いた。


 その音は、等間隔で響きながら、徐々に近づいてきた。


 書棚の隙間から見て、ようやくその音が、高い高い棚が連続で倒れ、隣の棚と衝突し、また倒れている音だと分かったが、もう遅かった。


 私は走って逃げたが、どれだけ走っても、棚の終わりはなかった。

 

 ずっと、書籍が両側に、左右対称に陳列されている。


 誰が並べたのだろう、美しいとさえ思った。


 まるで何かをたてまつるかのように。


 どぉん。


 どぉん。


 どぉん。


 どぉん。


 私の一つ奥の棚が、ぐらりと揺れ、当然重さに耐えきれずこちら側に倒れてきた。


 今際いまわきわ何故なぜか思い出したのは、中島なかじまあつしの『文字禍もじか』だった。


 細部のストーリーは忘れてしまったけれど、確かあの小説は、登場人物である「博士」が最後に本棚に潰されて圧死するという展開だったように記憶している。


 私も、そうなるのだろうか。


 嗚呼ああ


 このまま。


 文字と一つに、なれたら良いのに。


 そうして、私の隣の棚が勢いよく倒れ、私はその下敷きになった。


 文字が。

 

 文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。文字が。


 本棚に綺麗に収納されていたはずの、物語から、文字が一気に、あふれ出てきて、私の身体にまとわりついた。


 不思議と、不快な感覚はなかった。


 私の四肢を、眼球を、臓腑を、筋肉を、骨格を、血管を、脳髄を、徐々に文字がしんしょくしてきていた。


 物語が、私の中に入ってきた。


 それらは、ひんやりとしているものの、わずかな熱を帯びていた。


 矛盾するようなことを言うようだけれど、実際にそうだったのだから仕方がない。


 世界は明転していた。


 その真っ白な空間で、物語からこぼれ落ちた黒くおびしい数の文字が、私の身体の至るところに向かってきていた。


 私は、その散逸した物語の一つ一つを読む余裕などどこにもなく、ただただ、流れゆく文字の波に身を任せるしかなかった。


 ある瞬間が訪れた。


 恐らくそれが、終わりの合図だったのだろう。


 張り詰めた糸が切れたように、処理不可能な情報量に耐えきれず、私を構築していた外殻が崩壊したのである。


 痛みは、不思議と感じなかった。


 身体のあちこちが、まるで糸がほつれるかの如く限界を迎え崩壊してゆく様は、ある種のはかなさを感じるほどであった。そして崩れたところから、文字が溢れてきた。どくどくと脈打って、鼓動のようにそれらはあっという間に私の傷口を広げた。


 はや、私と文字の境界線上にあるは、なくなったも同然であった。


 そうして私も、文字となった。


「ッ――!」

 

 と。


 丁度ちょうどそこで、目が覚めた。


 滝のように汗をかいていた。


 ここが現実であること、今までの事柄が夢であったこと、そして一応自宅の本棚が倒れていないことを確認して、思わず私は、溜息を吐いた。


 夢で良かった、と思うと同時に。


 あのまま私が完全に文字になっていたら、どうなっていたのだろう、と。


 そんなことを考えながら、この物語を擱筆かくひつする。




(「文字熱」――了)

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