うちの子は、普通です。

林凍

第1話

一 母親・真紀


 あの子の上履きは、まだ玄関にあります。

 漂白剤の匂いが抜けなくて、靴箱に戻す気になれないんです。白すぎる布って、なんだか落ち着かなくて。


 夫には「そろそろ片づけろ」と言われましたけど、あの子が帰ってきたら困るでしょう。裸足で上がったら、床が汚れますから。


 ――すみません。質問、もう一度いいですか。


 はい、「お嬢さんにいじめの様子はなかったか」。

 そうですね、紗英は、よくできた子でした。いじめる側になるような子ではありません。成績もそこそこ、部活では後輩の面倒見もいい。家でも手伝いをよくしてくれましたし。


 夕飯のあと、食洗機に入れる前に、一度お皿を軽く洗うんです。スポンジを私と同じように動かして。ある日なんて、私が「もういいよ」と言う前に、鍋まで磨いてあって驚きました。

 ああ、でも、それを褒めたときのことは、よく覚えていません。ただ「助かる」と言ったと思います。

 褒めていたつもりなんですけど。


 学校で何かあったかどうか。

 紗英のスマホは、警察に渡したまま戻ってきていません。クラスのLINEのことも、私はニュースで初めて聞きました。「無視」とか「既読スルー」とか、そういう言葉が解説で出てきて。


 私が直接見たのは、あの日の朝です。


 キッチンのテーブルに、紗英のスマホが裏返しに置いてありました。画面が下になっているのを見たのは、それが初めてでした。

 トーストにバターを塗りながら、「何かあった?」と聞いたんです。

 そしたら紗英は、牛乳パックを持ったまま、少しだけ間をあけて、「別に」と言いました。


 「別に」という言葉、最近の子はすぐ使うでしょう。テレビでもよく聞くし、私も、たいした意味はないと思っていました。

 でも、そのときの「別に」は、ちょっと違っていました。声が、乾いていたというか。


 そのあと、紗英はいつもより早く家を出ました。

 玄関で上履きを袋に入れながら、「今日、学年集会なんだ」と言ったんです。「保護者会の日程決めるやつ」だって。

 だから私は、「じゃあよろしく伝えておいて」と、何も考えずに背中を押しました。


 あの子がマンションの四階から落ちたのは、それから二時間後です。


 「自殺の可能性が高い」と最初に聞かされた時、私は笑ってしまいました。

 だって、うちの子はそういうタイプじゃないから。

 うちの子は、普通です。

 あまり目立たないけれど、クラスに一人はいる、真面目で、先生にとって都合のいい子。担任の小川先生も、そう言っていました。


 「お母さん、紗英さんはクラスの“潤滑油”ですよ」


 懇談会のとき、成績表を挟んだクリアファイルの上を、先生の指先がすべっていったことを覚えています。つやつやした透明な表紙に、蛍光灯の光が一本、白く伸びていました。


 「どのグループにも、自然に馴染めるんです。中心には立たないけど、紗英さんがいると、みんな話しやすいみたいで」


 あのとき、私は少し誇らしくなりました。

 帰り道、コンビニでロールケーキを二つ買って帰りました。

 冷蔵庫から出したとき、箱の端に「新発売」と小さく印字されていて、こういうのをすぐ試せるのは、ちゃんとした家庭の証拠だと思ったのを覚えています。


 夜、ロールケーキを二人で食べながら、「先生がね」と話しました。

 紗英は、スプーンの先でクリームをすくいながら、「ふうん」とだけ言っていました。

 嬉しそうではありませんでした。

 でも、そのときも私は、深く考えませんでした。中学生なんて、だいたい無表情ですし。


 ――いじめなんて、どこにでもあるでしょう。

 ただ、うちの子はする側じゃない。

 私はそれだけを、確信していました。


 事故のあと、学校側から説明会がありました。体育館の床に椅子が並べられて、前には長机が三つ。校長先生と教頭先生、担任の小川先生が、並んで座っていました。

 マイクを持つ手が震えていたのは、寒さのせいだと、そのときは思っていました。


 「本校二年三組生徒の、転落事故について……」


 配られたプリントには、「現在、警察で詳しい状況を調査中」とだけ書かれていました。いじめの「い」の字もありません。

 その場で手を挙げたのは、私だけでした。


 「いじめはなかったんですか」


 自分の声が、体育館の天井に跳ね返っていくのを感じました。

 目の前で、何人かの母親が顔を伏せました。父親たちの視線は、どこにも定まっていないように見えました。


 小川先生は、少し間をおいてから、「現在、把握している範囲では」と前置きして、

 「いじめが原因とは考えておりません」と言いました。


 その瞬間、私は、テーブルの上に置かれた紙コップの水が、ぐにゃりと曲がって見えました。

 誰かが舌打ちをしたような音がした気がしたけれど、振り返っても、誰も動いていませんでした。


 あの日の紗英のスマホ。

 裏返しになっている画面の、黒いガラスに、私の顔がうっすら映っていたことを、急に思い出しました。

 その顔が、やけに他人のものに見えたんです。


 ――うちの子は、普通だ。

 そう繰り返してきた言葉が、急に心細くなりました。


 説明会が終わってから、保護者のLINEがいくつか増えました。

 「大丈夫ですか」「何か力になれることがあれば」

 そんなメッセージの中に、一つだけ、名前のない通知が紛れていました。


 〈二年三組のLINE、見たことありますか〉


 それは、学校から配られた「いじめアンケート」の期日が迫っていた夜のことです。

 私は画面をスクロールしながら、ふと手を止めました。

 送り主のアイコンは、初期設定のグレーの影。誰だか、わかりませんでした。


 〈あのグループの管理者、お嬢さんですよ〉


 その一行を読んだとき、洗い物の手が止まりました。

 蛇口から落ちる水音だけが、やけに大きく聞こえました。


 皿の上を流れていく泡の筋が、白い上履きの布と重なって見えました。

 スポンジを握る指に、力が入りました。


 紗英は、いじめられていたのか。

 それとも――。


 アンケート用紙の「あなたは、いじめをしましたか」という欄が、頭の中に浮かびました。

 私の字で「いいえ」と書かれた、その先を。


二 同級生・千紗


 「名前は書かなくていいので、正直に答えてください」


 アンケート用紙を配りながら、小川先生はそう言いました。

 でも、誰も信じていませんでした。

 字を見れば、だいたい誰が書いたか、わかります。


 私の字は、丸っこくて、よく「かわいい」と言われます。

 それが嫌で、わざと角を立てて書くようにしていたけれど、アンケート用紙のマス目の中では、やっぱり丸くなってしまいました。


 〈いじめを見たことがありますか〉

 〈いじめに気づいたとき、あなたはどうしましたか〉


 質問は、だいたいそんな感じでした。

 私は、二つ目の問いのところで、ボールペンを止めました。


 どうしましたか。

 何もしませんでした。

 でも、それを、なんと書けばいいのかわからなくて、マス目の上をただなぞっていました。


 机の間を歩く先生の靴音が、カツン、カツンと響いていました。

 教室の窓から見えるマンションの四階のベランダには、誰もいませんでした。

 花の鉢だけが、二つ並んでいました。一つは紫陽花。もう一つは、名前の知らない、細い茎の植物。


 紗英のマンションです。

 二学期の初め、家庭訪問で先生が行ったらしい。

 「すごくきれいな玄関でね」と先生が言っていたのを覚えています。白い靴箱の上に、小さなガラスの花瓶が置いてあったって。淡い紫の花が一輪だけ。


 その花瓶を想像しながら、私は、アンケート用紙の「はい」に丸をつけました。


 ――いじめを見たことがありますか。

 はい。


 いじめは、最初から「いじめ」じゃなかったんです。


 はじめは、ただのグループ分けでした。

 中二になって、クラス替えがあって、仲のいい子同士で固まって。

 体育祭の応援団とか、合唱コンクールのパートとか。

 紗英は、どこにでもすっと溶け込んでいくタイプでした。先生の言うとおり、潤滑油って感じ。


 私も、気がついたら、その輪の中にいました。

 体育館の裏で、スカートの丈をちょっと折ったり、テストの点数を見せ合ったり。

 紗英はいつも、「うちら普通じゃない?」と笑っていました。

 ギャルでも優等生でもない、真ん中くらいの、普通の位置。


 「普通」と言いながら、紗英はクラスLINEの管理者でした。

 スタンプを追加したり、アイコンを変えたりするのは、いつも紗英。

 グループの名前が「2−3のなかまたち」から「2−3(既読スルー禁止)」になったときも、紗英の仕業だって、みんな知っていました。


 ――あれが、最初の違和感だったのかもしれません。


 莉子が、クラスに転校してきたのは、夏休み明けでした。

 愛知県からって言ってたかな。イントネーションが少し違っていて、最初の日、自己紹介で「よろしくお願いします」と頭を下げたとき、前の席の男子が小さく笑いました。


 放課後、LINEのグループに莉子が追加されました。

 「ふじかわりこです よろしくです」

 そう書かれたあと、スタンプが一つだけ送られてきました。眠そうなクマが、手を振っているスタンプ。


 少し間をおいてから、紗英が「よろしく」と返しました。

 それからみんなも、「よろ〜」「よろしく」って、一斉に返しました。

 私は、少し遅れて、「よろしくね」と送りました。

 既読の数字だけが、どんどん増えていきました。


 最初のうちは、ほんとに普通でした。

 給食のときに席を詰めてあげたり、体育のストレッチをペアでやったり。

 莉子は、いつも小さなささやき声で答えていました。

 「ありがとう」とか「うん」とか。

 笑うときだけ、少し大きな声になって、前歯の間から空気が抜ける音がしました。


 おかしくなったのは、クラスLINEで「お題トーク」が始まってからです。


 誰かが、「クラスで一番○○な人」の話をしようと言い出しました。

 「運動神経いい人」「かわいい人」「彼氏いそうな人」。

 名前がいくつか挙がるたびに、スタンプが飛び交いました。


 その中に、「空気読めない人」というお題が出ました。

 最初は、誰も何も言わなかった。

 既読の数字だけが増えていく。

 私も画面を見つめながら、指を止めていました。


 〈○○くんじゃね〉

 誰かが男子の名前を書いたあと、すぐに「草」のスタンプがつきました。

 笑いの空気が、少しだけ流れました。

 それで終わると思いました。

 なのに、紗英が、少し間をおいてから、こう書きました。


 〈最近の転校生もちょっと…?〉


 名前は書いてありませんでした。

 でも誰のことか、みんなわかっていました。


 「お前、そういうのやめろよ」と送る勇気のある人は、一人もいませんでした。

 私も黙っていた。

 たぶん、みんな思っていたからです。

 ――確かに、空気読めてないかも、と。


 体育の準備体操のとき、列を間違えたり。

 話しかけても、返事が遅かったり。

 ノートの書き方も、少しきれいすぎて、浮いて見えたり。


 「悪口ってほどじゃないし」

 誰かがそう書いて、スタンプをつけました。

 それに、「だよね」とか「わかる」とか、短い相づちが続きました。


 莉子は、その間ずっと、何も書きませんでした。

 既読の数字は、ちゃんと増えていました。


 次の日から、莉子の席の周りの空気が、少し冷たくなりました。

 プリントを配るとき、机の上に置くだけで、目は合わせない。

 体育のペア決めで、「誰とでもいいよ」と言っていた莉子のほうを、誰も見ない。


 「別に、いじめじゃなくない?」

 ある休み時間、廊下でスカートを直しながら、紗英が言いました。

 「ガチで嫌いってわけじゃないし。ただ、ちょっと距離おいてるだけ」


 そう言ったあと、紗英は鏡の前で前髪を整えました。

 ポケットから、細いヘアピンを取り出して、角度を少し変える。

 その動きが、やけに丁寧で、そのくせ、莉子のことは軽く言っているのが、不思議でした。


 「でもさ」と、私は言いました。

 「LINEでああいうの書かれたら、傷つくかも」


 紗英は、少し笑いました。

 「だってさ、あれ、直接名前書いてないじゃん。

  あれで傷つくなら、もともとメンタル弱すぎでしょ」


 教室に戻る途中、踊り場の窓から、紗英のマンションが見えました。

 四階のベランダに、白い布が干してありました。

 上履きだと、私はすぐにわかりました。

 洗いたてなのか、陽に透けて、向こう側の鉄の柵がねじれて見えました。


 その日の放課後、クラスLINEから、莉子がいなくなっていました。

 参加者の一覧から、名前が消えていたんです。

 誰が消したのかは、わかっていました。管理者は紗英だから。


 「やめちゃったのかな」と誰かが送ると、

 〈かもねー〉

 〈てか最近来てなくない〉

 そんな言葉が続きました。


 実際、莉子はその日から学校に来なくなりました。

 先生は「体調不良」と言っていたけれど、みんな、理由を知っていました。

 でも、誰も口には出しませんでした。


 マンションのベランダの花の鉢は、あの日からずっと、そのままです。

 紫陽花の花は枯れて、茶色くなった花びらが、まだ枝についています。

 風が吹くたびに、かさかさと揺れます。

 あの音を聞くたび、私は、教室の隅の席を思い出します。


 紗英が、あのマンションから落ちた日。

 私は、家で宿題をしていました。

 スマホは、リビングのテーブルの上。

 通知がいくつか来ていたけれど、解きかけの数学の問題から目を離したくなくて、放っておきました。


 ニュースで、マンションからの転落事故のことを知ったのは、その夜です。

 クラスLINEが一気にざわついて、私はようやくスマホを手に取りました。


 〈紗英が〉

 〈救急車来てたって〉

〈やばくない〉


 メッセージの間に、誰かが送った救急車の写真が挟まっていました。

 赤いライトが、画面の中で滲んでいました。


 その下に、紗英のアカウントからの最終ログが、ひとつだけ残っていました。


 〈ねえ さすがにひどくない?〉


 それが送られた時刻と、事故があったとされる時刻が、ほとんど同じだと知ったのは、あとからです。

 そのメッセージの前後のやりとりは、全部消えていました。

 会話の空白だけが、残っていました。


 アンケート用紙の「あなたはいじめをしましたか」の欄に、私は、しばらく迷ってから、「いいえ」に丸をつけました。

 ボールペンの先が、紙を少し破りそうになりました。


 私は、何もしていない。

 でも、「何もしなかった」ということが、何かをしたのと同じくらい重いのだとしたら。


 プリントを前に集めに来たとき、小川先生の手が、私の紙の端を一瞬だけ長くつかんだ気がしました。

 けれど先生は、何も言いませんでした。

 あの人も、きっと、何もしなかったのです。


三 担任・小川


 「先生、あのアンケート、本当に匿名なんですか」


 職員室で、別のクラスの担任にそう聞かれて、私は曖昧に笑いました。

 「建前上はね」と答えると、その先生も、同じように笑いました。

 笑って、目をそらしました。


 教育委員会から降りてきたアンケートのひな形には、「名前欄は不要」とはっきり書かれていました。

 けれど、書かなくても、わかるものはあります。

 字の癖。文の調子。言い回し。

 私は、二年三組の生徒のそれを、ある程度知っていました。


 ――知っていて、何もしなかった。

 それが、私の罪です。


 藤川紗英は、どこにでもいる優等生でした。

 教師にとっては、扱いやすい生徒でした。

 忘れ物はほとんどしないし、提出物の期限も守る。授業中に私語は少なく、質問をすれば、ほどよい答えを返してくれる。


 懇談会で、お母さんにそう伝えたとき、「普通でいいんです」と笑っていた顔を覚えています。

 「特別じゃなくていいんです。普通で、みんなと仲良くしてくれれば」


 普通。

 その言葉が、ここ数ヶ月、ずっと頭の中でこだまし続けています。


 夏休み前、クラスLINEのトラブルがあったと、誰かが教えてくれたとき、私は正直、うんざりしていました。

 昔は、黒板の落書きだったものが、いまはスマホの画面に移っているだけ。

 そういう感覚が、どこかにありました。


 しかも、そのとき問題になっていたのは、「転校生がLINEで浮いている」という、なんともつかみどころのない話でした。

 「無視されているのではないか」と保護者から連絡があって、私は、紗英と、何人かの生徒を個別に呼び出しました。


 放課後の教室。

 窓の外では、サッカー部がシュート練習をしていました。

 「いま、莉子さんのことで、何かトラブルはないか」と聞くと、紗英は、「別に」と言いました。

 例の「別に」です。


 「ちょっと、距離あるかもですけど」と紗英は言いました。

 「でも、ちゃんと話してます。いじめとかじゃないです」


 その言い方があまりにも落ち着いていたので、私はそれ以上、追及しませんでした。

 スマホの画面を見せてほしいと、口にしませんでした。

 あの日、踏み込んでいれば、と、いまは思います。

 でも、あのときの私は、夏休み前の通知表の作成と、別のクラスのトラブル対応で、心がすでに飽和していました。


 「藤川さんのご家庭は、しっかりされてますし」


 職員会議のあと、誰かがそう言いました。

 「お母さんもよく学校に協力してくれるし。あの子がいじめる側ってことは、ないでしょう」


 私も、その言葉に、すがっていたのかもしれません。

 「普通の家庭」「しっかりした家庭」というラベルの便利さに。


 家庭訪問で藤川家を訪れたとき、玄関の靴は、きれいに揃っていました。

 白い上履きが、一番手前にありました。

 「ちょうど洗ったところなんです」とお母さんが言って、笑いました。

 そのとき、私は、上履きのゴムの部分に、うっすらと青いシミが残っているのを見ました。

 漂白剤が残ったのか、洗剤が落ちきっていなかったのか。

 何気なく見過ごしたその跡が、いまも頭から離れません。


 リビングのテーブルの上には、開きかけのノートと、スマホがありました。

 ノートには、「ごめんね」とか「気づかなくて」といった言葉が、何度も書き直されていました。

 私は、「謝罪文の練習かな」と思いました。

 何に対する謝罪なのか、そのときは聞きませんでした。


 スマホの画面には、メッセージアプリが開かれていました。

 小さな文字がいくつか並んでいるのが見えたけれど、内容までは読み取れませんでした。

 お母さんは、さりげなくスマホを伏せました。

 その動きが、不自然に素早かったことを、いまははっきり覚えています。


 「最近、クラスで何か気になることはありませんか」と聞くと、お母さんは、「特には」と言いました。

 「ただ、たまに、紗英が“普通じゃなきゃダメかな”って言うんです」


 「どういう意味でしょう」と尋ねると、お母さんは少し笑って、

 「なんか、YouTubeで見たらしいんですよ。“普通が一番難しい”って。だから、“ママは普通の子が一番だよ”って、言ってあげたんですけど」


 私は、その言葉にうなずきました。

 そのときの私は、本気でそう思っていました。

 特別な才能よりも、協調性。

 目立たないことのほうが、この社会では生きやすい。


 けれど、その「普通」のレールから、一度外された子がどうなるかについて、私は深く考えていませんでした。


 藤川紗英がマンションから転落した日の、午前中。

 二時間目の途中、クラスLINEに何件かメッセージが来ていたらしいことを、あとから聞きました。

 授業中はスマホの使用は禁止ですから、誰も見ていなかったと言います。

 授業が終わってから、ざわざわと話が広がりました。

 「やばいの流れてた」「すぐ消された」「スクショ撮れなかった」。


 「どういう内容だったんだ」と、私は何度も生徒たちに尋ねました。

 でも、返ってくるのは、「よく覚えてません」「見てないです」「ちょっとだけ見たけど」のどれかでした。

 誰も、はっきりとは言いません。


 ひとりだけ、「“さすがにひどくない?”って」と、小さな声で教えてくれた生徒がいました。

 それが、紗英の最後のメッセージでした。

 誰に向けられたものかは、わかりません。


 事故のあと、学校には、さまざまな立場からの問い合わせが来ました。

 教育委員会。市役所。マスコミ。

 その中には、「匿名」を名乗るメールもいくつかありました。


 〈クラスLINEの管理者は、亡くなった子です〉

 〈転校した子が、いまも家から出られません〉


 文面の端々から、怒りとも悲しみともつかない感情が滲んでいました。

 でも、その送り主を特定することはできませんでした。

 プロバイダ云々という話を、校長がしていたけれど、途中でやめました。

 「これ以上、事を荒立てたくない」と。


 保護者説明会で、「いじめはなかった」と言ったのは、嘘です。

 正確に言えば、「いじめが原因とは考えていない」と、私たちは言いました。

 原因、という言葉の便利さに、隠れました。

 いじめは、いつも原因のひとつでしかなくて、そのひとつを認めてしまうと、すべてが崩れていくような気がしたから。


 アンケート用紙を回収したあと、職員室の机の上に積まれた紙の山を見ながら、私は、一番上の一枚の端に指をかけました。

 そこには、丸い字で、「いいえ」とだけ書かれていました。

 「いじめをしましたか」という問いに。


 それを見たとき、私は、ふと思いました。

 この「いいえ」は、「何もしなかった」という意味も、含んでいるのだろうか、と。


 藤川紗英の母親から、何度も電話が来ます。

 「真相を知りたいだけなんです」と、彼女は繰り返します。

 「うちの子が、何をされていたのか。誰が、あの子を追いつめたのか」


 そのたびに、私は、言いかける言葉を飲み込みます。

 「追いつめた」の主語に、彼女自身の名前も含まれているかもしれない、と。

 家庭訪問のとき見た、書き直された「ごめんね」の文字を思い出しながら。


 あのノートは、おそらく、紗英に書かせていたものです。

 転校した生徒への謝罪文。

 けれど、お母さんの口調で書き直されていた文を、紗英は、どんな気持ちでなぞっていたのか。


 私は、教師として、どこまで踏み込むべきだったのか。

 いまさら考えても、答えは出ません。

 ただ一つ言えるのは、私は、見て見ぬふりをしてきた、ということです。


 アンケートの最後の欄に、「先生に伝えたいことがあれば」とありました。

 そこに、「先生も、クラスLINE入ってみたら」と書いた生徒がいました。

 名前はありません。

 でも、その字を見たとき、私は、自分が、教室の外に立ち続けてきたのだと、やっと気づきました。


 教室の中にも、LINEのグループにも、入らないまま。

 「中立」という名前の、安全な場所に。


四 もう一人の母親


 藤川さんと、直接話したことはありません。

 同じマンションでも、同じクラスの保護者でもない。

 ただ、テレビの中で、何度もその名前を聞いただけです。


 私は、転校してきたほうの母親です。

 ――藤川莉子の、母親です。


 ややこしいでしょう。

 名字も名前も、どこかで聞いたことがあるような組み合わせ。

 最初に担任の先生から電話をもらったとき、「もう一人の藤川さんがいて」と笑っていました。

 「こっちの藤川さんは、ずっといるほうで、そっちは、新しいほう」と。


 私は、電話を握りながら、曖昧に笑いました。

 「よろしくお願いします」と言いました。

 その言葉の重さを、そのときはまだ知りませんでした。


 莉子が、学校に行けなくなったのは、転校して二ヶ月目くらいでした。

 最初の一週間は、「楽しかった」と言って帰ってきていました。

 体育でバスケをしたとか、給食がおいしかったとか。

 クラスLINEに入れてもらったときも、画面を私に見せて、「ほら」と笑っていました。

 眠そうなクマのスタンプを、一緒に選びました。


 徐々に、話題が減っていきました。

 「今日はどうだった?」と聞いても、「別に」としか言わなくなりました。

 机の上に置かれたスマホの画面は、ロックがかかっていて、何も見えませんでした。

 夕食のとき、箸の動きが遅くなっていきました。

 味噌汁の具を、箸でつつくだけ。

 私が「ちゃんと食べなさい」と言うと、「わかってる」と返ってきました。


 ある夜、食器を洗っていると、背中のほうで、小さな音がしました。

 テーブルの上で、スマホが震えた音でした。

 振り返ると、画面が光っていて、メッセージアプリの通知が表示されていました。


 〈また既読スルー?〉

 〈空気読んで〉


 莉子は、トイレに行っていました。

 私は、スマホを手に取ってはいけないと思いながら、目が離せませんでした。

 通知の下に、小さな文字で、「2−3(既読スルー禁止)」と書かれていました。


 トイレのドアが開く音がして、私は慌てて目をそらしました。

 莉子は、私の顔を見て、何も言いませんでした。

 スマホをテーブルの上から取り上げるとき、指先が少し震えているように見えました。


 次の日から、莉子は、「お腹が痛い」と言って、学校を休み始めました。

 最初のうちは、本当に痛そうでした。

 冷たい汗をかいて、布団の中で丸まっていました。

 病院に連れて行くと、医者は、「ストレスでしょうね」と言いました。

 「最近、何かありましたか」と聞かれましたが、私は首を振りました。

 莉子が、「何もない」と言い張っていたからです。


 先生からも、何度か電話がありました。

 「クラスで少し行き違いがあったようで」とか、「LINEのほうで、言葉がきつくなっていたみたいで」とか。

 「いじめ、というほどではないと思うのですが」と、何度も繰り返していました。


 ある日、莉子が、スマホをテーブルの上に置いたまま、ベランダに出ていきました。

 洗濯物を取り込むとき、足元がおぼつかなくて、危ないと感じて、私もついていきました。

 ベランダから見下ろした道路は、思ったより狭く、車が何台か、ゆっくり走っていました。

 手すりに両手を置いた莉子の肩が、小刻みに揺れていました。


 「やめて」と、私は言いました。

 「何を」と、莉子は答えました。

 でも、手の力は抜きませんでした。


 その夜、私は覚悟を決めて、莉子のスマホを見ました。

 パスコードを知っていたわけではありません。

 けれど、何度も莉子の指の動きを見ていたので、なんとなく、推測できました。

 四回目で、ロックが外れました。


 画面の中には、たくさんの言葉がありました。

 〈返事遅くない?〉

 〈空気読めないの?〉

 〈そういうのマジでやめて〉

 〈クラスの雰囲気悪くなるから〉


 宛先の名前は、書かれていませんでした。

 でも、途中で、「転校生さ」と書かれているのを見つけました。

 その下に、「あいつ」とか、「あの子」とか、曖昧な主語が並んでいました。


 メッセージの送信者のひとつに、「さえ」という名前がありました。

 アイコンは、白い花の写真。

 夜の暗さの中で、花びらだけが、浮かび上がって見えました。


 私は、スクロールする手を止めました。

 莉子が部屋から出てきて、私の手元を見ました。

 「ごめん」と、私は言いました。

 何に対しての謝罪なのか、自分でもよくわかりませんでした。


 その夜、莉子は、布団の中で泣きました。

 声を出さずに、肩だけを震わせていました。

 私は、隣で背中をさすりながら、「転校しよう」と言いました。

 「こんな学校、行かなくていい」と。


 次の日、私は学校に電話をして、「転校します」と告げました。

 先生は、「少し待っていただけませんか」と言いました。

 「きちんと話し合いをしてからでも」と。

 でも、私は、もう十分だと感じていました。


 引っ越しの準備をしているとき、テレビから、あのニュースが流れました。

 中学生の転落事故。

 同じ市内の、別のマンション。

 画面の端に、揺れる救急車のライト。

 キャスターの声が、「いじめの可能性も視野に入れて」と読み上げました。


 そのあと、記者会見の映像が映りました。

 体育館のような場所で、マイクの前に座る校長先生と、その隣の、担任らしき男性。

 そして、その前で泣きながら訴える、ひとりの母親。

 「娘は、いじめられていたんです」と。

 「クラスLINEで、ひどいことを書かれて」


 私は、その人の名前を聞いて、息を呑みました。

 藤川紗英さんの母親、と紹介されていました。


 画面の中で、その人は、「うちの子は普通の子でした」と繰り返していました。

 「いじめをするような子じゃないんです」と。

 私は、テレビの前で立ち尽くしていました。

 莉子は、段ボール箱の横で、小さくうずくまっていました。


 ニュース番組は、クラスLINEの問題を大きく取り上げました。

 でも、その中で、「転校した生徒」の話は、ほとんど出てきませんでした。

 名前も伏せられ、「別の女子生徒」とだけ紹介されました。


 藤川紗英さんがクラスLINEの管理者だったことは、ネットの記事で知りました。

 コメント欄には、「加害者か被害者か」「親の責任だ」といった言葉が並んでいました。

 藤川という名字が、いろいろな形で、画面の中に転がっていました。

 どれが、うちの藤川で、どれが、あちらの藤川なのか。

 区別は、ほとんどついていませんでした。


 ある夜、知らないアカウントから、メッセージが届きました。

 〈二年三組のLINE、見たことありますか〉

 〈管理者、亡くなった子です〉


 送り主は名乗りませんでした。

 私は、そのメッセージを見てから、テレビを消しました。

 画面が黒くなり、そこに、自分の顔が映りました。

 疲れた顔でした。

 目の下に、濃い影が落ちていました。


 莉子は、新しい学校には、まだ通っていません。

 転校の手続きは済ませたのに、制服は、クローゼットの中でハンガーにかかったままです。

 朝になると、莉子は一度起きて、制服を見てから、布団に戻ります。

 私は、「ゆっくりでいいよ」としか言えません。


 窓の外には、別のマンションのベランダが見えます。

 そこにも、花の鉢がひとつ置いてあります。

 紫陽花ではなく、小さな白い花です。

 風が吹くたびに、花びらが揺れます。

 その揺れを見ながら、私はときどき、あちらの藤川さんのことを考えます。


 あの人は、いま、自分の娘を「被害者」だと信じている。

 うちの子は「加害者」だと、どこかで思っているかもしれない。

 でも、莉子は、誰かを追いつめた覚えはないと言います。

 ただ、「普通になれなくて、ごめんなさい」と、何度も謝ります。


 普通って何なのか。

 誰が決めるのか。

 クラスの多数決か、親の期待か、先生の評価か、ネットのコメントか。


 私は、もう「普通」という言葉を、使いたくありません。

 誰かを守るための盾にも、誰かを刺すための刃にも、なりうるからです。


 先日、学校から、「いじめアンケート」の写しを見せられました。

 「保護者の参考までに」と先生が言いました。

 そこには、「いじめをしましたか」という問いに、「いいえ」と答えた丸い字が、いくつも並んでいました。

 「はい」と答えた紙は、ごく少数でした。


 私はその紙を見ながら、問いを変えてみたいと思いました。

 〈あなたは、誰かがいじめられているとき、何をしましたか〉

 〈何もしなかったとしたら、それを、なんと呼びますか〉


 けれど、その問いを紙に印刷する勇気を持っている大人が、どれくらいいるでしょう。

 私自身も、含めて。


 藤川紗英さんの母親が、マイクの前で、「うちの子は普通です」と繰り返している映像を、私は一度だけ、最後まで見ました。

 その後ろの壁に立てかけられた、白い掲示板の隅に、「いじめは、決して許されません」というポスターが貼ってありました。

 そのポスターの角が、一箇所だけ、めくれていました。

 誰かが雑に貼ったのか、風でめくれたのか。


 めくれた隙間から、下の古いポスターが少しだけ見えていました。

 色あせた「みんな仲良く」という文字。

 その上に、新しい「いじめ防止」の標語。


 私たちは、いつも、上から新しい言葉を貼り重ねているだけなのかもしれません。

 その下で、色あせた言葉たちは、じっと息を潜めている。

 いつかまた、めくれた隙間から顔を出す日を、待ちながら。


 ――うちの子は、普通ですか。

 そう聞かれたら、私は、もう「はい」とは答えません。

 「普通じゃなくてもいいです」と、答えたい。


 普通であることを求めて、誰かを傷つけるくらいなら。

 普通から外れて、少し不器用に生きてくれたほうが、まだましだと思うからです。


 ベランダの花の鉢に、水をやりながら、私は空を見上げます。

 遠くのほうに、別のマンションが見えます。

 その四階のベランダには、いまも、白い上履きが干されているでしょうか。

 それとも、もう片づけられてしまったでしょうか。


 知らないままでいたいような。

 でも、目をそらし続けてはいけないような。


 そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、私は今日も、水道の蛇口をひねります。

 バケツに落ちる水音だけが、やけに大きく響きます。

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うちの子は、普通です。 林凍 @okitashizuka_

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