仮面の雫

陽炎

第1話


灰色の空が静かに広がる午後、田中学は古びた山城の前に立っていた。小雨が降っている。しかし、傘をさす者はいなかった。なぜなら、その雨は見えなかったからだ。


 耳には、確かに雨音が聞こえる。石造りの城壁を静かに叩く、水音。だが、空を見上げても、何も見えない。霧のようなものすらない。ただ、手を差し出せば、冷たい感触が皮膚に染み込んでくる。


「おかしいな……」


 学はつぶやきながら、自身の手のひらを見つめた。濡れている。だが、その水滴は透明すぎて、目を凝らしても存在を視認できない。彼は特殊メイクアーティストとして、細かな視覚情報を見逃さない鋭敏な目を持っている。それでも、この雨粒は見えなかった。


「田中さん、そろそろ内部の下見を始めましょうか?」


 声に振り返ると、アシスタントディレクターの佐藤が書類を抱えて立っていた。ロケハンの同行者だ。三十二歳の田中学は、映画業界でも名の知られた才能であり、今回のホラー映画プロジェクトでは特殊メイクの総指揮を任されている。


「ああ、すまない。ちょっと変な雨に気を取られていたんだ」


「雨ですか? 降るって言ってましたけど、あまり濡れた感じはしませんね」


 学は佐藤にも手を差し出すよう促す。彼が半信半疑で手を出すと、すぐに小さく声を上げた。


「えっ、本当に濡れてる……でも見えない……」


「地元の人は何か言ってた?」


「そういえば、ガイドさんが透明雨って呼んでました。この城のあたりだけで起きる現象らしいです」


 佐藤の言葉に、学の心はざわめいた。十年以上にわたり、人工の雨や煙、血液などあらゆる特殊効果を扱ってきたが、自然の現象でこれほど奇妙なものに出会ったのは初めてだった。


 彼はふと、城の中へと視線を向けた。苔むした石段、古びた扉、そしてその奥に広がる闇。湿った空気が、どこか別の世界への扉を開いているように思えた。


古城の中は、湿った空気と共に時の重みが漂っていた。狭い石造りの廊下を進むたびに、板張りの床がわずかに軋む。その音すらも、何百年も前からここに積み重ねられてきた時間の名残のようだった。


「田中さん、地下室も見ておきましょう。脚本では、あそこでクライマックスを撮る予定です」


 佐藤の声にうなずき、学は彼の後について重たい鉄の扉を開けた。冷気が足元を這うように広がる。石でできた螺旋階段を一歩ずつ降りていくと、明かりの届かない闇の底から、古い木の匂いと湿気がゆっくりと這い上がってきた。


 やがて、かすかな電灯が灯る地下室にたどり着く。思った以上に広い空間。ひんやりとした空気が肌を包む中、学の目は、あるものに釘付けになった。


 それは、壁一面に整然と並べられた能面の群れだった。


 静寂の中で、ただ無言でこちらを見つめ返してくるような感覚。まるで何十人もの目に囲まれているような錯覚に、背筋がぞくりとした。


「これは……すごいな……」


 学はつぶやきながら、一歩ずつ近づいた。翁、若女、鬼、天神——それぞれが異なる表情を湛えている。だが、そのすべてに共通していたのは、“生気”だった。木で彫られた仮面であるはずなのに、どの面も、そこに心を宿しているかのようだった。


「ガイドさんが言ってました。この城の元の領主が能楽に傾倒して、特に能面の収集に熱心だったとか」


 佐藤の説明も、遠くで聞こえるように感じた。学の意識は、目の前の能面に集中していた。


 ふと、一つの面に手を伸ばす。滑らかな表面に触れると、わずかな温もりが指先に伝わった気がした。雨音が地下にも微かに響いている。外の小窓から吹き込む風と共に、冷たい雫が手の甲に落ちた。


 その瞬間——


 視界の端で、能面の目が動いた気がした。わずかに、ほんのわずかに。口元も、かすかに歪んだような……。


「……まさか」


 目を凝らしても、面は静かにそこにあるだけだった。だが、心の奥底で“確かに何かがあった”という感覚が残っていた。ぞわりと背筋をなでる寒気。


 彼はそっとポケットから清潔なハンカチを取り出し、能面に落ちた透明な雨粒を一滴ずつ丁寧に拭い、ハンカチごと密閉袋にしまった。


「これは……何か、あるかもしれない」


 学の胸の奥で、クリエイターとしての本能が、彼の手を動かしていた。


東京のスタジオに戻った田中学は、透明雨を素材にした新しい特殊メイク技法の開発に没頭していた。


 雨水を濾過し、メイク材料に混ぜると、驚くほど自然で、人肌に溶け込むような質感が生まれた。既存のラテックスやシリコンでは再現できない“生きた皮膚”のような感触。まるで素材そのものに、意志があるかのようだった。


「今回は、特別な技法を試してみようと思ってね」


 主演俳優の上野誠がメイク室に入ってきた。学は椅子を示し、彼に座るよう促す。すでに数十本の映画でコンビを組んできた信頼の俳優だ。


「テーマは“仮面の下の真実”だろ? 能面のように、角度や光で表情が変わるメイクを作りたかったんだ」


 学はゆっくりと、透明雨を含んだ下地を上野の顔に塗っていく。光沢のある肌、わずかに浮かぶ木目のような紋様。だがそれは、顔の動きに合わせて自然に変化した。まるで顔がもう一つの生命体に変わっていくようだった。


「これは……本物の能面みたいだ」


 鏡を見た上野が驚嘆の声を上げる。微笑んでも、哀しげに見える。不安げに見えても、どこか気品がある。能面独特の多面性が、その顔に宿っていた。


 学の目には確信があった。これは“成功”だ。ただのメイクではない。新しい表現の次元に達したと。


「動いてみて」


 上野が頷き、顔の筋肉を動かす。そのたびに、能面のような皮膚が自然に追随し、表情を変えていく。まるで面の下にいる“誰か”が、上野を通して顔を覗かせているような錯覚。


 しかしその瞬間、上野の表情がぴたりと止まった。


「……なんだか、変な感じがする」


 声はかすかに低く、響きが変わっていた。彼の目が、どこか遠くを見るように虚ろになる。


「自分の中に、何か……別のものがいる気がする」


 学は一瞬、手が止まった。その言葉が、地下室で感じたあの違和感と同じ響きを持っていたからだ。


 だが彼は微笑んだ。これは、俳優としての感受性の高さだ。そう自分に言い聞かせながら、次のテストメイクへと準備を始めた。


 しかし、この異変は、始まりにすぎなかった。


学は、夜のスタジオでひとり、パソコンの前にいた。俳優たちの異変は、もはや偶然では説明できない。特に上野は、撮影が終わっても役柄を引きずり、古風な言葉を使い、まるで別人のような眼差しで話すようになっていた。


「本当に、何かが入り込んでいるのか……?」


 そんな疑念が、次第に確信へと変わりつつあった。


 彼は透明雨と能面について調べ始めた。やがて一つの古文書にたどり着く。それは、かつてこの地で行われていたという儀式「雨乞いの能」について書かれていた。


《能役者が、特別な雨に濡れた面をつけて舞うことで、神や鬼の魂を憑依させ、雨を呼ぶ》


 その一文に、学は息を呑んだ。透明雨、能面、そして俳優たちの憑依のような振る舞い。すべてが一本の線につながる。


「俺が作ったメイクは、ただの技術じゃない……魂の通路を作ってしまったのか…?」


 ぞっとするような思いに背筋が冷える。だが、否定できなかった。メイクがあまりに自然に“変化”するのも、ただの材料反応とは思えない。


 学はその夜、上野に電話をかけた。だが、電話口に出た声は、上野誠ではなかった。


「そなたは我らを呼び戻した」


 それは、どこか古めかしく、湿った響きをもつ声だった。現代人の話し方ではない。背後には、ざわざわと複数の声が重なり、耳にまとわりつく。


「戻ることなど、もうできぬぞ」


 言葉が終わると同時に、通話が切れた。学の手が震えていた。


 翌朝、ロケ地である古城に戻った学は、能面のある地下室へと急いだ。面の裏側を一つひとつ確認していく。すると、彫られたような古い文字を発見する。


 それは現代の日本語ではなかった。翻訳アプリにかけると、警告のような文が浮かび上がった。


《雨に濡れし面は、境を越えし魂の宿る場所となる。一度招かれし者は、再び去ることなし》


 その意味するところに、学の背中を冷たい汗が伝った。


 彼はすぐに、この地の管理人である老人を訪ねた。八十を越えるその老人は、話を聞くと顔を曇らせた。


「透明雨と能面……ああ、それはこの地に残された、もっとも恐ろしい秘密です」


 老人の話はこうだった。


 かつて大干ばつの年、領主は雨を呼ぶために、能役者たちを使って特別な儀式を行った。その儀式では、異界と交信するために“雨に濡れた能面”をつけたまま、神や鬼の魂を迎え入れた。


「つまり……俺が作ったメイクは、それと同じことをしてしまった?」


 老人はうなずく。


「そうでしょうな。透明雨は、あちらの世界とこちらの境界を溶かすものです。あなたのメイクは、現代の肉体に“器”を作ってしまったのです」


 「方法は、一つしかありません」


 古城の管理人は、重たい口調で語った。


「“雨乞いの能”の儀式を、正確に再現することです。魂たちは、それによって満足し、この世を去るのです」


 学は、古びた木箱から取り出された巻物を見つめた。それは、この地で数百年前に演じられた能の台本だった。墨で書かれた文字はかすれていたが、確かにそこには「最終の舞」が記されていた。


 「ただし…」老人は言葉を濁した。


 「儀式には代償が伴います。彼らが去れば、空いた“器”を埋めるために、誰かがその役を引き継がねばならないのです」


 学の喉がひりついた。あの異様な能面たちが、彼のメイクによって現代に舞い戻った。そしてその責任を果たすため、彼は“演出”を選ぶしかなかった。


 「監督、脚本を少し変えたいんです」


 山田監督に提案した学の表情は、静かだが決意に満ちていた。儀式の内容を映画のクライマックスとして取り入れる。それが唯一の方法だった。


 撮影当日、空は晴れていたはずだった。しかし、城の上空だけが不気味に暗く、雨が降り始めた。最初は無音だったが、次第に、見えない雨が冷たく頬を打ち、やがて本物の雨へと変わっていった。


 「これは…ただの天気じゃないな」


 山田がぼそりと呟く。


 舞台は城の中庭に設けられ、俳優たちは能装束を身にまとって立っていた。彼らの目は虚ろで、何かに突き動かされるように黙って舞の構えをとっている。


 「カメラ、アクション!」


 監督の声で儀式が始まった。


 俳優たちは、古文書に記された通りの舞を踏んだ。動きは完璧で、緩急と節度、息遣いまでもが異様なまでに精密だった。雷鳴とともに、雨が激しさを増す。だが、誰一人として動揺を見せない。


 そして、上野が仮面を掲げ、天へ向けて舞を終えると同時に、空が裂けたような閃光が走った。


 次の瞬間、彼らの顔から能面がふわりと浮き上がり、雨とともに空へ吸い込まれるように消えていった。


 学は、ほっと息をついた。


 ……だが、それは終わりではなかった。


 その場に落ちた能面たちが、ひとつ、またひとつと、学の足元へ集まってきた。まるで彼を囲むように。空気が凍りつくような静寂の中、どこからともなく声が聞こえる。


「代償を払う時だ。器よ――お前が選ばれた」


「やめろっ!」


学が叫ぶと、それらは小さな雨が散らばるようにその場で閑散したのだった。


儀式も撮影も無事に終了した。俳優たちは正気を取り戻し、透明雨も、まるであの儀式を見届けたかのように止んでいた。


 編集を終えた映画は予想を超える反響を呼び、公開初日には長蛇の列が劇場前にできた。観客は、俳優たちの表情の“異様なリアリティ”に驚き、評論家たちは「仮面の美学」として高く評価した。


 田中学の名は、特殊メイク界の先駆者として一躍有名になった。授賞式では「革新的な映像表現への貢献」として称賛され、彼は壇上で笑顔を見せた。


 だが、本人だけが知っていた。あの能面たちが、まだ完全には消えていないことを。


 授賞式の夜、ホテルを出た彼を迎えたのは、予報にない突然の雨だった。傘を差そうと手を伸ばすが、ふと動きを止める。


 「……この雨は、見える」


 そう思った瞬間、妙な違和感が胸に湧いた。自宅に戻り、鏡の前に立つと、学は自分の顔を凝視した。


 輪郭、目元、口の形。どこかが違う。まるで、別人のようだった。


 「気のせいだ。疲れてるだけ」


 自分に言い聞かせながらも、翌朝の鏡には、より一層、能面に似た無機質な顔が映っていた。眉の動きは鈍く、頬は硬く、木の質感に近づいている。


 「大丈夫……俺は、俺だ」


 しかし、声までが低く、くぐもっている。以前の自分とは、確かに違っていた。


 学はその日もスタジオに向かった。新作映画の準備が始まっていた。彼は静かにメイク台に座り、新たなデザインを描き始めた。その指先から生まれる面は、どれも人の心を吸い込むような妖しさを湛えていた。


 「田中さんの新作、怖いけど美しいですね」


 スタッフが褒めると、学はゆっくりと笑った。


 「ええ……魂を込めてますから」


 その笑みは、どこか仮面のようだった。


 後日、新しい映画のポスターが公開された。そこに映る田中学の顔は、まるで能面が人間になったかのように、静かで、冷たく、何かを秘めていた。


 そしてまた、東京の空に、静かに雨が降り始めた。


 それは、誰にも見えない、あの雨だった。

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