第四章「全ての始まり」 2/2

 その日も、私はヒノーデルへ向かっていた。


 四輪想駆ビークル・ソドの荷台には、鈍く光る金属片や、加工された紐、用途を悟らせないよう慎重に包まれた小箱が、隙間なく積み込まれている。

 これは、誰かを傷つけるための想具ではない。

 ──自らを終わらせるための「手段」だ。


 いつも通り、ヒノーデルの広間にやってきた。

 笑い声、怒鳴り声、商人の声。その中を歩きながら、私は「音のない場所」を探す。


 目の焦点が合っていない少年。

 路地裏に座り込み、空の器を抱いたまま震えている。


 未来を諦めたような、手足の不自由な老人。

 通りを行き交う人々に、誰からも視線を向けられていない。


 私は一人ひとりの前に立ち、低い声で囁いていく。


「君がどれだけ働いたところで、この一枚にも届かない。生まれつき、君の“負け”は決まっていたんだよ」

「この先、老いと痛みは増えるばかりだ。誰も、貴方を支える余裕なんて持っていない。ならば、楽なうちに幕を引くのも、一つの選択ではないですか」


 いつぞやの女が、弦楽想具を持ちながら近づいてきたので、甘い声で囁いた。


「君はもう十分すぎるほど頑張った。これ以上、誰かに利用される必要はない。苦しまない場所へ、私が案内しよう」


 言葉とともに、「手段」を手渡し、その使い方を耳元で囁く。彼らの瞳に、絶望と安堵が入り混じった色が浮かぶ。

 今日この日、私はこの世界の上位存在へと生まれ変わり、すべてを統べる支配者となるのだ。


* * *


 胸騒ぎが、もう何日も前から止まらなかった。

 ──人々が、列をなして倒れていく。

 ──トレーソンが、空を仰いで笑っている。


 その最悪の未来が、もうすぐ現実になる。


 その引き金を引いたのは、紛れもなくこのわたしだ。


 アンナに、軽はずみに「彼と会わないほうがいい」と忠告してしまったこと。

 ブラムを民兵団へ通報したことで、結果として彼の歪んだピースをはめてしまったこと。

 そして何より──彼に、あの未来をありのまま伝えてしまったこと。


 考えれば考えるほど、心身はすり減っていくばかりだった。

 もう、わたしが何をしようと彼を止められる気がしない。


 ──なら、いっそ。わたしは棚の一番奥に手を伸ばした。


 そこには、強盗が押し入ってきたときのために、

 念のため用意していた鳥銃想具マスケット・ソアが眠っている。


 監視者に触れる前に、わたしが彼を殺せば──世界規模の最悪だけは回避できるかもしれない。


 震える手を、ぐっと押さえつける。銃身を握りしめ、その重みを確かめる。

 私を動かすのはアスタロト家としての責務か。それとも…

 答えは出ないまま、わたしは占いの館を飛び出した。


* * *


 古びた広間に、息の詰まるような静寂が満ちていた。


 そこには私が声をかけ、誘い出した人々が集まっている。

 心をすり減らした女。

 老い先の短い男。

 恐怖に怯えながらも、どこか諦めた目をした少年少女たち。


 それぞれの手には、私が用意した「手段」が握られていた。


 私は広間の中央に立ち、静かに口を開く。


「君たちがいま、つらい状況にあるのは──生まれた時点で決まっていたことだ」


 誰かが、かすかに息を呑む。

 私は一人ひとりの顔を見渡しながら続ける。


「この世界は、残酷なほど不公平だ。

 努力が報われる者もいれば、報いられない者もいる。

 苦しみだけを配られたまま、一生を終える者もいる」


 ゆっくりと、言葉を落としていく。


「ならば──死こそが救いであり、君たちをそんな世界から解放してくれる“出口”ではないか」


 その一言に、何人かが肩を震わせる。

 それは恐怖か、安堵か、自分でも判別がつかない感情なのだろう。


「これは強制ではない。選ぶのは、あくまで君たち自身だ。

 “負け”を受け入れ続けるか、

 自らの手で……この理不尽な世界から降りるか」


 沈黙が広間を満たす。


 やがて誰かが一歩、前に出た。

 それを皮切りに、次々と人々が決意を固めるように立ち上がる。


 そして──無数の刃が、同時に首筋へと当てられた。

 刹那、世界から音が消える。


「さあ、君たちの選択に祝福あれ」


 私の言葉を合図にするかのように空気を裂く微かな風切りが、幾重にも重なった。


 ──次の瞬間。


 空を突き破るように、まばゆい光の柱が降り注いだ。


 眩しさに思わず目を細める。

 その中心に、黒い点のような何かが、静かに浮かんでいた。


 それはやがて、ゆっくりと形を増し、拳大ほどの黒い球体となって、光の中に浮かび続けている。


「……やはり」


 喉の奥から、笑いがこみ上げる。


「仮説は、正しかったのだな」


 監視者。

 アスタロト家の記録に記されていた――上位存在。


 私は笑みを浮かべたまま、そっと手を伸ばした。

 指先が、黒い球体の表面に触れようとした、そのとき──


「止まりなさいッ!!」


 聞き覚えのある声が、広間に響き渡った。


 伸ばしかけた手を止め、振り返る。そこにいたのは……空っぽだった私に息吹を吹き込んだ張本人──その人だった。


「やあ、フィーネ・アスタロト。

 ついこの前会ったばかりなのに、ずいぶん久しく感じるよ」


 入口に立つ彼女は、鳥銃想具を両手で抱え、

 今にも崩れ落ちそうな足取りでこちらを睨んでいた。


「……これは、あなたがやったの?」


 床一面に広がる血と、倒れ伏したまま動かない人々を見下ろしながら、彼女は震える声で問う。


「いいや、違う」


 私は首を横に振る。


「彼らは皆、自らの意志で命を絶った。私は、ただ……出口を教えただけにすぎない」


「そそのかしたのは……そう仕向けたのは、あなたでしょう!?」


「ひどい言いがかりだな。文句があるなら、こんな理不尽な世界をこしらえた“監視者”にでも言ってくれ。それに……扉を開けたのは他でもない、彼ら自身だよ」


 彼女の顔色が、さらに青ざめていく。


「君には礼を言わなくてはな」


 私はふと、口元を綻ばせた。


「ありがとう、フィーネ・アスタロト。私に、“原動力”を与えてくれて」


 感謝を告げると、彼女から視線を外し、

 再び黒い球体──監視者へと手を伸ばそうとした、そのとき。


「ふざけないでッ! それ以上動けば……撃つ」


 震える声で、彼女は発砲を宣言した。

 だが、その銃口はあまりにも不安定に揺れている。


 私はゆっくりと歩み寄り、彼女の目の前まで進むと、

 自分の胸元に、銃口が向くようにそっと手を添えた。


「君は……その引き金を引くことはできない」


「ぐっ……」


 彼女の喉から、苦しそうな声が漏れる。

 銃を握る手は、ありえないほど小刻みに震えていた。


「命を奪うという覚悟がないのだ」


「それは……ッ!」


 今にも泣き出しそうな顔で、彼女は私を見上げる。


「何の想いも持たぬ君に、私を止めることなど到底できない。

 その資格すら、君にはない」


 震えは頂点に達し、

 やがて彼女の指から、鳥銃想具が滑り落ちた。


 乾いた音が鳴り響く。それはまるで、彼女の心が砕け落ちた音のようだった。


「今、この瞬間──全てが始まるのだ」


 私は彼女に背を向け、再び黒い球体へと手を伸ばす。

 冷たい表面に指先が触れた瞬間、視界が真っ白に弾けた。


 こうして、一人の人間としての私の人生は幕を下ろし、“支配者”としての新たな道が始まった。

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