第37話 記す者の祈り

 風は穏やかに吹いていた。

 アレンが行き着いたのは、かつて神門の余波で焼けた荒野の果て。

 そこにはもう何もないはずだった。

 なのに、地面から微かな光がのぼっている。まるで世界そのものが呼吸しているように。


 「……やっぱり、ここにも残っていたか。」

 アレンは体の裾を押さえながらしゃがみ込み、掌を地に置いた。

 土の下に広がる“理の残響”。

 再構築によって均されたはずの地脈に、細く小さな歪みが眠っている。

 人が見ようとしなければ何の害もない。けれど、近い未来、また誰かが手を加えればどうなるか――その予感だけが彼を足止めさせた。


 風が音を変える。

 どこか遠くから声が届いたのだ。

 リィナの声ではない。彼の記憶の奥底から届く、懐かしい響き。

 “あなたは記す人になる”

 リュシアの面影。あの温もりが心の中で蘇る。

 アレンはゆっくりと立ち上がり、風の先を見る。


 霞の向こうに見える、小さな建物群。

 廃墟のようでいて、旗が一枚だけ風にたなびいていた。

 記録院の紋章。

 白地に青い羽根の意匠――世界を“書き残す者”たちの象徴だった。


         ◇


 建物の内部は静まり返っていた。

 崩れた本棚の間を抜け、埃の積もった資料室へ入る。

 壁一面に貼られていた紙は湿気で黒ずみ、ところどころに焼け跡が残る。


 棚の奥にひとつだけ、未開封の封筒があった。

 封には“リリア・シェード”の署名。

 アレンは息を詰め、丁寧に封を解く。

 ――あれから、あなたの歩いた道を記しています。

 ――世界は少しずつ変わっています。

 ――人はまだ迷いながら、それでも“選ぶ”ことをやめません。

 ――これを読む頃、あなたがどこにいるのかは分かりません。でも、今の時代を刻むための“言葉”を残しておきます。


 手紙は短く、それでいて温かかった。

 行間に滲んだ書きかけの小さな墨のしみが、まるで彼女がまだそこにいるような気配を残している。

 “生きた時間を記すこと、それが信仰の代わりになる時代になるように。”

 アレンは最後の一文を指でなぞり、目を閉じた。

 彼が戦い、壊し、繋いだすべてが、こうして誰かの言葉になっている。

 それだけで十分だった。


 彼は封筒を懐にしまい、壁の前に立つ。

 そこはリリアが最後に記した“記録院の文”が刻まれた部屋。

 “我らは観測し、記す。神の代わりに世界を見届ける者として。”

 かつて彼女が言った言葉が、焼け残った壁の文字と重なる。


 「見届ける、か。」

 アレンは微笑み、杖を軽く地に打った。

 地脈が反応し、部屋の奥で淡く光が生まれる。

 封鎖されていた穴の先、地下通路が現れた。


         ◇


 通路を進むと、地下の空間が広がっている。

 そこには古い術式の装置が眠っていた。

 “理影記録装置”

 それは、かつて王都でアレンとハイゼル、リリアが共同で作り上げた装置だった。

 目では見えない“存在の記録”を残すための、最後の試み。


 アレンは装置の端に触れ、古い文字を読み上げる。

 「認証者名、アレン・クロード。」

 光が広がり、壁面に映像が映る。


 最初に映ったのはリィナの姿だった。

 風の街の丘。彼女は森の子どもたちと笑っていた。

 次に現れたのはリリア。記録院の机の前で、羽根ペンを持つ手が小刻みに動いている。

 そして最後に。

 ハイゼルの姿。再構築の光に包まれながら、彼は静かに笑っている。


 「……これが、今の世界。」

 アレンは画面越しに呟いた。

 皆がそれぞれの場所で“記して”いる。

 その姿を見るだけで、何かが胸の奥でほどけるようだった。


 ふと、装置から機械音が響いた。

 “最後の枠が空いています。記録を開始しますか?”

 空間に文字が浮かぶ。

 「最後、か。」

 アレンは深呼吸をして頷いた。


 「記録開始。」


         ◇


 装置の光が彼を包み込む。

 周囲の風景が変わり、闇の中に無数の光点が浮かぶ。

 それは人々の夢や祈り、そして記録の群。

 アレンはその中心に立ち、静かに語りはじめた。


 「ここに記すのは、僕の見た世界です。

  神が沈み、人が歩き、竜が眠る世界。

  理は壊れ、そして繋がった。

  けれど、そこに必要だったのは力ではなく、選ぶ心でした。」


 光が彼の言葉に反応し、風のように広がっていく。

 人の声、木々の揺れる音、子どもの笑い、遠雷、雨のしずく。

 すべてがひとつに溶けて、ゆっくりと壮大な旋律を紡ぐ。


 「かつて僕たちは、世界を“正す”方法ばかりを求めていました。けれど今は違う。

  人が失敗しても、その手でまた作り直せる。

  失うことを恐れず、覚えていられるなら、それが生きるということなんです。」


 光が強くなり、天井を突き抜けた。

 街の上空で、金と青の風が渦を描く。

 風車が勢いよく回転し、町人たちが空を見上げる。

 雲が裂け、陽光が一筋射し込む。


 アレンはゆっくりと息を吐いた。

 「僕の時代はここまでだ。

  これからは、記す者たちの時代になる。

  どうか、願わくばこの風が、彼らを前へ押す力になりますように。」


 装置の光が静かに収まり、地下に再び静寂が戻る。

 記録された映像は、理の層を通して世界中へ流れ出していった。

 風に乗り、海を渡り、森を越え、眠る地の底に届く。


         ◇


 それから幾日かが過ぎた。

 風の街では、空に光柱が立った夜を“再生の夜”と呼ぶようになった。

 そして王都の記録院に、新しい書が届く。

 表題にはこう記されていた。


 ――『再構築録 第零章 繋ぐ者の記』


 その筆跡を見たリリアは微笑み、静かに本を抱きしめた。

 リィナは風の丘でそれを朗読し、子どもたちに語る。

 「この世界を作り替えた人がいたの。でもね、その人は言ったの。

  “私は神じゃない。あなたたちの夢が、次の理を形づくるんだ”って。」


 彼女の視線の先には、遠くを歩く人影があった。

 外套を翻す旅の男。

 風に揺れるその背中は、誰のものとも言わず、振り返りもしない。

 けれど、確かに世界のどこかで生きている。


 アレンは、旅の途中で空を見上げ、微笑んだ。

 青と金が混ざる雲の隙間から、微かな光が降り注ぐ。

 それはまるで、彼の言葉がいまも誰かの記録に刻まれている証のようだった。


 「さあ、続けよう。まだ、風は止んでいない。」


 再構築の時代は終わり、記す者たちの時代が始まる。

 理を超えた祈りは、再び新しい“物語”を呼びはじめていた。

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