第36話 新しき風の果てに
夜明けがくるより少し前、風の街デールの丘には霧が満ちていた。
遠くの山々が霞に溶け込み、風車の羽だけがかすかな音を立てて回っている。
アレンはその音を聞きながら、一人丘のはじに立っていた。
地面を透して、世界の奥から微かな流れを感じる。
地脈が呼吸している――まるで生き物のように。
昨夜の“石化病”の件で、町の人々は安堵と動揺の入り混じった表情を見せていた。
石から人へと戻った者たちは、奇跡と呼ぶほかない回復を喜んでいたが、同時に「また何か起こるのでは」と恐れを抱いていた。
その姿を見るたび、アレンは自分の中の責任を再確認する。
「人が理を知るということは、命と同じものを握ることだ。」
ハイゼルが言った言葉を、今度は自分の胸の内で反芻する。
赦し。そして再生。
この二つが一つの理であるならば、もう誰も争う必要などないはずだ。
足音が背後から近づいてきた。
「また難しい顔をしてますね。」
リィナの声だった。
アレンは肩をすくめ、振り返らずに微笑んだ。
「考えごとが多いのは悪い癖ですよ。」
「じゃあ、その癖を直すまで、隣で見張ってます。」
リィナは冗談めかして言いながら、彼の隣に並んだ。朝霧の向こうで、東の空が薄く明るみ始めている。
「師匠は、またどこかへ行くんですか。」
「ハイゼルのこと?」
「はい。」
「たぶん、もうどこにも行かない。彼はこの大地の記憶と混ざった。僕たちが足を踏みしめるたび、その歩みの下で彼の声が響く。」
「あなたの杖の中にも、ですか?」
アレンは握っていた杖を軽く掲げ、朝光を受けて透かした。
竜紋の痕はすっかり薄れていたが、杖の奥で微かに脈動がある。
「ええ。彼の理の断片。今は眠っているけど、世界が再び道を失くした時、きっと目を覚ます。」
「世界が、また道を失くしたら……。」リィナは視線を地平線に向けた。
「そのときはもう、私たちの出番ですね。」
「願わくば、君たち“新しい世代”が、それを先に見つけてくれればいいけど。」
「だから、わたしはここに残ります。」
アレンが目を細める。
「決めたんですか。」
「はい。この町の人々、そして森。みんなが芽吹きはじめました。誰かが見守らなきゃ。」
「森の神……になるんですか?」
「まさか。人ですよ、私は。森と人の境を繋ぐ“案内役”くらい。」
リィナは笑った。柔らかい風が頬を撫で、それに合わせて髪が揺れる。
その笑顔に、アレンはかつてのリュシアの面影を見た。
ほんの一瞬だったが、胸の奥で何かが温かく溶けるのを感じた。
「……それなら安心だ。」
「師匠は? また旅ですか。」
「ええ。西の果てで、かつて封印した“虚無の門”の脈が蠢いているという報せを聞きました。」
「門……つまり、また理の残響?」
「おそらくは。世界が目覚めるほど、眠っていた理も再び動き出す。僕の次の仕事は、それを“読み解く”ことです。」
丘を渡る風が少し強まった。
リィナの目が、彼の背中を見つめる。
「師匠。」
「はい?」
「あなたが行く前に、一つだけ教えてください。再構築って……結局、なんなんですか?」
アレンは少し考え、空を仰いだ。
「――生きることを、もういちど選ぶ力です。」
リィナが目を見開く。
「理の道具でも、術でもなく?」
「人にしかできないことですよ。壊れたものを見たときに、“直したい”と思えること。それが、全ての始まりなんです。」
彼の言葉にリィナは黙り、やがて小さく頷いた。
「なら、私もそれを続けます。木々を、森を、人を。“直したい”って思う限り、私はその力を信じます。」
「頼もしい。」
朝日が差し始め、街の屋根に薄い光が落ちた。
褪せた風車が金色に輝き、風鈴が再び鳴る。
アレンは杖を背に回し、軽く息を吐いた。
「そろそろ行きます。」
「お見送りします!」
「いいですよ、朝食の用意があるでしょう。」
「いーえ! 行きます!」
リィナは頬を膨らませ、いつものように強情な顔をした。
丘を降り、街を抜ける途中、目覚めたばかりの人々が道端から声をかけてくる。
「兄さん、ありがとう!」「魔法使い様のおかげで息子が戻ったよ!」
アレンは何も答えず、ただ一人ひとりに軽く会釈した。
その背中を見送りながら、リィナは胸の中で祈る。
“風があなたを導きますように。”
◇
午後になり、街道を抜けて広がる西の平野。
アレンは馬車の手綱をゆるめ、帽子を深くかぶった。
遠くに見える荒野の端、一筋の光が揺れている。
それは地平から空へ逆流するような輝きだった。
「やはり、虚無の門。まだ“理の抜け殻”を抱えて眠っていたか。」
呟きながら、アレンは胸の奥に確かな躍動を感じた。
恐怖ではなく、希望に似た鼓動だ。
夜を越え、星々が空に散る。
彼は焚き火を起こし、光に照らされた書簡を広げた。
それは記録院から送られた最新の報告。
――“再構築後の世界では、夢の持ち主によって理が揺らぐ現象が観測されている。”
“誰かが夢を強く望めば望むほど、世界がそれに答える”とあった。
アレンは微笑んだ。
「なら、この世界はもう充分だ。」
夢を見られる人々がいる。
願いによって世界が形を変えるということは、もう神の奇跡ではなく、人の手で“再構築”が行われているということだ。
彼の仕事は、もうその道を見届けるだけでいい。
火が消えかける。
アレンは杖を手に取り、立ち上がった。
遠くで吹く風が、どこか懐かしい声を連れてくる。
――ありがとう。
その声は、風の街の方角から。
リィナ、そして、過去に出会った人々の声が重なるようだった。
「こちらこそ。」
アレンは微笑み、夜空を見上げた。
星々が瞬く。その中のひとつが、ゆっくりと流れる。
その光はまるで、まだ世界のどこかで誰かが“願い”を唱えている証のようだった。
◇
翌朝。
空は晴れ渡り、風が新しい方角へと流れを変える。
アレンは再び歩き出した。
丘の向こうに見えるのは、まだ灰の残る荒野。
それでも確かに緑が芽吹いている。
彼の背を押すように、風が歌う。
今のこの世界は、もう誰かの理ではない。
それぞれの命が、それぞれの願いで動いている。
神も竜もいらない。人が人の手で未来を紡ぐ世界。
アレンはその中央を静かに歩きながら、心の中で一つの詩を紡いだ。
――壊れたものは恐れるな。
――再び選ぶことを忘れるな。
――それが、生きるということだから。
風が彼の言葉を抱えて、どこまでも運んでいく。
そしてその先で、新たな物語がまた始まる。
新しき風は、今日も誰かの心を撫でていた。
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