第33話 約束の残響

 風が止み、世界が静寂に包まれた。

 アレンは丘の上でしばらく立ち尽くしていた。

 王都の天を覆っていた光の門は跡形もなく消え、空は初めて――何百年ぶりかに、澄み渡っていた。

 雲が形を作り、風が流れる。ただそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。


 「終わった……のかな。」

 リィナの声が微かに震えていた。

 アレンは彼女の隣に立ち、その金の髪を見下ろしながら言葉を探した。

 「終わりというより、変わったんでしょう。神の夢が消えて、人の夢が始まった。」

 「じゃあ、これからはもう誰も、あんな封印とか、戦いをしなくていいんですよね。」

 「分かりませんよ。」アレンは小さく笑う。「人はいつでも争う理由を見つける。でも今なら、立ち止まる理由も覚えているはずです。」


 リィナは頷き、小さく息を吐いた。

 空を見上げるその横顔に、アレンは既視感を覚えた。

 ――十年前、リュシアが同じことを言っていた。

 “人間の作る夢は壊れるけど、壊れるたびに少しずつ、美しくなるの。”

 人は神にはなれない。その代わり、“繰り返し”を知っている。


 「アレンさん。」

 「うん?」

 「これから……どうしますか?」

 「どう、か。」アレンは空を見た。

 遠くで鳥が鳴く。王都の尖塔から立ちこめていた光の残滓が、風に流されて霧のように消えていく。

 「僕にはまだ、片付けなきゃいけないことがあります。」


 彼は腰に下げていた小さな革袋を開き、中から白い石片を取り出した。

 指先で触れると、そこからかすかな音がした。

 それは心臓の鼓動のようでもあり、遠い誰かの声のようでもあった。

 「これは?」

 「竜の心臓の欠片ですよ。」アレンは静かに笑う。「あれの全てを閉じたはずなのに、どういうわけか一つだけ残っていた。」

 「まさか……復活するんですか?」

 「いいえ。ただの記憶です。世界の再構築に必要だった源が、形を変えて残ったのでしょう。」

 彼はその石を掌の上に置き、陽の光に掲げた。

 透明な輝きが風に揺れ、そこに微かに映るのは――笑う少女の姿。


 「リュシア……」

 リィナが息を呑む。

 「生きてるんですか?」

 「いいえ。けれど……彼女はもう、“生”という型には縛られていません。」

 アレンは目を細めた。

 「封印の夢の中で、彼女の魂は竜の理と混ざり、この世界そのものに溶けた。森のざわめき、風の流れ、光の粒子。どこにだって、彼女の声はある。」


 リィナは黙ってその光を見上げていた。

 そして、ぽつりと言う。

 「いつか、会えますかね。」

「ええ。君の生きるうちは、きっと思い出のように何度も。」

 その答えにリィナは少し笑った。

 「じゃあ、私も頑張って生きます。アレンさんが忘れてしまわないように。」

 「それは頼もしいですね。」


         ◇


 王都の復興が始まったのは、それから数日後だった。

 かつて聖堂があった場所に、仮の会議所が建ち、避難していた人々が少しずつ戻ってきた。

 崩れた街には緑が芽吹き、封印に閉ざされていた土地は息を吹き返していく。

 アレンとリィナはその景色を見守りながら、瓦礫を整理し、子どもたちに水を配っていた。


 ある老人がアレンに頭を下げた。

 「あんたが、あの光を止めてくれたんだな。わしら、夢の中で誰かの声を聞いたんじゃよ。『生きて』って声をな。」

 アレンは苦笑いしながら頷いた。

 「そうか……それは、きっと僕ではなく、ハイゼルですよ。」

 「ほう?」

 「彼は最後まで信じていた。“理”が誰かを殺すためではなく、救うためにあると。方法を間違えただけで。」

 老人は深く頷き、遠くを見た。

 「なら、ちゃんと報われたんじゃな。あの空の光は、悪いものには見えんかったよ。」


 アレンは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 “師”が最後に見た景色を、誰も悲しみではなく希望として覚えるなら、それでいい。


         ◇


 夕方。

 リィナが瓦礫の上から眺める王都の空は、今まで見たどんな空よりも広かった。

 「アレンさん。」

 「ん?」

 「私、この街に残ってもいいですか。」

 アレンは驚いた顔をした。

 「この街に?」

 「ええ。森の声が、ここを気に入ってるんです。……新しい根を張りたいって。」

 彼女は照れたように笑う。

 「人と自然が一緒に息できる場所を作りたい。小さくていい。森と人が同じ夢を見られるような。」

 アレンは黙って見つめ、やがて柔らかく頷いた。

 「それは――きっと、リュシアも喜びますよ。」

 「じゃあ、ここで始めますね。」

 「手伝いましょうか?」

 「アレンさんは旅を続けてください。あなたは“世界のほころび”を見つける人だから。」


 その言葉に、アレンは少し笑った。

 光が草原を照らし、リィナの髪が風に踊る。

 「そう言われたのは、初めてです。」

 「感謝の印に言葉を贈ります。“解く人”じゃなく、“繋ぐ人”。」

 「うまいこと言いますね。」

 「でしょ?」


         ◇


 翌朝。

 旅支度を整えたアレンは、かつて神殿があった崩れた塔の前に立っていた。

 空気は冷たいが、澄んでいる。

 彼の背後からリィナの声がした。

 「もう行くんですね。」

「ええ。いずれ南の地脈も見ておかないと。まだ不安定ですから。」

「帰ってきますか?」

「もちろん。」

「約束ですよ。」

 リィナが指を差し出す。アレンは笑ってその小指を軽く握った。

 「約束、ですね。」


 風が吹き、彼の外套がはためく。

 アレンは馬に似た荷車に乗り、王都の門を後にした。

 振り返ると、リィナが小高い丘の上で手を振っている。

 その姿が朝の光に包まれ、まるで森の精そのものだった。


 空には青い風。

 地には新芽。

 そして人の胸には、それぞれ自分の夢が灯っている。


 アレンは目を閉じた。

 再構築とは破壊でも救済でもない。

 それは、繋ぎ直すための意志――人が人であることを忘れないための行いだ。


 遠くで雷が鳴った。

 しかし今、その音は優しかった。


 アレンは杖の先に宿した光を一度だけ掲げ、旅の道へ踏み出す。

 その背中を照らす太陽に、彼の影が長く延びていく。


 約束の言葉は、旅立つ風に溶けた。

 「――世界は、まだ続く。」

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