第32話 神の理と人の答え

 世界の中心が白く染まった。

 音も匂いもない。人の知覚というものがすべて奪い去られ、ただ光の波が揺れている。

 アレンはその中で、杖を構えて立っていた。

 足下に床はない。ただ“存在”という感覚だけがある。

 対峙するハイゼルの姿も、輪郭が霞んでいる。もうこの場所は現世ではなかった。


 「ここが……“理の門”か。」

 アレンの呟きに、ハイゼルが静かに頷く。

 「そうだ。王都も大地も、今この門に飲まれた。私と君と、そして彼女――“選ばれた者”だけが、まだ輪の外側にいる。」

 ハイゼルの声は穏やかだった。怒りも憎しみも感じられない。かつてアレンが弟子として慕った頃の声そのもの。


 「これが、あなたの見たかった“完全な世界”なんですか?」

 アレンは皮肉を込めて問う。

 「完全など存在しない。」ハイゼルは目を細める。「だが、神は人に可能性を与えた。ならば、人が神の理を知り、より良い形に組み直すこともまた赦される。」

 「それを、再構築で成し遂げようと?」

 「そうだ。君たちは“生命”を救おうとした。私は、“世界”を救おうとした。それだけの違いだ。」


 アレンはゆっくりと首を振る。

 「違います。あなたの理は、誰かの犠牲で成り立っている。人を“素材”として、世界を整えるなんて、それは治すことじゃない。壊すことです。」

 「犠牲を払わぬ理など幻想だ。」

 ハイゼルの声が重く響いた瞬間、光の中で無数の印が浮かび上がる。

 それはかつてアレン自身が設計した再構築陣――ただし、今は血と祈りで汚れた異形の姿をしていた。


 「――再構築理式・神門交差層。」

 ハイゼルの周囲に巨大な円環が生まれる。

 それは白と金の光を放ちながら回転し、空間そのものをねじ曲げていく。

 リィナが叫ぶ。

 「アレンさん! 止めないと!」

 「わかってる!」


 アレンは杖を地へ突き立て、即座に反対の術式を展開する。

 「再構築理式・夢界反転!」

 青と金の光がぶつかり、交錯した瞬間、空間が砕けた。

 衝撃が全身を叩き、骨の奥が軋む。

 それでもアレンは杖を離さない。


 ハイゼルの声が響く。

 「神の理に人を組み込む。これが、私の“創世”だ!」

 「そんなものが完成したら、みんな眠ったままの人形になる!」

 「それでも苦しまない。君はそれを望んだだろう?」


 アレンの瞳が揺らいだ。

 確かに、かつてはそうだった。

 痛みも争いもない世界を作りたかった。誰も死なない場所に人を導きたかった。

 けれど、その果てに見たのは“空っぽ”だった。

 命は痛みを知って、初めて誰かのために祈れる。――そう、教えてくれたのはリュシアであり、リィナだった。


 アレンは息を吸い、静かに言う。

 「僕は……願いを変えたんですよ。」

 「何を?」

 「人が“もう一度立ち上がる力”を取り戻すこと。それだけです。」


 光が広がる。

 アレンの掌から竜の紋章が浮かび上がる。

 ハイゼルの円環が反応し、異様な唸りを上げた。


 「まさか、その印は……竜の理か。」

 「ええ。あなたが探していた“理の根源”。でも、それを人が持つということは、“神の統制”から離れることでもある。」

 ハイゼルの表情が険しくなる。

 「だからこそ危険なのだ。君のような存在をこの世界が許せば、いずれ秩序は崩壊する。」

 「秩序は壊れた方がいい時もある。壊れなきゃ、新しい道は生まれない。」


 アレンは杖を掲げ、空へ向けた。

 「竜の理、再結合式――“息吹の解放”!」

 紋章が輝き、光が天へ突き抜ける。

 純粋な風の流れが生まれ、金の光を押し返した。

 空間が震え、神門の形式が崩壊を始める。

 リィナはその光に包まれながら、胸の奥で確かに感じた。森の声が、再び戻ってくる。


 だが、ハイゼルは笑った。

 「甘いな、アレン。君はまだ“理の意味”を知らない。」

 彼の背後に第二の門が現れる。

 今度の門は黒。光ではなく闇の線で描かれていた。

 空間の深淵から、巨大な目のようなものがゆっくりと開く。

 「これは……!」

 アレンが息を呑む。

 「神門だけでは不完全だった。ならば、竜すら取り込む。我はこの世界そのものを再構築する。」

 「やめるんだ、ハイゼル!」

 叫びも届かない。黒い風が吹き荒れ、塔の基盤ごと砕ける。


 リィナがアレンの手を掴む。

 「このままじゃ全部が……!」

 「逃げても無駄だ。閉じた世界で、私たちは終わる。」


 アレンは一瞬、目を閉じた。

 恐怖。焦燥。そして、かすかな希望。

 彼の中で確かに燃えていたものがある。

 ――再構築。

 壊れたものを繋ぎ直す、それが自分の薪。


 「ならば、重ねるだけですよ。」

 アレンはリィナの肩に手を置き、笑った。

 「終わりと始まりを、一つに。」


 「……え?」


 彼は杖を握り直し、詠唱を紡ぐ。

 「再構築理式――“理と理の統合”!」

 青と黒、二つの力が衝突する。

 光が爆ぜ、闇が蠢く。

 中心に立つアレンの体は一瞬消え、次には光そのものと化していた。


 ハイゼルの叫びが響く。

 「待て、アレン! それでは――」

 言葉は風に飲まれた。


 理の門が弾け、世界が裏返る。

 空が砕け、光の粒が雨のように降り注ぐ。

 その一粒一粒が、眠っていた人々の心に触れ、静かに目覚めを促す。


 王都が震え、世界が息を吹き返した。


         ◇


 アレンが目を覚ましたのは、どこか懐かしい草の匂いがする丘の上だった。

 空は晴れ渡り、彼の胸には確かな鼓動がある。

 リィナが泣きそうな顔で覗き込んでいた。


 「……戻ってきたんですね。」

 「まだ世界が僕を必要としてくれるなら、ね。」

 アレンはゆっくりと起き上がり、遠くの王都を見つめた。

 光の塔は消え、ただ静かな風が吹いている。

 ハイゼルの姿はなかった。彼が夢と一緒にどこへ消えたのか、誰も知らない。


 リィナが手を握る。

 「終わったんですか?」

 「終わりではなく、始まりですよ。再構築は“再生”のための術ですから。」


 丘を渡る風が、春のように柔らかかった。

 人と人が再び夢を見られる世界。

 戦いではなく、選ぶことから始まる新しい旅。


 アレンはその風の中で小さく呟いた。

 「神も竜も眠った。この世界は、今度こそ人の手で続く。」


 青空に一羽の鳥が舞い、彼らの上を越えていく。

 その翼が落とした影は、どこか懐かしく、やがて未来へ溶けて消えた。

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