第24話 眠らぬ夜の予兆

 朝になっても、アレンは眠っていなかった。

 赤い月が消えてから数時間。森の囁きが止み、村は平穏を取り戻したように見えたが、彼の頭の中だけは静まらない。

 リィナが“選ばれし者”に選ばれる――それは森が告げた未来であり、避けられぬ流れのはずだった。

 だがその言葉の裏にある、森の疲れた声音が耳に残っている。

「……終わらせて」

 その一言。まるで森全体が自らの死を望んでいるようだった。


 アレンは窓を開け、朝日に染まる大地を見下ろした。霧は晴れ、風は澄んでいる。

 けれど空の下で確かに感じる。地脈を伝って微かに響く“震え”。

 それはまだ誰も起きていない“何か”の胎動。

 この地の中で、新たな命と力が動き始めている。


「神か、人か、竜か……それとも、また別の。」

 独り言のように呟くと、扉が軋んだ。

 そこにいたのは、眠そうな顔のミーナだった。


「アレンさん、寝てないんですか?」

「少し考え事をしていました。」

「どうせ難しいこと考えてたんでしょう?それでまた不眠になってる。」

「習慣ですよ。人の心配をしすぎるのが癖でしてね。」

「ほんと、もう少し手を抜くこと覚えたらどうです?」

 ミーナは呆れ顔で笑い、窓の外を覗いた。

「でも……なんだか変ですね。朝なのに、音がしない。」

 その一言に、アレンは小さく頷いた。

「感じますか。」

「はい。風の音はするのに、生き物の気配がない。鳥も鳴かない。まるで、誰かに止められてるみたい。」


 話している間にも、耳の奥で不思議な反響が続いていた。

 地面そのものが何かを抑え込んで唸っているような、低い振動。

 アレンは視線を遠くに向けた。

「……王都から、です。」

「まさか、もう査問使が?」

「早すぎます。しかし“あれ”は魔法ではなく、もっと根源的なものです。」


 彼がそう言い終えるより先に、大地が唸った。

 空間が音を失い、一瞬、世界が歪む。

 鳥の鳴き声が途絶え、光さえも滲むように乱れた。


         ◇


 村の中央広場では、先に起きていたリィナが水を汲もうとして異変を感じていた。

 井戸の水が止まり、周囲の空気が重くなる。

 どこからともなく冷たい風が吹き、青い花びらが地面を転がった。

 花は昨日、アレンが「地の安定の象徴」として植えたものだ。

 だがその花弁が、一つ、また一つと黒く変わり始めている。

「いや……これは……」


 彼女が井戸から手を離した瞬間、水面が膨張し、泡立った。

 泡が破裂するたびに黒い煙が立ちのぼり、焦げた匂いが鼻を突く。

 その煙は一定の高さで留まり、人の形を取り始めた。

 黒い影――“虚像”だった。

 それは神殿が生み出す召喚術の一種で、遠く離れた場所から魔力の映像を投射できる。


 リィナは目を見張った。

 虚像の中心で、銀白色の外套を纏う人物が立っていた。

 見覚えのある顔。ハイゼルだった。


「まさか……直接投影!?」

 信じられない。通常の召喚魔法はこれほどの距離を保てない。

 王都から辺境までは二千キロ離れている。それを維持できるのは、神核兵器クラスの魔力を供給しているということだ。


「やあ、リィナ=メイサ。いや、“選ばれし者”と呼ぶべきかな。」

 体の存在はなくとも、その声は明確に響く。

「……その呼び名、どこで聞いたの。」

「森が囁いた。世界が告げた。選定の波は王都にも届いたよ。」

 ハイゼルの目が鋭くなる。

「君の中に眠るもの、それを我々は“証”と呼んでいる。神の理を証明するための真核。村ひとつ抱えても価値は計り知れない。」

「そんなもの欲しがってどうするの?」

「秩序のためだ。神なき時代、人が神を演じねば世界は保てない。――我々は“創世会議”を開く。君に、来てもらいたい。」

「“来てもらいたい”って、実際は連行でしょ。」

「正確には、そうだね。ただ痛みは与えない。少なくとも君が従う限りは。」


 その瞬間、リィナの足元から光が走った。

 地面に薄い円陣が広がる。歪な紋様。

 目を凝らすと、それは黒い石粉で描かれていた――王都教会の転移封陣。


「っ、罠……!」

 逃げようとするが、足が動かない。

 魔法陣が光り、足首から冷気が這い上がる。体内の魔力が固定され、じわじわと束縛されていく。


「やめなさい!」

 鋭い声が響き、風が広場を裂いた。

 アレンが駆け寄り、杖を振り下ろす。それだけで空気の層が割れ、虚像がたちまち砕けた。

 ハイゼルの姿は掻き消えたが、魔法陣の光は消えない。


「リィナ!」

「私……動けません……!」

 アレンはすぐに彼女を抱き上げ、陣形の外へ連れ出した。

 だが地面を覆う蔦のような魔力が追うように這い寄る。

 まるで生きた縄のように二人の腕を掴もうとする。

 アレンは素早く手を握り、魔力を逆流させた。

「――“反転干渉陣”!」

 地面が爆ぜ、黒い蔦が逆流し、空に弾け飛んだ。


 彼はリィナを地面に下ろし、息を整えた。

「……やはり、ハイゼルですね。こんな遠隔術を使えるのは彼だけです。」

「これが査問、なんですか……。私を試してるんですか。」

「君を“証”として測っている。倒すつもりはないが、手の内を探っている。」


 リィナの肩が小さく震えた。

「アレンさん、何をしようとしてるんでしょう、ハイゼルは。」

「神に代わる存在を作るつもりです。……それこそ、神を“超える人”。君のような――再構築者の系譜を使ってね。」


 リィナは黙った。

 恐怖ではなく、理解してしまったからだ。

 この力の行き着く先。自分が“選ばれた者”として引きずり出されようとしている未来。


 アレンは空を仰ぐ。

 雲が東へ流れている。流れは強く、まるで風そのものが王都へと吸い込まれているようだった。

 世界が動き始めている。


「リィナ。逃げるだけでは意味がない。これから先、僕たちは世界そのものと対話しなければならない。」

「世界と、対話……?」

「神も、竜も、人も。皆が一度同じ夢を見なければならない。――そこからしか、新しい秩序は生まれない。」


 その言葉を残し、彼は立ち上がった。

 服の袖から覗く腕には、僅かな光が走っていた。

 竜との接触で刻まれた印。それが再び共鳴を始めている。


         ◇


 夜。

 すっかり静まり返った村の中、アレンだけが眠れずにいた。

 書斎の机には王都から届いた黒い封筒。開くことなく放ってある。

 外では風が吹き、窓辺のカーテンが灯火を揺らしていた。


 彼は立ち上がり、窓を開けた。

 星々が広がっている。しかし、その中にひとつだけ異質な光があった。

 雲でも星でもない、揺らぐような赤い輝き。

 王都の方向。


「ハイゼル……祭壇を動かす気ですね。」

 低く呟き、アレンは静かに杖を握りしめた。

 その額を汗が伝う。

 夜の風が吹くたびに、地脈の震動が少しずつ強くなっていく。


 眠らぬ夜が始まる――ただの嵐ではなく、世界そのものの境界が目を覚まそうとしていた。

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