第6話 辺境への旅立ち
アレン=クロードがルーデン村にたどり着く少し前のこと。
彼は王都アルディナの北門を出て、ひとり荒野を進んでいた。
旅立つつもりなど当初はなかった。だが追放の宣告が下されたその日、城門の外で彼を呼び止めたのは、ひとりの神官だった。
「アレン様……いえ、アレン殿。せめて、これを」
神官は布で包んだ小さな包みを差し出した。
それは王立神殿でも特級の許可を持たなければ触れることのできない特製の回復薬や食糧。だがその中に、一枚の古びた羊皮紙が忍ばせてあった。
「これは……?」
「辺境行きの通行認可証です。殿下の命で処分される予定のものでしたが、あなたのために――」
「危険ですよ」
「もう十分危険です。どうか、生き延びてください。あなたの力を恐れる者もいますが、救いを信じている者も確かにいるのです」
神官の言葉に一瞬だけ微笑みを返し、アレンは頭を下げた。
それが、王都で最後に交わした人の温もりだった。
北の荒野は、昼は熱風と砂塵、夜は氷のような冷気が襲いかかる。
人の姿もほとんど見えず、あるのは枯れ木と崩れかけた廃墟ばかり。
その荒れ地を、アレンは魔力循環を最小限に抑えて歩いた。
(魔力を使えば痕跡が残る。追跡術の餌になる……王子たちは必ず動くだろう)
追放と言いつつ、彼を“静かに消す”つもりなのは見え透いている。
それでも構わないと、どこかで思っていた。
王都で過ごした年月は、あまりに濃密で、そして虚しかった。
(功績も地位も、誰かの嫉妬ひとつで崩れるものなら、そんな価値などない)
だが、生きている限り、命令も誹謗も関係ない。
自分のために歩く。それだけが、唯一の自由だった。
◇
三日目。荒野の向こうに山脈が見えた。
その手前、かすかに緑の帯。
ルーデン村――地図にも載らぬ最果ての農村だ。
だが、その手前にもう一つ、奇妙な光景があった。
風に乗って微かに香る腐臭。何かが燃え落ちた跡。
近づくと、崩れた石碑が転がっている。王国の紋章だ。
「小規模な神殿の跡……か」
石畳の下には複数の魔法陣の痕。この構築様式は覚えていた。
封印型結界。神聖魔術。つまり、何かを閉じ込める施設だったのだ。
中央に残っていたのは、丸い金属器――すでに黒く煤け、光を失っている。
アレンが指先で触れると、かすかな震えが伝わった。
それは“まだ息のある遺物”だった。
「こんな場所で、放置されているなんて」
表面についた焼き痕には、封印を壊すための衝撃波の痕跡がある。
誰かが意図的に破壊したのだ。
その瞬間、空気が歪んだ。
大地の底から淡い響き――声のようなものが頭に届く。
《……解放……せよ》
そして爆風。
地面が裂け、黒い瘴気が渦を巻いた。
反射的に両腕を広げる。
「聖障壁・昇華展開」
思わず口をついた術式。
光が広がり、瘴気を押し返す。
だが、完全ではない。闇が内側へ侵食してくる。
(……この性質、王都地下の禁忌区画と同じか)
かつて研究していた頃、アレンはこの気配を知っていた。
“神の欠片”。古代の神聖装置の破片から放たれる生体意識。
「……まだ、完全には滅んでなかったんですね」
アレンは右手を左胸に当てる。
心臓の鼓動と呼応するように、体内の魔力が揺れる。
白と黒の波が折り重なり、やがて静かに統一されていく。
光が収まり、次に訪れたのは静寂だった。
封印痕も消え、残されたのはひんやりと冷たい風だけ。
指先を見ると、そこには金色に光る細い欠片が一つ残っていた。
「……形になる前に暴走したのか。それとも、壊されたのか。」
欠片を拾い上げ、掌で包み込む。
その瞬間、掌に焼き印のような文様が走った。
《識別完了――継承者登録》
「……これは、厄介なものを拾いましたね」
ぼやきながら欠片を袋の底に仕舞う。
それはまるで自ら意志を持ってそこに収まったかのようだった。
いや、“従う”というより、“帰る”ように。
◇
日が傾き始めるころ、丘を越えた先に村の灯が見えた。
小さな農村。木柵に囲まれ、煙が上がっている。
家の屋根は低く、子どもたちの笑い声が微かに届く。
(……懐かしい音だ)
かつて彼が王都の孤児院を訪れていたころ、聞いていた音。
命の温度を感じる音。
アレンは深く息を吐いた。
「もう、戦わなくていい。ただ、人としてやり直せばいい。」
だが、追放の烙印は簡単に消えない。
王都の背後では、結界情報を共有する魔導通信が走り、彼の動きを分析し続けていた。
「監察官より報告。北門から出たアレン=クロード、北東方角に転移痕跡」
「辺境の村か。生かしてはおけぬ。追跡部隊を準備しろ」
「殿下、本当に危険です。彼の魔力反応は――」
「黙れ。あの男が再び“神を試した”なら、今度は封じるではなく滅ぼすのみだ」
レオニール王子の声が玉座の間に響く。
誰も反論しない。恐怖が場を支配している。
彼にとって、アレンとは自身の無能を映す鏡であり、存在そのものが許せないのだ。
◇
夜。ルーデン村の入口に足を踏み入れたとき、冷たい風に混じって香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焚き火。そして、人の笑い声。
アレンは門の傍に腰を下ろし、久しぶりに空を見上げた。
星空が眩しいほどに広がり、王都のような濁りがない。
「――辺境というのは、こうも静かなのか」
静寂の中で呟いたその声は、誰に届いたわけでもない。
けれど、それでも心は少しだけ穏やかだった。
やがて、背後から子どもの声がした。
「おじさん、旅の人? 泊まるとこなら村長のとこ、あいてるよ」
「ありがとう。じゃあ、少しだけお世話になろうかな」
その笑顔が、まるで過去の孤児院の子どもたちと重なり、胸の奥に微かな痛みを残した。
(そうだ。俺はもう、“聖魔導師”じゃない。ただの放浪者だ)
心の中でそう呟き、アレンは再び歩き出した。
辺境の村には、彼を知る者もいない。
ただ静かに、名前さえ忘れられるように。
だがその背を見送る夜風は、確かに何かを知っているかのように揺れていた。
見えない神の残響が、遠くで囁く。
《ようやく……見つけた》
アレンはそれに気づかず、ゆっくり振り返る。
静かな夜。村の門が軋む音。
そして、そこに――彼の新しい日々が始まろうとしていた。
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