残雪は露となりて

りあな

第1話

 彼は言った。「婚約を終わらせよう。」 

 私はその言葉に対して、何も返すことが出来ない。 

 気持ちは声にならず、ただ体をめぐって体温の一部になっていくだけ。


 むかしむかし、それはある春の日のできごと。幼かった私に婚約相手が出来た。その彼は、大層な身分のお方。お互いの両親が不安げに見守る中、彼と私が初めて顔を合わせる。当然ながら私は恋とか愛とかそういうのとはだいぶ遠いお年頃で、ただの新しい男の子の友達が出来た、くらいにしか思っていなかった。そして、そのまま月日が経っていった。

 結婚の日まであと一年、というときになっても、私と彼はあの頃と同じ、楽しくお喋りができ、親密な相談ができる仲の良いお友達。その関係は、今も変わることない。ただ、彼が夢中になれる相手ができた、というだけで。


 私は相手の女に嫉妬するはず、なのだけれども。あまりその感情に経験がないからわからないけど、少なくとも怒りならば体が熱くなって、その場で言葉が出てしまうだろう。それとは全く逆に、春だというのに体が冷えていくようで、何を言えばいいのかわからない、行き場のない言葉が頭の中を巡っただけだった。そして、そんな嫉妬も沸いてこないような関係なのだから、まあ、仕方がないかなと思った。

 彼が夢中になったのは、背が高く筋肉質で、男っぽい私とは違った小さくてかわいらしく、女の丸みが目立つ、それはそれは愛らしい童話の主人公のような女だった。

 彼と三人で一度食事をしたとき、私は飾りは少ないが仕立てが良く、身体にあって動きやすい、タイトな服だったけれど、彼女はフリルやレースがたくさんあしらわれていて、私が嫌がる膨らんだスカートを履いていた。その見た目だけで、どういう人物なのかがわかる。そんな彼女はなにが起きるのか、なにを言われてしまうのか、おそらくそんな先のわからなさから、不安げに俯きがちに私を見る。

 その服装、潤みがちな大きな瞳、小動物のような自信がないその態度が作る愛らしさ。それらは、私が持っていない少女のそれ。向かいあった私たちの間には、その差が残酷なほどに浮き出ていた。彼の好みがこれなら、どうしようもないし敵わない、と痛いくらいに感じるほどに。

 なによりも、食事が始まってから、彼らの熱っぽいその口調、秘密めいた視線のやり取り――それが私にとって、いちばん決定的に思えるものだった。


 彼らは、ある日茶会で一緒になったことがきっかけで文通をするようになり、そのあと二人であったときにいい感じになってしまい、そこから恋が始まったそうだ。なぜ私がこんなに詳しいのかというと、本人から申し訳なさそうに、その話をされたからだった。ある意味では非常に誠実で、彼らしいな、とは思う。彼には、まったくもって悪気はないのだ。

 困ったことがあったとき、いつも申し訳なさそうな顔で、ばつが悪そうに私に相談してくる。彼が勉学で詰まったとき、親の話の意図が汲めなかったとき。そして、彼がするべきではない恋をしたとき。決まっていつもそんなふう。私はいつも、そんな彼を助けてしまう。それが自分にとって都合が悪いようなことだったとしても。


 ふつう、婚約前の令嬢というのは身を清らかにして然るべし、だ。婚約するまでになにがあるかわからないし、抑えが効かない人のように思われてしまう。でも、若い男女が二人、それも背徳がスパイスの、燃え上がるような恋をしたとき。そんな古臭い決まりが、どこまで彼らを縛れるというのだろう?

 私も女だからそんなことをするな、と言われているのにも関わらず、剣の稽古を続けている。この筋肉質で骨ばって、妙に背が高い見た目もそれのせいなのかもしれない。でも、私はそれがしたかったのだ。

 昔、小さかった頃に読んだ本で、女騎士が王子の危機に颯爽と現れて魔物を退治し、王子の命を救った英雄譚があった。私はそれにいたく感動して、まさになるべき道のように思ってしまったのだ。彼は争いごとを好まず、どうにも荒事に弱いフシがあって、いつも周りに流されてしまう。遊びだって、私がしたいということをしたし、学問や習い事だって親の言うとおりだ。時折それが本当に嫌で、つい流されてしまったときには、私に相談してきていた。頼られると嬉しくて、私は張り切って彼の問題を解決してあげていた。

 ともかくとして、そんな彼が自分の意思を、自分で貫き通そうというのだ。いつも決めきれない、争いごとを好まない彼が、どう考えても周りに大反対されるどころか下手すれば罰すら受けるようなことを、しようとしているのだ。私はどうするべきか、私はどうしたいのか。それは私が一番知っている。そのはずだった。


 そして、月日は流れた。私は彼の気持ちを何度も聞いたし、彼らが二人でいる姿をみると、どうしようもないということがハッキリとわかる。だから、彼らが上手くいくように、どうしたって祝福されないその道を、どうにかしてそうなるように手を尽くした。彼とは良い友人で、そんな彼が悲惨な人生を、一歩踏み外しただけで送るようになってほしくはない。あの可愛らしい子と、優しい彼が惨めに、その選択を後悔しながら過ごしていることを聞きながら暮らすのは、きっととても悲しいことだろう。私はそう思っていた。いまでも、そうは思っている。


 ここは、私と彼がはじめて顔を合わせた場所。同じように彼の両親も、私の両親も私たちを見守っている。そして、彼は私を見ながら、私が望んでいるはずの言葉を告げた。


 私が自分から選んだ道のはずなのに、なぜだか温かいものが頬を流れて、止まることがない。ずっと、これは私も納得をしたことだし、私は彼らを応援したいと、ずっとそう振舞ってきたのに。ここでこんなふうになってしまったら、それらがすべて台無しになってしまう。でも、それは止まらなかった。


 優しい彼が、柔らかい布で私の顔を拭う。その目は彼女を見る目とは全く違う。同じような温かさ。でもそれはまったく異なった意味合い。そのまなざしに、私の心は溶かされていって、どこかへと流れ去っていく。春に降る雪のように。

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