第2話 荷物はハンマーひとつだけ。あてのない旅へ
地下九十階層の冷たく張り詰めた空気とは打って変わり、地上には暖かな陽光が降り注いでいた。
ダンジョンの出入り口である巨大な洞窟を抜けた瞬間、俺は思わず目を細め、深く息を吸い込んだ。
土の匂い、草の香り、そしてどこまでも広がる青い空。
勇者パーティにいた頃は、ダンジョン攻略のスケジュールに追われ、地上に戻ってもすぐに次の遠征準備や装備のメンテナンスで工房に籠りきりだった。
こんな風に、何の目的もなく空を見上げるのは、一体何年ぶりだろうか。
「……自由だ」
口に出してみると、その言葉は予想以上に俺の胸に沁みた。
追放されたという事実よりも、これからの自由な生活への期待の方が、今は遥かに大きい。
俺は背負い袋の位置を直し、街道へと足を踏み出した。
所持金は、袋の底に入っているわずかな銀貨のみ。
宿に泊まれば数日で尽きてしまう額だ。
だが、不安はなかった。
腰には、ダンジョンで拾って修理した短剣がある。それに、俺にはこの【修理】スキルがある。
野宿に必要なテントが破れていても直せるし、靴底が擦り減っても新品に戻せる。食料さえなんとかなれば、旅を続けることは難しくないはずだ。
「さて、まずは東へ向かうか」
当てがあるわけではない。ただ、王都がある西とは逆方向に行きたかっただけだ。
勇者ブレイドたちの名声が轟く王都周辺では、どうしても彼らの噂が耳に入ってくるだろうし、万が一再会でもしたら面倒だ。
辺境、それも「世界の果て」と呼ばれるような場所なら、静かに暮らせるだろう。
街道を歩き始めて数時間。
俺は自身の身体にある異変を感じていた。
本来なら、地下深層から地上までノンストップで歩き通せば、足腰に疲労が溜まり、筋肉痛に襲われるはずだ。
しかし、今の俺は、朝起きた直後のように身体が軽い。
「もしかして……」
俺は道端の木陰に座り込み、自分の身体に手を当ててみた。
意識を集中し、【修理】スキルを発動させるイメージを持つ。
すると、身体の内部の様子が、まるで設計図を見るように頭の中に浮かび上がってきた。
筋肉繊維の微細な断裂、乳酸の蓄積、関節の摩耗。
それらは「生物としての損傷」であり、俺のスキルにとっては「故障」と同義だった。
「やっぱりだ。自分自身の身体も『修理』できる」
俺は試しに、少しだけ溜まっていた足の疲労を対象にスキルを発動した。
淡い光がふくらはぎを包み込む。
心地よい温かさと共に、鉛のように重かった足が、羽が生えたように軽くなった。
それだけではない。
先日の戦闘(俺は後方で隠れていただけだが)で負った擦り傷や、長年の鍛冶仕事で凝り固まっていた肩こりまでもが、綺麗さっぱり消え去っていた。
「……これ、回復魔法より便利なんじゃないか?」
回復魔法は傷を癒やすが、疲労や肩こりといった「状態」までは治せないことが多い。
だが俺の【修理】は、身体を「ベストな状態」へと巻き戻すことができる。
これなら、野宿続きの旅でも体調を崩すことはないだろう。
俺は改めて、このスキルの異常性を噛み締めた。
勇者ブレイドたちは、俺を「ただ物を直すだけの雑用係」と断じたが、その認識は大間違いだったのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、前方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「あぁ、もう! どうなってるんだい! こんなところで止まっちまって!」
「旦那様、無理ですよ。車軸が完全にイカれてます。これじゃあ一歩も動けません」
街道の真ん中で、一台の馬車が立ち往生していた。
荷台には木箱が山積みになっており、商人の馬車らしい。
立派な馬が二頭繋がれているが、馬車の右後輪が妙な角度で傾き、地面にめり込んでいた。
身なりの良い太った商人が、御者らしき若い男を怒鳴りつけている。
「次の街まであと少しなんだぞ! 商品の納入期限は今日なんだ! 遅れたら違約金が発生するんだぞ!」
「そう言われましても……この亀裂を見てくださいよ。もう折れる寸前です。無理に動かせば車輪ごと外れて、荷台がひっくり返ります」
「ええい、予備の車輪はないのか!?」
「先月の賊に襲われた時に使い切っちまいましたよ。通りがかりの馬車に助けを求めるしか……」
「こんなド田舎の街道、一日に何台通ると思ってるんだ!」
頭を抱える商人。途方に暮れる御者。
俺は少し迷ったが、声をかけることにした。
困っている人を見過ごすのは寝覚めが悪いし、あわよくば報酬や情報を貰えるかもしれない。
「あの、何か困ってますか?」
俺が近づくと、商人は藁にもすがるような顔で振り返った。
だが、俺の粗末な旅装束と、背中の大きなハンマーを見ると、すぐに落胆の色を浮かべた。
「なんだ、ただの冒険者か……。見ての通りだよ。車軸がヒビ割れて動けんのだ。お前さん、力持ちなら、荷物を運ぶのを手伝ってくれんか? 駄賃くらいはやろう」
「荷運びなら手伝えますけど、その前に車軸を見てみましょうか? 俺、修理屋なんです」
「修理屋?」
商人は胡乱げな目で俺を見た。
無理もない。こんな街道のど真ん中に修理屋がいるなど、都合が良すぎる話だ。
「どうせ釘を打ち込むくらいしかできんのだろう? この車軸は特殊な合金製でな、専門のドワーフ職人じゃなきゃ直せ……」
「失礼します」
俺は商人の言葉が終わるのを待たずに、馬車の下に潜り込んだ。
なるほど、これは酷い。
長年の酷使と過積載によって、車軸の中心部に深い亀裂が入っている。金属疲労の限界を超えていたようだ。
それに、サスペンション代わりの板バネも錆びついて機能していない。これでは振動が直に伝わり、車軸に負担がかかるのも当然だ。
「……ふむ。直せますね」
「はあ? 何を言ってるんだ。これは鍛冶場も火もないところで直せるような代物じゃ……」
「いいから、少し離れていてください」
俺は背中のハンマーを抜き放った。
商人と御者が「おい、何をする気だ!」と慌てるのを無視して、俺は車軸に手を添える。
イメージするのは、単なる復元ではない。
この重い荷物を支え、悪路でもスムーズに走れる「最強の車軸」だ。
スキル発動、【修理】。
カァン!
ハンマーを振るうと、甲高い音が響き渡った。
商人の悲鳴が聞こえた気がしたが、構わず続ける。
一打ごとに、亀裂が埋まり、錆が落ちていく。
金属の分子配列を組み替え、強度を増していく。
さらに、ただ直すだけでは芸がない。
俺は少し遊び心を加えることにした。
この馬車、荷物が重すぎて馬への負担が大きい。
なら、車軸自体に「重量軽減」の構造的魔術回路を刻み込んでやろう。
魔法付与(エンチャント)ではない。物理的な構造によって魔力を循環させ、重力を逃がす高等技術だ。以前、勇者の鎧を軽量化した時に使った手法の応用である。
ついでに、板バネの弾力性も強化して、乗り心地も改善しておこう。
カァン、カァン、カァン!
リズミカルな音が数回響いた後、まばゆい光が収束した。
そこには、まるで鏡のようにピカピカに磨き上げられた車軸が鎮座していた。
歪んでいた車輪も真円に戻り、錆びついていた金属パーツは全て新品同様、いや、それ以上の輝きを放っている。
「よっと。終わりましたよ」
俺が馬車の下から這い出すと、商人と御者は口をあんぐりと開けて固まっていた。
「な、な、な……」
「ど、どうなってるんですかい……?」
御者が恐る恐る車輪に触れる。
軽く押しただけで、車輪は音もなく滑らかに回転した。
以前のような、ギシギシというきしみ音は皆無だ。
「車軸の亀裂は完全に塞ぎました。強度も三倍くらいにしておいたので、ドラゴンに踏まれない限りは折れませんよ。あと、サスペンションも調整しておきました」
「ば、馬鹿な……。魔法使い様でも、こんな芸当は……」
商人は脂汗を拭いながら、信じられないものを見る目で俺を見た。
そして、恐る恐る馬車に足をかけた瞬間、さらに驚愕することになる。
「か、軽い!? 荷台があんなに沈み込んでいたのに、私が乗っても揺れもしない!」
「重量を分散させるように構造を少し変えましたから。馬も楽になるはずですよ」
案の定、二頭の馬も「あれ? 重くない?」とでも言いたげに、軽やかに嘶いている。
商人は震える手で俺の手を握りしめた。
「お前さん、一体何者だ!? どこの国属の宮廷鍛冶師だ!?」
「いえ、ただの通りすがりの修理屋です。名前はルークと言います」
「ルーク殿! いや、ルーク先生! 感謝してもしきれん! これなら期日どころか、予定より早く着ける!」
商人は懐から革袋を取り出し、じゃらじゃらと金貨を数枚、俺の手に押し付けた。
「と、取っておいてくれ! 本来ならこれの十倍は払わなきゃならん仕事だ!」
「いや、そんなに貰えませんよ。俺はただ、叩いただけですし」
「いいから! 私の気が済まんのだ! ……そうだ、ルーク先生。これからどちらへ?」
「東へ。特に目的地はないんですが、静かな場所を探してまして」
「ほう、東か。なら、この馬車に乗っていくといい。次の宿場町まで送らせてくれ」
ありがたい申し出だ。俺は遠慮なく同乗させてもらうことにした。
馬車が走り出すと、その快適さに商人がまた叫び声を上げた。
石畳の凹凸をまるで感じさせない、滑るような走行。
俺が施した「物理的サスペンション強化」の効果だ。
「すごい……まるで雲の上を走っているようだ。これなら、卵を運んでも割れんぞ!」
興奮する商人の名前は、ハンザといった。
手広く交易を行っているやり手の商人らしい。
道中、ハンザは俺の技術を絶賛し続け、「うちの専属にならないか」と熱烈に勧誘してきたが、俺は丁重に断った。
今はまだ、特定の組織に縛られたくない。
「そうですか、残念だなぁ。……おっと、静かな場所をお探しでしたな」
「ええ。あまり人が来なくて、のんびりできるような場所がいいですね」
「ふむ……それなら、『グリーンホロウ』なんてどうですかな?」
「グリーンホロウ?」
聞き慣れない地名だ。
ハンザは地図を広げ、東の端、山脈の麓にある小さな点を指差した。
「ここです。かつては宿場町として栄えていたんですがね。数年前に近くの街道が変更されてから、すっかり寂れてしまいまして。今は老人たちが細々と暮らすだけの限界集落になりかけているそうです」
「限界集落……」
「ええ。ですが、土地は豊かで水も綺麗だとか。何より、ここなら滅多に外の人間は来ません。世捨て人のような暮らしを望むなら、うってつけでしょう」
地図上のその村は、主要な街道からも外れ、森と山に囲まれた僻地にあった。
勇者パーティの追っ手や、王都の喧騒とは無縁の場所。
俺が求めていた条件に合致する。
「いいですね。そこ、行ってみようかな」
「はは、物好きな。でも、ルーク先生の腕があれば、どんな不便な場所でも快適に暮らせるでしょうな」
ハンザの言葉に、俺は苦笑した。
確かに、家がボロければ直せばいいし、道具がなければ作ればいい。
俺にはこのハンマーがある。
数時間後、宿場町に到着した俺は、ハンザと別れた。
彼は最後まで俺の名残惜しそうにしていたが、「また縁があったら」と言って手を振った。
手に入れた金貨は、当面の生活費としては十分すぎる額だ。
俺は宿場町で一泊し、翌朝、グリーンホロウへ向かう乗合馬車を探した。
だが、そんな僻地へ行く定期便などなく、結局、地元の農家のおじさんが荷運びのついでに乗せていってくれることになった。
揺れる荷台の上で、俺は流れる景色を眺める。
次第に建物は減り、緑が深くなっていく。
都会の喧騒が遠ざかり、鳥のさえずりと風の音だけが支配する世界へ。
不安がないと言えば嘘になる。
本当にそこでやっていけるのか。
修理屋なんて商売が成り立つのか。
だが、それ以上にワクワクしていた。
誰も俺を知らない場所。
「勇者パーティの落ちこぼれ」というレッテルも、「役立たずの生産職」という罵倒もない場所。
そこでなら、俺は俺自身の価値を証明できるかもしれない。
いや、誰かに証明する必要なんてないんだ。
俺が、俺らしく生きられれば、それでいい。
ポケットの中で、相棒のハンマーをぎゅっと握りしめる。
冷たい鉄の感触が、俺に勇気をくれた。
「待ってろよ、グリーンホロウ」
俺の第二の人生の舞台。
そこがどんな場所であれ、俺の手で最高の居場所へ『修理』してやるつもりだ。
一方その頃。
俺が修理した馬車が走り去った街道のさらに西。
王都へ向かう一台の豪奢な馬車があった。
勇者ブレイドたちが乗る、王家御用達の特別仕様車だ。
だが、車内はお通夜のように静まり返っていた。
「……おい、まだ着かないのか。揺れが酷くて酔いそうだ」
ブレイドが不機嫌そうに呟く。
御者台からは、困惑した声が返ってきた。
「申し訳ありません、勇者様! ですが、先ほどから車輪の調子がおかしくて……。昨日整備したばかりのはずなんですが」
「チッ、整備士は何をやっているんだ。ルークがいた頃は、こんなこと一度もなかったぞ」
無意識に出た言葉に、車内の空気が凍りつく。
賢者ソフィアが、忌々しそうに眼鏡を押し上げた。
「ブレイド、その名前を出さないでください。不愉快です。たまたま整備のタイミングが悪かっただけでしょう」
「分かっている! だが……なんだ、この座り心地の悪さは。鎧の背中が当たって痛いんだよ」
「私のローブも、なんだか糸がほつれてきましたわ……。最高級の絹なのに」
聖女アリアも不満げに袖口を見つめている。
彼らはまだ気づいていない。
彼らの装備も、馬車も、全ての道具が「ルークによる常時最適化」という魔法のような恩恵を失い、急速に「ただの物」へと劣化し始めていることに。
ガタンッ!
突然、馬車が大きく跳ねた。
車輪の一つが石に乗り上げ、その衝撃を吸収しきれずに車軸にヒビが入った音だった。
だが、それを直せる職人は、もうここにはいない。
俺はそんなことも知らず、遠く東の空の下、のんびりと揺られていた。
目指す新天地まで、あと少しだ。
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