神の座を降りた元・龍神は、田舎神社で巫女を守る。~痛みのない楽園より、泥だらけの日常を~

夜桜 灯

第1部【日常編】幸福な招待状と予兆

第1話 神の宿り木、騒がしい冬

 神などというものは、本来もっと孤独で、静かであるべきだ。

 少なくとも、私が数千年の時を過ごしてきた記憶の中では、そうだった。


 天坂市あまざかし天霧あまぎり山の中腹。

 三千段近い石段を登りきった先に鎮座するこの古社――天霧神社は、現代日本において奇跡的なほど濃い霊脈の結節点である。

 下界の喧騒を拒絶するように、雪深い十二月の夜気は肌を刺すように鋭い。


 しん、と静まり返った境内。

 樹齢数百年を数える杉の巨木たちが、白い綿帽子を被り、参道を見下ろしている。  吐く息は白く、掃き清められた石畳にはひとひらの落ち葉すらない。


 これだ。この静けさこそが、長命種である私に必要な「休息」というやつだ。

 私はほう、と一つ、白い息を吐き出し、社務所の縁側で熱い湯呑みを傾けた。

 中身は極上の玉露。淹れたのは、この神社の神主である惣一郎だ。


「……ふむ」


 悪くない。

 人間という種族は総じて騒がしく、短命ゆえに生き急ぐ傾向があるが、茶を淹れる技術と、炬燵こたつという発明品に関してだけは、我々竜種の叡智をも凌駕していると認めよう。


 私は龍(りゅう)。

 姓はない。ただの龍だ。

 かつては大陸の山脈一つを寝床にし、数百年単位でまどろんでいた「竜」の生き残り。

 わけあって本来の巨躯を捨て、人間の、それも三十路手前の冴えない男の姿を模して、この神社に居候を決め込んでいる。

 名目上の肩書きは「神社の雑用係兼、警備員」。

 実態は、この土地の霊脈を観測し、世界の均衡をなんとなく眺めるだけの「神(仮)」である。


 ズズ、と茶をすする。

 平和だ。世界が滅ぶだの、魔王がどうだのという話は、この茶の前では些末なことに思える。

 あと三百年くらいは、こうして縁側で雪見酒ならぬ雪見茶を――。


「――肉だ! 肉が足りねえぞ美咲ィ! 俺の胃袋をナメてんのか!」


 ドォン! と床を踏み鳴らす振動が響いた。

 物理的な揺れと共に、私の静寂には派手な亀裂が入った。


「もう、イグニス君! 声が大きいよぉ……。お鍋の具材は他にまだあるでしょ? 自分のお肉はもう食べたじゃない」

「あんなペラい肉で俺の『コア』が暖まるかよ! 豚バラを追加だ! あと白菜はいらねえ、燃やすぞ!」

「ダメだってば。神社の家計はカツカツなんだから。……はぁ、龍さーん! そろそろ来てくださいよぉ。私じゃこの子、止められません……」


 私は深く、長く、地球の裏側まで届きそうなため息をついた。

 湯呑みの中の水面に、情けない波紋が広がる。


「……騒がしい」


 前言撤回。

 神の居場所というのは、いつの間にやら動物園の檻の中と変わらなくなってしまったらしい。


          *


「龍の字、早よせんと肉なくなるでー」


 居間に入ると、そこは戦場だった。

 湯気の向こうで、顔を赤らめた美女――この神社の主である稲荷神のウカや、銀髪の騎士シルヴィアたちが酒盛りをしているが、今の主戦場はそこではない。


 部屋の中央、カセットコンロの前で睨み合う二つの影だ。


 一人は、逆立った赤い髪と、意志の強そうな瞳を持つ少年。

 炎竜王、イグニス。

 異界から転移してきた正真正銘の竜王だが、現在は人間の高校生の肉体に押し込められ、あろうことか赤ジャージ姿で箸を構えている。


 対するは、おたまを片手に困った顔をしている少女。

 天霧神社の巫女、美咲(みさき)。

 一七歳。艶やかな黒髪を後ろで束ね、学校の制服の上に割烹着を着ている。

 彼女は、腹を空かせた猛獣を前にしても動じることはないが、どう扱ったものかと途方に暮れている様子だ。


「いい? イグニス君。いくら食べ盛りでも限度があるよ。それに、みんなで食べるお鍋なんだから仲良くしなきゃ」

「はんっ! 知ったことか! 弱肉強食、早い者勝ちが竜の掟だ。さあ肉をよこせ、さもなくば……」


「――おい」


 私は短く声をかけ、入り口の鴨居に手をかけた。

 それだけで十分だった。


 ピタリ、とイグニスの動きが止まる。

 逆立っていた髪の毛が、心なしかシュンと萎んだように見えた。

 彼は私の顔を見ると、バツが悪そうに舌打ちをし、持っていた箸を大人しく下ろした。


「……チッ。大将、ようやくお出ましか」


 私が障子を開けて中に入ると、イグニスは悪態をつきながらも居住まいを正した。  彼はただの不良少年ではない。竜王だ。

だからこそ、本能レベルで理解している。

目の前にいる「冴えない男」が、かつて異界においてどのような存在であり、どれほど「質の悪い」捕食者であったかを。


「イグニス。美咲を困らせるなと言ったはずだが?」

「……腹が減っただけだ。文句はねえよ」


 不貞腐れた態度だが、そこには明確な「わきまえ」があった。

彼は私が席に着くまで、決して鍋に箸を伸ばそうとはしない。


「あ、龍さん。体、冷えませんでしたか?」


 私に気づくと、美咲は困り顔を解き、ふわりと笑った。

 年相応の、あどけない笑顔だ。

 この笑顔に、この神社の空気はどれだけ救われていることか。


「ああ、ただいま。……イグニスがすまないな」

「ううん、いいんです。元気なのはいいことですから。……はい、龍さんの分」


 美咲は小皿に避けておいた霜降り肉を、私の前にそっと差し出した。


「イグニス君に食べられないように、確保しておいたんです」

「感謝する。……やはりお前が一番の女神だな」

「ふふ、お父さんも楽しそうだし、いいじゃないですか」


 部屋の隅、上座の位置で、神主の惣一郎がニコニコと眼鏡を曇らせている。

 私はやれやれと肩をすくめ、指定席である炬燵の一角に潜り込んだ。


 異界から弾き出された竜王。それを世話する女子高生。見守る神と人間。

 奇妙な共同体。かりそめの家族。

 だが、その温もりは――。


 チリン、と。

 誰もいないはずの拝殿の方角で、鈴の音が鳴った。

 風ではない。空間そのものが軋み、位相がズレた時に生じる、境界の摩擦音だ。


「――ッ」


 箸を伸ばしかけた手が止まる。

 私だけではない。イグニスが、獣のような瞳孔を開いて鍋から顔を上げた。

 その顔から、少年の幼さは消え失せ、戦士の緊張が張り詰める。


「龍さん?」


 美咲だけが、一拍遅れて異変に気づく。彼女の霊感アンテナは優秀だが、今回は「音」ではなかったからだ。


「……来たな」


 私は短く呟き、立ち上がる。

 日常の温度は、唐突に剥ぎ取られた。


「美咲、お父さんを連れて奥の座敷へ。結界の中なら安全だ」

「え、でも……!」

「行け。――仕事の時間だ」


 私の言葉が終わるより早く、イグニスが立ち上がり、窓を開け放った。


「一番乗りだ。……大将、残飯処理くらい俺にやらせろよ」

「好きにしろ。ただし、庭木は燃やすな」

「ヘッ、善処するぜェ!」


 イグニスが窓枠を蹴って闇夜へ飛び出す。

 私は最後に美咲を一瞥する。

 彼女は不安そうに、けれどしっかりと頷き、惣一郎を促して部屋を出て行った。

 背中で眠らせる安心感。それが、私に求められる「強さ」の定義だ。


「さて」

 私は愛用のカシミヤのマフラーを巻き直し、雪の舞う庭へと踏み出した。


          *


 神社の境内は、異様な光景に変貌していた。

 鳥居の向こう側。本来なら石段と市街地の夜景が見えるはずの場所に、赤黒い「亀裂」が走っている。

 その裂け目から、どろりとした闇が垂れ流され、雪を汚していく。


「ギャオオオオオオオッ!」


 咆哮と共に這い出してきたのは、巨大な泥の塊のような異界獣だった。

 形は不定形。だが、そこかしこに獣の牙や、昆虫の脚のような部位が見え隠れする。

 体長は五メートルほどか。

 物理的な質量よりも、周囲の霊脈を汚染しながら存在を保っている点が厄介だ。


「汚ねェツラしてやがんなァ! 飯の味が落ちるだろうが!」


 先行したイグニスが、雪を踏みしめて跳躍する。

 その拳に、爆発的な紅蓮の炎が纏わりついた。

 竜王の炎。それは触れるもの全てを灰燼に帰す、純粋な破壊の権化。


「消し飛びなァ!」


 ドォォォン!

 イグニスの拳が異界獣の横っ面に直撃する。

 夜の闇を真昼のように照らす閃光。異界獣の上半身が瞬時に蒸発し、嫌な焦げ臭さが充満した。


「はっ! 雑魚が! 一発かよ!」


 着地し、黒い煙を見下ろすイグニス。

 だが、私は冷静にその「燃えカス」を見ていた。


「……甘いぞ、イグニス。下がれ」

「あァ?」


 私の警告と同時だった。

 蒸発したはずの異界獣の肉体が、まるでビデオの巻き戻しのように、黒い泥を集めて再構築されていく。

 それどころか、イグニスの炎の熱エネルギーを吸収し、その体積をさらに増して膨れ上がった。


「なっ……再生しやがった!? しかもデカくなってやがる!」


 イグニスが咄嗟にバックステップで距離を取る。

 彼は馬鹿ではない。自分の攻撃が通用しないどころか、糧にされたことを瞬時に悟ったのだ。


「物理干渉じゃない。あれは『概念』に近い。こちらの攻撃を『糧』として定義しているタイプだ」


 私の言葉に、イグニスが顔をしかめる。

「チッ……相性最悪かよ。俺の炎じゃ、焼けば焼くほどエサやるだけってか」

「そうだ。お前の火力では境内の結界ごと焼き払うことになる」


 イグニスは拳の炎を消し、不愉快そうに鼻を鳴らした。

 自分の手に余る相手だ。プライドの高い彼にとって屈辱だろうが、彼は無駄な足掻きはしない。

 私という「解決策」がここにいる以上、道を譲るのが群れの序列だ。


「……チッ。わかったよ、大将。任せる」

「ああ。少し、風を入れる」


 私はイグニスの前に出る。

 右手を上げる。指先を、軽く弾く(スナップ)。


 パチン。


 乾いた音が、戦場の喧騒を切り裂いた。

 瞬間、世界の色が変わる。


 ゴオオオオオオオオオッ!


 突風。

 いや、それはただの風ではない。

 天霧山という巨大な山脈、その地下深くを流れる「霊脈」そのものを、ポンプのように汲み上げ、噴出させた奔流だ。


 私は、魔法使いではない。

 竜とは、この星の血管を流れるエネルギーの「観測者」であり、「循環者」だ。

 祈りも、呪いも、願いも、すべては流れの中にあり、滞るからこそ歪みが生まれる。

 ならば、流せばいい。


「――還れ」


 私の意思コマンドに呼応し、風が渦を巻く。

 異界獣の泥も、周囲の穢れも、すべてを巻き込み、一つの巨大な「循環」となって上空へ吹き上げる。

 燃やし尽くすのではなく、ただ、在るべき場所へ押し流す。


 異界獣が、悲鳴を上げる間もなく霧散した。

 構成していた泥が、風に洗われてただの塵へと還っていく。

 同時に、空の亀裂にも風が吹き込み、内側から縫い合わせるように閉じていく。


 数秒後。

 そこには、静寂な冬の夜だけが残っていた。


「……ふぅ」


 私は息を吐き、乱れた髪をかき上げる。

 指先が少し痺れている。これだけの規模の干渉は、やはり骨が折れる。人間体(このからだ)では出力制限がきつい。


「……化け物め」


 背後で、イグニスが小さく呟いたのが聞こえた。

 それは恐怖とも、呆れとも取れる声だった。

 同じ「竜」の名を冠していても、見ていることわりが違う。その格差をまざまざと見せつけられ、彼は面白くなさそうに、しかし安堵したように息を吐いた。


「ただの掃除だ。……怪我はないか?」

「へっ、あるわけねえだろ。……悪かったな、手ぇ煩わせてよ」


 素直ではないが、それが彼なりの礼なのだろう。

 私は空を見上げた。亀裂は消えた。

 だが、違和感は消えない。

 空気が、澱んでいる。この天坂市という土地全体を覆う霊脈が、微かに、しかし確実に軋んでいるのだ。


 社務所の方から、バタバタと足音が近づいてくる。美咲だ。


「龍さん! イグニス君! 大丈夫!?」

「ああ、片付いたよ。心配ない」


 私は努めていつもの調子で答えた。

 美咲はほっと胸をなでおろし、それから思い出したように言った。


「よかった……。あ、そうだ龍さん。さっき、お兄ちゃんから電話があったの」

「兄君から?」

「うん。今度の連休に帰ってくるって。それとね……」


 美咲は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに告げた。


「結婚、するんだって。その報告も兼ねて、式場の下見に来るみたい」


 ――ドクリ。


 私の心臓が、嫌な音を立てた。

 結婚式。人生で最も華やかな儀式。

 多くの人々が集い、祝福という名の膨大な「祈り」が捧げられる場。


 もし、敵の狙いがこの土地の霊脈をこじ開けることだとしたら。

 そのための「鍵」として、最も効率的なエネルギー源は何か。


 雪が、強くなってきた。

 門が、軋んでいる。

 この町の日常は、もう、ひび割れ始めているのだ。


「……そうか。それは、めでたいな」


 私は嘘にならない範囲で、精一杯の祝福を口にした。




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次回、明日の21:15頃更新予定です。

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神の座を降りた元・龍神は、田舎神社で巫女を守る。~痛みのない楽園より、泥だらけの日常を~ 夜桜 灯 @yozakura_tomoshi

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