7送球の主将

一週間後。俺は学校の体育館で汗を流している。


体育館の床は、ワックスの膜の下に夏の湿気をため込んでいて、踏み込むたびに靴底がきゅっと鳴る。足首が返る。膝が沈む。息が跳ねる。

天井の高い空間に、ボールの弾む音と、シューズの擦れる音と、誰かの「ナイス!」がぶつかって、ぐるぐる回って、最後に自分の耳に戻ってくる。


ここでは音が逃げない。俺たちの熱も、弱さも、全部、反響して残る。


ハンドボール。

日本ではマイナーだがヨーロッパでは有名なスポーツだ。

日本では競技人口の7割が学生――なんて、少し寂しい数字もあるらしい。

でも正直、数字で俺の汗は減らないし、走った分だけ世界は静かになる。余計なことはどうでもいい。俺がやるのは、投げることと、守ること、そして勝つことだ。


覚えてないと思うが、俺が妹に「お兄ちゃん、部活何したらいいと思う?」と聞いた時、妹は【ハンドボールが良い。】と手話でサインした。


そこから俺のハンドボール人生はスタートしている。


そうだな。妹が手話をしてる理由は。喉に障害がある。簡単に言うと、声帯がない。

声が出ないというより、最初から「その機能がない」って感じだ。

それが原因で感染症になりやすかったり、痰が肺に入ってしまったり――体の中のちょっとした“ズレ”が、命取りになり得る。

俺が何気なく吸って吐いてる呼吸が、妹にとっては毎日が確認作業みたいなものだ。


だから今は近くの総合支援学校に通ってる。


来期から、短期で氷見の学校に登校するみたいだけど、籍は支援学校のままだ。

万が一の事を考えると当然だな。

「普通」って言葉の裏側に、妹はいつも保険とルートを用意されている。

俺はその現実を知ってる。知ってるからこそ――妹が「応援に行く」って言った時の重みが違う。


その日が近いと思うと、胸の奥が妙に熱くなる。

練習の最後の一本、シュートを打つ瞬間、俺はいつもよりも力を込める。

ボールが手から離れる。空気を裂く。ゴールネットが鳴る。

音が気持ちいい。ここにいる理由が、全部そこに詰まってる。


「葵ー。今日はここら辺で終わらせるか。全員読んでこい。」


監督の声が、体育館の熱を切り分けた。

俺は反射で「はいっ!」と返事をして、汗で重いユニフォームを引っ張る。

汗は冷える。冷えると身体が現実に戻る。

練習が終わるってことは、次の現実が始まるってことだ。


俺たちは一旦部室に集まり、最後のミーティングをする。

狭い部屋に、濡れたタオルの匂いと、制汗スプレーの香りと、床に落ちたロッカーの金属臭が混ざる。

誰かが水筒を置く音。キャップを回す音。氷がカランと鳴る。

そのどれもが、やけに大きい。妙に、心拍に近い。


「よし。お疲れみんな。みんなわかってると思うが、3年の受験組が引退してからまだ2年のキャプテンが決まっていない。そんで今日ここで発表しようと思う。」


来たか。

俺は、内側で一回だけ頷く。

準備はできてる――そう思うようにしていた。


なんせ俺は今年の国体の富山代表選抜チームに選ばれている。

冰渼ノ江高校が大半だが、俺はあの最強の冰渼ノ江高校の中に入ってプレーするんだ。

うちの高校はその冰渼ノ江高校に負けて、夏の大会はもう終わってしまった。

でも俺の戦いはまだ終わっちゃいねぇ。

夏が終わっても、俺の中の火は残る。というか、残さないといけない。


そして何より。今年は妹が応援に来るんだ。

あいつの視線って、甘くない。

手話で「すごい」って褒める時でも、目だけは「本当に?」って言う。

だから俺は、その目に恥じない場所に立たないといけない。


絶対にレギュラーにならないといけない。

そのためにはキャプテンという箔も必要だ。

――箔、なんて言葉で誤魔化してるけど、要は「俺は中心にいる」って証明が欲しかった。

俺が正しい努力をしてきたって、形で残したかった。


「2年。並びに高岡伏木高校キャプテンは……」


空気が一段、静かになる。

汗の匂いが急に濃くなる。

誰かが息を飲む音がした気がする。

俺は背筋を伸ばす。

クールに返事すりゃいい。咳払いくらいはしておこう。ゴホンッ。

喉の奥が少し痛い。練習で叫びすぎたのかもしれない。

でも今は、喉の調子なんてどうでもいい。名前が呼ばれることがすべてだ。


「岩瀬。」



……え?



言葉が耳に入るのに、意味が入ってこない。

「岩瀬」という音だけが、床に落ちて転がっていくみたいに聞こえた。

視界が、ほんの少しだけ狭くなる。

部室の壁の色が、突然薄くなる。


「ハイっ!」


岩瀬は大きく返事をして、部員35人の前に立つ。

あいつの返事は、まっすぐで、軽くて、誰も否定できない正しさがあった。

そういう声だ。

俺が頑張って出してきた声と、種類が違う。


「お疲れ様です!キャプテンに指名されて、正直、身が引き締まる思いです。

でも――俺は分かっています。今までの俺たちは、胸を張って“強い”って言えるチームじゃなかった。

それでも、先日の先輩たちの冰渼ノ江高校との試合を見て、鳥肌が立ちました。

あそこまでやれるんだって、証明された。

俺たちも、あの場所に立てる。あの強さに届く。

『妥当・冰渼ノ江』なんて言葉じゃ足りない。

全国を目指そう。

俺たちは進学校だ。でも、だから何だ。

勉強も、部活も、どっちも本気でやる。

文武両道――俺たちが“本物”だって、見せつけよう!」


「「「オウっ!」」」


掛け声が上がる。

その瞬間、俺は自分が“掛け声を出していない”ことに気づく。

口は動いているのに、音が出ていない。

いや、出てるのかもしれない。

でも誰にも届かない音だった。


そうか。


負けたか。


うん。


仕方ねえわ。


――って、思いたい。

思いたいのに、胸の真ん中が地味に痛い。派手じゃない。泣くほどじゃない。

でも確実に、そこにある。

骨じゃなくて、筋みたいなところが、引っ張られる痛み。


正直、何が劣ってるのかはわからねぇ。

成績も。部活の実績も。負けてねぇ気がする。

声だっていつも俺の方が出してる。気がする。

体育館のモップ掛けも、俺がいつも最初にスタートするんだ。

朝練や休日練習はいつも俺が1番にコートにいる。

だからこうやって、俺のポケットには今も部室の鍵があるんだ。


――鍵があるのに。

中心にいる気がしてたのに。

俺は“便利なやつ”だっただけか?

最初に来るやつ。最後まで残るやつ。雑用を抱えるやつ。

それを「信頼」って呼びたかっただけか?


それにこいつらとも仲良くやってるつもりだった。

冗談も言う。ふざける。試合前は肩を叩き合う。

勝ったら笑う。負けたら悔しがる。

――それを全部ひっくるめて、俺はチームだと思っていた。


うん。


わかんねぇけど。


認めるしかねぇな。


俺は口の中を一度噛む。

鉄みたいな味がした気がして、舌で確認しようとしてやめた。

そんなことをしたら、本当に泣きそうになる。


応援しよう。岩瀬を。


そうだ。

俺はキャプテンじゃなくても、国体の代表には入ってる。

妹は、それを観に来る。

俺が見せるべきものは、肩書きじゃない。

ボールを投げる腕と、最後まで走る足と、負けても折れない背中だ。


――だから。

今日の負けは、今日の負けだ。

次は、コートの上で勝つ。


俺は、拳を握って、ゆっくりほどいた。

ポケットの中の鍵が、金属の冷たさで現実を思い出させる。

冷たいのに、俺はまだ熱い。

まだ終われない。

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