6馬鹿が揃う
リビングに行くと、小太郎がお出迎えだ。
いや、お出迎えって言うと聞こえはいいが、あいつのそれは「帰ってきた?」じゃなくて「侵入者?」の方に近い。
床は夏の湿気を少しだけ吸って、素足だとほんのり冷たい。
エアコンの風が廊下の奥から流れてきて、外の熱が皮膚から剥がれていく感じがする。
リビングの空気は、ほうじ茶の香りと、どこか甘い匂いが混ざっていた。母さん、もう茶の準備してるな。
そこに――小太郎。
こいつは俺の愛する家族の一人。匹じゃない。
家族だ。むしろ人間より気難しい。
毛並みは今日もツヤツヤで、背中の毛が光を弾いてる。丸い目だけがやけに冷たい。
尻尾の先が、ピク、ピク、と小さく跳ねる。
警戒の合図だ。
そして、俺を見るなり。
「シャーっ!」
……こんなふうに。
「ねぇ。葵。あんた猫に嫌われてない?大丈夫?」
楓が、俺の横から小太郎を見て言う。
声が少しだけ硬い。猫って、初手で威嚇されたら怖いよな。分かる。爪あるし。
「大丈夫だよ。手、伸ばしてみ?」
俺は平然を装って言う。
装ってるだけだ。内心はもう、胸の真ん中が地味に痛い。
「いや…無理でしょ。」
「いいから。怪我したらなんでも言うこと聞く。」
この言い方、俺の人生で一番軽率かもしれない。
「絶対だなっ!」
楓が食いついた。目がキラッとした。怖がってたくせに。
そして楓は、恐る恐る手を小太郎に差し伸べる。
指先を丸めて、ゆっくり。ゆっくり。猫の鼻先に当てるみたいに。
俺は息を止める。
小太郎の機嫌で、この家の空気が決まる。
――と思ったら。
「ナーン。ナーン。ゴロゴロ」
小太郎は一瞬で顔を柔らかくして、頬を楓の指に擦り付けた。
喉が鳴るゴロゴロ音が、嘘みたいに大きい。
そう。うちの猫は俺以外には甘えるのだ。
俺が可愛がってるのに。
飯も。病院も。トイレの処理も。爪切りも。
歯磨きだって毎日してる。
耳垢や目やにだって、発生させたことねぇ。
ブラシだって、嫌がるのを宥めながらやってる。
それなのに。
俺を見ると――
「シャーっ!」
この通りだ。
「小太郎ー。おいでー。ほれほれー。」
楓がリビングの椅子に座ると、小太郎は軽く跳ねた。
ヒョイ、って。音もしない。
爪を立てないように、ふわっと楓の太ももに着地して、そのまま丸くなる。
「きゃーーっ!可愛いっ!!小太郎っ!超可愛いっ!!欲しいっ!!」
楓の声が一段高くなる。
喜びがそのまま噴き出してる。猫に対しては躊躇がない。羨ましい。
「やらねぇよ。こいつは俺の命だ。」
俺は即答する。
守る。絶対に。
「シャーっ!」
……愛の告白も虚しく、小太郎は俺に威嚇する。
俺だけに。狙い撃ち。
「片想いなの?」
楓が、冷ややかな目を俺に送ってくる。
さっきまで「きゃー!」って言ってたくせに、急に哲学者みたいな顔するな。
「そうかもな。俺の人生は大半、片想いだからな。もう慣れた。」
言った瞬間、自分でもちょっとだけ笑いそうになる。
笑えないのに、笑うしかないやつ。
「ふーん。そうなんだ。」
楓は目を細めて、何かを考えるような目線をした。
その視線が一瞬だけ俺に刺さって、すぐに外れる。
その“外し方”が、妙に大人っぽくて、俺は黙った。
そのタイミングで――
「はいっー!楓ちゃんー!高岡名物かんこんたんっ!お食べぇ!お茶もほうじ茶でいい?香椎家は緑茶じゃないの。いい?」
母さんの声が、明るく割り込んでくる。
トレーの上には、個包装の甘金丹。
袋越しでも分かる、ふわっとした蒸し菓子の輪郭。
ほうじ茶の湯気が、リビングの空気を柔らかくする。
「はいっ!頂きますっ!!わーいっ!私かんこんたん好きなんだよねぇー!」
楓が手を合わせる勢いが、ちょっと可愛い。
初対面モードが残ってるのに、嬉しさが隠せてない。
かんこんたん(甘金丹)っていうのは、母さんが言った通り富山の名物だ。
蒸しケーキの中にカスタードクリームを包んだ洋風蒸し菓子。
仙台の萩の月や、鹿児島のかすたどんと似て非なるもの。
――と言うか。俺に味とか聞くな。
胃の中に入れば全部一緒だ。
「ねぇ。楓ちゃん。葵とはどんな出会いだったの?」
母さんが楓の向かいにストンと座って、雑談を始める。
この家の母さんは、基本こうだ。
距離を詰めるのが早い。良く言えばフレンドリー。悪く言えば突進。
「あー。そうですねー。高校1年生の時から知ってたんですけど、初めて話したのは高校2年生の春だよね?」
「ちげえよ。一年生の部活の表彰の時にお前が話しかけてきたんだろ?たしか『香椎くん。こっち並ぶんだよっ』って。」
俺は覚えてる。
どうでもいいことほど覚えてる。
あのとき楓がやたら元気で、俺が妙に気圧された。
「えっ!?そうなの!?全然覚えてないんだけど。」
楓は驚いたのか、甘金丹を強く握った。
ふわっと柔らかい生地が潰れて、クリームが指にじわっと滲む。
楓はそれを、テーブルに落とす前に――
長い舌で、ぺろり。
「あややややっ!レローンっ!うまいっ!」
……おい。
初めての人の家で、その反射神経は何なんだ。
いや、反射神経じゃなくて野生か。生存本能か。
訂正。
お前は強メンタルだ。
「そんで、高校2年生の最初の席替えで隣同士になって話したのが2回目。『香椎くん。よろぴく。』だったな。」
「ねぇ。普通そんなの覚える?私ぼんやりとしか覚えてないんだけど……」
楓が笑いながら言う。
笑い方が軽いのに、目だけは真面目で、俺は少しだけムッとする。
覚えてる俺が変みたいじゃねぇか。
「俺はお前と違って記憶力がいいんだよ。二学期の期末はトップ10に入る予定だからな!」
言った瞬間、母さんが「おー」って顔をした。
そういうところ、母さんは単純だ。
「おーーっ!凄いっ!そうなったら勉強教えてねーっ!」
「お前。生徒会委員なんだから頭いいんじゃねぇの?」
「うんとね。80位。」
「んー。まぁ。普通か……」
一学年240人くらいだから良い方だな……
俺は一瞬、納得しかけた。
“普通”って言葉をすぐに思い出す。その瞬間――
頭の中で、何かが引っかかった。
え?
80?
「な、なぁ。探求科の順位で言ってる?」
「そだよー?」
「探求科って何人だっ…」
「80人。」
楓は即答だった。
呼吸みたいに。
「どんけつだよーん。葵くんのママ!甘金丹のチョコレート味っ!うまーいっ!!」
楓は笑いながら、ほうじ茶を啜る。
小太郎は楓の太ももの上で、満足そうに目を細めている。
母さんは腹を抱えて笑ってる。
「あははははははっ!!楓ちゃんおもしろーいっ!!」
そうか。
そういうことか。
俺の周りはいつもそう。
馬鹿しかいない。
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