対話篇~ちょっと哲学してみない?~
常陸 花折
お題フェスに則って哲学してみよう
それでは、始めてみよう。
「神の前に未知が現れたらどうなると思いますか?」
突然話しかけられて驚いた方もいるかもしれない。驚いた方はもしかしたら『対話篇』あるいは「プラトン」のことを知らないのかも。
解説しておこう。
知っている方はどうかスワイプするその指かマウスホイールを労わってスクロールしてくれると嬉しい(特にマウスホイール!僕はカクヨムで小説を読むこととマウスを労わることを両立するためにページダウンボタンを左手で押せるように左手デバイスを買った!)。
プラトンとは、古代ギリシアの哲学者である。
古代ギリシアには、今なお有名なたくさんの哲学者がいた。その多くは自分の説を自分で筆を取り執筆している。
しかし、プラトンは違った。一度も本を書かず、人に話しかけまくった。冒頭のぼくのように。彼は様々な人に質問して、それに回答してもらうことによって「この世の真理」を得ようとした。
その時のいわば「インタビュー記録」が弟子によって『対話篇』として残されている。
ああ、プラトンと言えば「無知の知」も有名だね。
これは、「知らないことを自覚している人間は、そのことについて知らないということすら自覚していない人よりもそれを”知っている”ことになる。なぜなら”自分はそれを知らないということを知っている”からだ」という話。
屁理屈っぽいけど結構大切な話だよね。
知らないものってその人にとっては世界に存在しないことになってしまうから(これはプラトンも言及している)、これがあるかで他人への思いやりとか変わると思うよ。これは僕の主観だけど。
今回のテーマでこれも取り上げられそうだけど後に回そう。
そしてプラトンを知っている人はここまでスクロールしてきたと思う(ちょうどページダウンボタン一回で足りたんじゃないか?)。
それではもう一つ確認。
哲学(ここでは西洋哲学を指す)において「神の実在」を語るときの暗黙の了解があるのは知っているかな?
これも分かる人はスクロールして良いんだけど、日本人には少し分かりづらい感覚だから説明しておこう。
日本人の多くは神はたくさんいて、それぞれ色んな性格や属性を持っていると思っている。つまり「長所も短所もある」ちょっと凄い人間みたいなものだと思っているよね?実際元人間が神になったりもするし。
でも西洋哲学は、キリスト教圏の学問だからその認識が違う。神は一人しかいないし替えが効かない。
ここが凄く大切だ。
哲学において「神」特に「神の実在」において考えるときには下記の条件がある
①全てのことを知っている
②全てのことを行える
③どこにでも存在している
この三つだ。
もう「あれ?」って思った人がいるかもしれない。最初の問いに戻ろう。
「神の前に未知が現れたらどうなると思いますか?」
これに対してキリスト教圏の人はこう答える。
「神こそが真理であり、真理を作るのも神だから、神の前に未知は存在しない」
問いに答えていると思えるかな?それとも質問の方が言葉の綾じゃないか、と思うかな?
神は全てのことを知っているのではなく、神が知っていることが全てなのだから神にとって「未知」というものは存在しないはずだというのだ。
聖書によると神は一人一人の人生はおろか、一本の木の特定の葉が落ちるのがいつかみたいなことまで知っているとされている。
③の通り、過去現在未来全ての時間の、全ての場所に存在していて、出来事全てを自分で決めているから知らないことなんて一つもないと言われている。
でも、神には②に矛盾するような定義があるのは知っているかな?
それは「神は偽ることが出来ない」「神は悪を行うことは出来ない」
ほら、神は全てのことを行うことが出来ないんだ。
そう考えると①も③も怪しいんじゃない?ってなってこないかい?さっきの答えは言い訳臭くない?という気持ちになってこない?
だけど、宗教、すなわち信仰と哲学は違うからそこは強調しておこう。
集団として生きるための行動規範として、神の言うことが正しい、としておかないとそもそも教えが正しいかどうかも危うくなってしまうから、宗教家としては正しい考え方だし、そうでなければならないと思う。
それでも哲学的、というか文章的に考えた時に頭の中で仮定しうる状況を、そもそも「仮定出来ないよ」と返されるのは何だか変だよね。
昔の人もそう考えて、そこから「人は”してはいけない仮定”をしてしまうことがあるのか証明する」、みたいな問題にまで発展して西洋哲学は神の実在の証明を頑張るんだ。
それじゃあ、もう一つ質問。
「無知と未知の違いって何だと思う?」
これはさっきプラトンの「無知の知」を解説した時に思い付いた問いなんだけど、パッと答えてって言われると結構難しいと思わない?
コトバンクによると、
「無知」知らないこと。知識がないこと。知恵のないこと。また、そのさま。
「未知」まだ知らないこと。また、まだ知られていないこと。
と書かれている。
ここから、さっきの「無知の知」で言われていた「無知」は他人から見てそこに知があるのにその人は知らない、といった相対的なことだということが考えられるね。(だから他人への思いやりに通じるなと僕は思うんだけど)
一方で「未知」は絶対的なものだ。
①他人がどう知っていようが自分が知らないこと
②人類が誰も知らない(と自分が思う)こと
に使う言葉と考えられる。だから「未知」であっても自分が「未知だ!」と思ったらそれはもう「無知の知」を満たしていると言えるね。
だから未知の事柄に触れるのは、プラトン的に言えばどんどん賢くなれる行為だ。何事も経験ってことだね。
さて、ここからは僕の持論なんだけど……
創作における「未知」は2種類の効果(ニュアンス)があると思っている。そしてそれは先ほど挙げた①と②で変わってくる。
創作において①の意味で「未知」を使った場合、それはかなりポジティブな意味で捉えられる。「未知への冒険」とかね。この意味において使われた「未知」の対象は作品の中でどんどんと「既知」へ変わっていくことが多い。
周りの誰かは知っていて助けてくれたりもするし、好奇心から足を進めていくことで知っていくことも多い。
また、それ自身が物語の大きな目的となっていることも多い。
直接それが「未知」であることが語られるというよりは夢や目標として、希望を与えるキャッチコピーとして使われるイメージだ。
逆に②で使った場合は、ちょっとネガティブなイメージがある。
「苦悩」や「恐ろしさ」だ。「未知との遭遇」なんてまさにそうじゃない?
出来ることなら死ぬまで知りたくなかったことを、知らなければいけなくなってしまった時、逆に死ぬまでにどうしても解き明かしたいのに時間が足り無さそうで解けるか分からない時。そんなときにこっちの未知が使われる。
多分これは「他人に頼れない」「一から積み上げなくてはいけない」という物理的な困難さや心細さを描くきっかけになるからだろうね。
あと、物語の規模も人類単位で大きく広げられる。こっちの使い方だとその「未知」の対象にどう対処するかが物語のメインになりそうだ。
みんなはどう思うかな?
これを僕からの「対話」として投げて、この話を終わりにしようと思う。
もし、この文章を読んでいる中で、少しでも「その通りかも」「いやそうじゃないんじゃない?」と考えたのなら、僕はもうそれは「哲学している」と言えると思うよ。
対話篇~ちょっと哲学してみない?~ 常陸 花折 @runa_c_0621
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