5章 忘れていた、大切な人
まだ顔も、声も、記憶もない。
けれど、確かに“あなた”がいる。
想ってくれている、あなたが。
名前が知りたい。凄く会いたい。
*
その夜、遥は灯書房で手に入れたエッセイ集を、ベッドの上で読み進めていた。
ページを捲るたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
言葉の一つひとつが、まるで“あなた”の声のように響いてくる。
――この本、前にも読んだことがある気がする。
ふと、そんな感覚がよぎった。
けれど、思い出そうとすると、頭の奥がズキンと痛む。
それでも読む手が止まらなかった。
この先に、何かがある気がして――。
ラストシーンに差しかかった時だった。
胸の奥がぐわんと揺れた。
言葉にならない感情がどっと押し寄せてくる。
知ってる、この場面。
この本を誰かと一緒に読んだ。
笑い合って、語り合って、夜が更けるのも忘れるくらいに。
……そう、あのとき私は、仕事でどうしても必要な絶版の書籍を探していたんだ。
ネットにもなくて、大手の書店も全滅。
困っていた私に晶が『マニアックな古本屋があるよ』と教えてくれた。
路地裏の静かなその店――灯書房で、私は彼と出会った。
同じ本に手を伸ばして、指先が触れ合って、思わず笑った。
あれが、私たちの始まりだった。
視界が滲む。
手のひらに、ぽとりと涙が落ちた。
その瞬間、記憶の扉が開いた。
あの本屋の奥で肩が触れるほど近くに、“あなた”がいた。
ページを捲るたびにあなたが優しく微笑んでくれた。
『ここ、君が好きそうだと思った』
『やっぱり、泣いたね』
『遥の感想、聞くのが好きなんだ』
その声が耳の奥に蘇る。
優しくて、少し低くて、どこか不器用な話し方。
そして――名前が浮かんだ。
「……
遥の声が絞り出されたように……。
その響きが、胸の奥をじんと焦がす。
懐かしくて、切なくて、でも確かに“あなた”の名前だった。
「やっと……思い出せた」
涙が止まらない。
記憶の中のあなたはいつもそばにいてくれた。
笑ってくれて、支えてくれて、私を見守ってくれた。
でも――あの夜の記憶も、同時に蘇った。
暗い路地。
背後から迫る足音と振り返った瞬間の冷たい光。
声も出せず、足がすくんで、立ち尽くしていた。
そして――私の視界の先に、あなたがいた。
刃物の冷たさ。
鋭い痛み。
視界が揺れて、世界が遠のいていく中で、あなたが私の名前を何度も叫んでいた。
震える私を、あなたは必死に守ろうとしていた。
でも私は倒れて――――。
――そこから先の記憶が、ずっと無かった。
遥は震える手でそっと首すじに触れた。
あの夜、刃物を突きつけられた場所。
そこには今も薄く傷痕が残っている。
でも――それよりも深く刻まれたのは、あなたを失った痛みだった。
*
翌日、遥は意を決して、当時の事件を担当してくれた弁護士に連絡を取った。
電話越しの声は、すぐに遥のことを思い出してくれた。
「……あの、一つだけ教えて下さい。あの事件の犯人、今……どうなってますか?」
沈黙のあと、弁護士は静かに答えた。
「……数ヶ月前に、出所したと聞いています。現在の状況までは把握し切れてませんが、十分お気をつけ下さい」
通話を終えた後、背筋が凍りついたまま、暫く動けなかった。
でも、もう逃げたくない。
あの夜の恐怖も、あなたを失った痛みも、全部なかったことにはしたくない。
遥は灯書房へと向かった。
*
「こんにちは〜。あ、また来てくれたんですね」
バイトの女性が、いつものように笑顔で迎えてくれる。
遥は少しだけ息を整えてから、声をかけた。
「……あの、オーナーさんに伝言をお願いできますか?」
「はい?」
「“また、あの本の続きを話したいです”って。……そう伝えて下さい」
バイトの子は、少し驚いたように目を見開いた後、にっこりと頷いた。
「わかりました。ちゃんと伝えておきますね」
遥は深く頭を下げた。
胸の奥で確かな想いが灯っている。
『今の私が、もう一度あなたのそばにいたい』
それは記憶じゃなく、あなたが、私残してくれた想いが今もここにあるから。
そして、私は――。
「……あなたの名前を、もう一度呼びたい」
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