4章 見えないあなたに恋をする

 翌朝目が覚めると、遥は詩集に挟まっていたメモを握っていた。


『君がこの物語をどう読むか、いつも楽しみだった』

 ――その言葉が、胸の奥にじんと響いていた。



 今日は仕事が休み。

 予定はなかったはずなのに、気づけば足が自然とあの本屋へ向かっていた。


 灯書房の扉を開けると、チリン、と心地いい鈴の音が高く響いた。

 その音に、胸の奥がそっと揺れる。

 今日はもう『懐かしさ』ではなく、『会いたさ』に近い感情だった。


「こんにちは〜。あ、また来てくれたんですね」


 バイトの女性が、嬉しそうに手を振った。

 遥は軽く会釈を返しながら、まっすぐ“あの棚”へと向かう。


「今日もお留守ですか?」

「ですね〜。最近ずっと裏方の仕事ばっかりしてて、店番頼まれてるんですよね~」


 遥は頷きながら、棚の前に立った。

 前回と同じ場所。けれど、また少しだけ並びが変わっている。

 まるで、そっと手を加えているよう。


「オーナー、この棚だけは毎日チェックしてるんですよ。他の棚はバイトに任せっきりなのに、ここだけは絶対に触らせてくれなくて」


 バイトの子が、こっそり耳打ちするように言った。


「……誰かのためにって感じ、しませんか?」


 遥は、答えなかった。

 けれど、胸の奥がまた“トクン”と鳴った気がした。


 棚の中にまた新しい本が加わっている。

 見たこともないはずなのに、なぜか懐かしい気がするのはなぜだろう。

 手に取ると、ページの間からまた一枚の紙が落ちた。

 今度は少しだけ長いメモ。


『この物語、君と話した夜を思い出す。あの時、君が言った言葉、今も覚えてる。  君が笑った場面、君が泣きそうになった場面。全部、ちゃんとここにあるよ』


 遥は指先が震えるのを感じた。

『君』という言葉が、まっすぐ胸に刺さる。

 そして、『全部、ちゃんとここにあるよ』という一文に、なぜだか涙が零れそうになった。


 思い出せない。

 けれど、確かに“そこにいた”気がする。

 この物語の中に、この棚に、この空間のどこかに。

 いないのに、ここにいる。

 そんな不思議な感覚が、遥の中に広がってゆく。


「……この棚、やっぱり変ですね」


 思わず零れた言葉に、バイトの子がくすっと笑った。


「ですよね? でも、なんか落ち着くんですよね。私もたまに、この棚の前でぼーっとしちゃいます。並んでる本眺めてるだけでも癒されますよね」


 遥はメモをしおり代わりに挟みながら、そっと本を閉じた。

 胸の奥で、何かが少しずつ形になっていくのを感じていて。

 それは記憶ではなく、今の自分の中に芽生えた、確かな感情だった。


 *


 店を出ると、空はすっかり夕暮れに染まっていた。

 街灯がぽつぽつと灯り始め、路地の影が長く伸びている。


 遥は購入した本をそっと抱きしめながら歩き出した。

 胸の奥には、さっきの言葉の余韻が残っている。


『全部、ちゃんとここにあるよ』

 ――その一文が、何度も心の中で繰り返されていた。


 ふと、背後に視線を感じた。

 足を止めて振り返る。

 けれど、そこには誰もいない。


 少し先の電柱の影に、誰かがいた気がした。

 見間違いかもしれないが、確かに見られている感じがする。

 遥は歩調を少しだけ早めた。


 *


 帰宅して、ポストを開けると、差出人のない封筒が一通。

 中には、便箋が一枚。

 手書きの文字でこう綴られていた。


『君の好きな本、また見つけたよ。また会える日を楽しみにしてる』


 遥はその文字から目が離せなかった。

 文字に見覚えはない。

 ――これは“あなた”じゃない。


 遥はそう確信していた。

 その文字にはあの本とメモのぬくもりを感じない。

 心がトクンと響くのは、過去に置き忘れた言葉の数々だから――。

 だからこの手紙は、ただ真似ているだけに思えて。


 胸の奥が、鋭い刃でなぞられた感覚に陥る。

 けれどその奥で、遥の想いはますます強くなってゆく。


 ――本当に、“あなた”に会いたい。


 記憶じゃなくて、今の私であなたに会いたい。

 あなたの声と言葉を、今の私で受け止めたい。


 遥は、そっと目を閉じた。

 胸の奥で、確かな想いが灯っている。


「……また、恋をしてるのかな」

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