4章 見えないあなたに恋をする
翌朝目が覚めると、遥は詩集に挟まっていたメモを握っていた。
『君がこの物語をどう読むか、いつも楽しみだった』
――その言葉が、胸の奥にじんと響いていた。
*
今日は仕事が休み。
予定はなかったはずなのに、気づけば足が自然とあの本屋へ向かっていた。
灯書房の扉を開けると、チリン、と心地いい鈴の音が高く響いた。
その音に、胸の奥がそっと揺れる。
今日はもう『懐かしさ』ではなく、『会いたさ』に近い感情だった。
「こんにちは〜。あ、また来てくれたんですね」
バイトの女性が、嬉しそうに手を振った。
遥は軽く会釈を返しながら、まっすぐ“あの棚”へと向かう。
「今日もお留守ですか?」
「ですね〜。最近ずっと裏方の仕事ばっかりしてて、店番頼まれてるんですよね~」
遥は頷きながら、棚の前に立った。
前回と同じ場所。けれど、また少しだけ並びが変わっている。
まるで、そっと手を加えているよう。
「オーナー、この棚だけは毎日チェックしてるんですよ。他の棚はバイトに任せっきりなのに、ここだけは絶対に触らせてくれなくて」
バイトの子が、こっそり耳打ちするように言った。
「……誰かのためにって感じ、しませんか?」
遥は、答えなかった。
けれど、胸の奥がまた“トクン”と鳴った気がした。
棚の中にまた新しい本が加わっている。
見たこともないはずなのに、なぜか懐かしい気がするのはなぜだろう。
手に取ると、ページの間からまた一枚の紙が落ちた。
今度は少しだけ長いメモ。
『この物語、君と話した夜を思い出す。あの時、君が言った言葉、今も覚えてる。 君が笑った場面、君が泣きそうになった場面。全部、ちゃんとここにあるよ』
遥は指先が震えるのを感じた。
『君』という言葉が、まっすぐ胸に刺さる。
そして、『全部、ちゃんとここにあるよ』という一文に、なぜだか涙が零れそうになった。
思い出せない。
けれど、確かに“そこにいた”気がする。
この物語の中に、この棚に、この空間のどこかに。
いないのに、ここにいる。
そんな不思議な感覚が、遥の中に広がってゆく。
「……この棚、やっぱり変ですね」
思わず零れた言葉に、バイトの子がくすっと笑った。
「ですよね? でも、なんか落ち着くんですよね。私もたまに、この棚の前でぼーっとしちゃいます。並んでる本眺めてるだけでも癒されますよね」
遥はメモをしおり代わりに挟みながら、そっと本を閉じた。
胸の奥で、何かが少しずつ形になっていくのを感じていて。
それは記憶ではなく、今の自分の中に芽生えた、確かな感情だった。
*
店を出ると、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
街灯がぽつぽつと灯り始め、路地の影が長く伸びている。
遥は購入した本をそっと抱きしめながら歩き出した。
胸の奥には、さっきの言葉の余韻が残っている。
『全部、ちゃんとここにあるよ』
――その一文が、何度も心の中で繰り返されていた。
ふと、背後に視線を感じた。
足を止めて振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
少し先の電柱の影に、誰かがいた気がした。
見間違いかもしれないが、確かに見られている感じがする。
遥は歩調を少しだけ早めた。
*
帰宅して、ポストを開けると、差出人のない封筒が一通。
中には、便箋が一枚。
手書きの文字でこう綴られていた。
『君の好きな本、また見つけたよ。また会える日を楽しみにしてる』
遥はその文字から目が離せなかった。
文字に見覚えはない。
――これは“あなた”じゃない。
遥はそう確信していた。
その文字にはあの本とメモのぬくもりを感じない。
心がトクンと響くのは、過去に置き忘れた言葉の数々だから――。
だからこの手紙は、ただ真似ているだけに思えて。
胸の奥が、鋭い刃でなぞられた感覚に陥る。
けれどその奥で、遥の想いはますます強くなってゆく。
――本当に、“あなた”に会いたい。
記憶じゃなくて、今の私であなたに会いたい。
あなたの声と言葉を、今の私で受け止めたい。
遥は、そっと目を閉じた。
胸の奥で、確かな想いが灯っている。
「……また、恋をしてるのかな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます