手放せないもの
まだ秘密
手放せないもの
六月の夜、下宿の廊下に湿った空気が漂っていた。古い木造の建物は雨に弱く、屋根のどこかが軋むたびに、天井の染みがじわりと広がる。
部屋に戻ると、ぽたり、と水が落ちた。
机の端に置いていた古いラジオの上に、透明な滴が落ちている。
「……またか」
慌ててラジオを避け、バケツを置く。底に落ちる水音が、部屋の静けさを乱した。
このラジオは、もう十年以上前のものだ。壊れているのに捨てられない。
理由は自分でもよく分からない。ただ、手放すと何かが途切れてしまう気がして、棚の奥にしまい込んでいた。
ぽたり。ぽたり。
雨漏りは止まらない。
大家に連絡しようとスマホを手に取ったとき、廊下から足音が近づいてきた。
軽く扉が叩かれる。
「……雨漏りしてる?」
隣室の冬馬の声だ。
いつも落ち着いた声なのに、今日は少しだけ急いているように聞こえた。
「してる。そっちは?」
「うちも。天井、同じ位置だと思う」
扉を開けると、冬馬が濡れた前髪を額に貼りつかせて立っていた。
肩から滴る水が床に落ちる。
「帰り道、ずぶ濡れになった?」
「うん。傘、途中で折れた」
冬馬は苦笑したが、その笑いはすぐに消えた。
「……悪いけど、少しだけ避難させて。うち、床まで水が落ちてきてる」
「いいよ。狭いけど」
「助かる」
冬馬が部屋に入る。
濡れた靴下を脱ぎ、タオルで髪を拭く。肩がわずかに震えている。
「お湯、沸かす」
「ありがとう」
ケトルのスイッチを押すと、雨音が一段と強くなった。
冬馬は窓際に立ち、外を見ている。街灯の光が雨粒に反射して、白い線のように流れていた。
「……部屋、物多いね」
冬馬が棚を見て言った。
古いラジオ、壊れた時計、読み返さない本、使わないマグカップ。
「捨てられないんだよな」
「なんで?」
「分からない。気づいたら溜まってる」
冬馬は棚の上の古い毛布に目を留めた。
「この毛布、古いね」
「高校のときから使ってる」
「捨てないの?」
「……捨てられない」
冬馬は何か言いかけて、やめた。
ケトルが沸騰し、湯気が立ち上る。
マグカップに注ぐと、冬馬が両手で包み込むように持った。指先が赤い。
「寒い?」
「少しだけ」
冬馬は一口飲み、息を吐いた。
その肩の力が少し抜ける。
「……今日、バイト先で揉めた」
冬馬がぽつりと言った。
「揉めた?」
「店長に。『もっとシフト入れないか』って言われて。断ったら、機嫌悪くなって」
「入れない理由があるのか?」
「……学校の課題が溜まってる。無理だって言ったんだけど」
冬馬はカップを強く握った。指先が白くなる。
「店長、怒ってさ。『頼りにならない』って」
冬馬は笑った。けれど、その笑いは痛かった。
「……俺、人に頼れないんだよね。だから、頼られると困る」
「頼れない?」
「うん。弱み見せるの、苦手」
冬馬は視線を落とした。
「迷惑かけるかもって思うと、何も言えなくなる」
その言葉は、雨音に紛れて消えそうだった。
「迷惑じゃない」
冬馬がこちらを見る。
驚いたような、戸惑ったような目。
「……君ってさ、たまに優しいよね」
「たまに、ってなんだ」
「いつもじゃないってこと」
冬馬が小さく笑った。
その瞬間、天井から大きな滴が落ちた。
冬馬の肩に、冷たい水が跳ねる。
「うわ……」
「大丈夫か」
「……びっくりしただけ」
冬馬は濡れた肩をタオルで拭いた。
その仕草が妙にぎこちない。
「……ごめん。やっぱり迷惑かけてる」
「迷惑じゃないって」
「でも……」
冬馬は言葉を飲み込んだ。
その沈黙が、雨音より重かった。
「冬馬」
「……なに」
「頼れよ」
冬馬の呼吸が止まったように見えた。
「頼れないって言ってたけど、頼っていい」
「……なんで」
「俺も、物を捨てられない。手放せない。
でも、誰かに言うと少しだけ軽くなる」
冬馬は目を伏せた。
毛布の端をつまむ指が震えている。
「……俺、頼ったらさ。君、困るだろ」
「困らない」
「ほんとに?」
「ほんと」
冬馬はしばらく黙っていた。
雨漏りの音が続く。
「……じゃあ、少しだけ」
「うん」
「少しだけ、頼る」
冬馬はそう言って、毛布を肩にかけた。
その毛布は古くて、ところどころ糸がほつれている。
「これ、あったかいね」
「だろ」
「……捨てなくてよかった」
冬馬は毛布に顔を埋めた。
頬が少し赤い。
「明日さ。バイト探し、付き合ってくれる?」
「いいよ」
「ほんと?」
「どうせ暇だし」
「暇って……まあいいや」
冬馬が小さく笑った。
「君といると、変に落ち着く」
「それは褒めてるのか?」
「褒めてる」
冬馬は視線を落とした。
毛布の端を握る手が、少しだけ緩んだ。
「……これからも、頼っていい?」
「頼れよ」
冬馬の目がわずかに見開かれた。
それから、静かに笑った。
「じゃあ……明日もよろしく」
「明日だけじゃなくてもいい」
冬馬が息を呑む音がした。
雨音が一瞬止まったように感じた。
「……ずるい」
「どこが」
「そういう言い方」
冬馬は顔をそむけた。
耳が赤いままだ。
雨漏りの音が続く。
バケツの水が増えていく。
「……ねえ」
「ん?」
「この毛布さ。君が捨てられない理由、なんとなく分かった気がする」
「どんな理由だと思う」
「……誰かに渡したら、もう戻ってこない気がするから」
冬馬は毛布を握りしめた。
「俺も似てる。頼ったら、離れられなくなる気がしてた」
冬馬は毛布の中で小さく息を吐いた。
「でも……君なら、いいかも」
その言葉は、約束ではなかった。
けれど、約束よりずっと確かな響きがあった。
雨はまだ止まない。
でも、明日のことを考えると、不思議と気にならなかった。
棚の上の古いラジオが、静かにそこにある。
手放せないものが、少しだけ形を変えた気がした。
手放せないもの まだ秘密 @azadia
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