滲んだインクと破れないページ
イトウ
『ミットに残る熱』
学校帰りの制服のまま、努(つとむ)は路地裏に迷い込んでいた。
カバンが鉛のように重い。スマホには母からの着信履歴がいくつも残っている。「お父さんが危ないかもしれない」というメッセージ。
でも、足が動かなかった。病院に行きたくなかった。
湿ったアスファルト。錆びついた放置自転車。
店の裏口から出された赤いビールケースが乱雑に積まれ、その上を痩せた野良猫が音もなく横切っていく。
薄汚れた室外機が、ブーンと低い音を立てて生暖かい風を吐き出していた。
そんな荒んだ風景の中に、ふと、場違いな香りが漂ってきた。
雨上がりの匂いに混じった、古紙と……どこか優雅な紅茶の香り。
突き当たりのコンクリート塀。本来なら行き止まりのはずの場所に、見たことのない重厚な樫の木の扉が現れていた。
鈍い金色のドアノブが、薄暗がりの中で鈍く光っている。
まるで「ここへ逃げ込め」と言われている気がして、努はドアノブを回した。
チリン、と控えめなベルが鳴る。
中は、天井が見えないほど広い図書館だった。
壁一面を埋め尽くす本棚。暖色の明かりが、舞うほこりを金粉のように照らしている。
「いらっしゃいませ。迷える高校生さん」
カウンターの奥から、ひとりの女性が音もなく現れた。
黒縁の丸メガネをかけ、肩には柔らかそうなニットのショールを羽織っている。足首まであるシックなロングスカートが、動くたびに静かに揺れた。
彼女からは、古いインクの匂いと、アールグレイのような落ち着いた香りがした。
「消したい記憶がおありなのですね?」
丸メガネの奥の瞳は、すべてを見透かしているようで、けれどとても穏やかだった。
努は黙ってうなずいた。
今日、父が死ぬかもしれない。それなのに、浮かんでくるのは楽しい思い出じゃない。
小学生のころ、無理やりやらされた野球の練習だ。
女性が指を鳴らすと、一冊の本がふわりと飛んできた。
ページを開く。
そこには、泥だらけで泣いている小学生の自分がいた。
「なに泣いてるんだ! 立ってバットを振れ!」
「男なら逃げるな! 歯を食いしばれ!」
父の怒鳴り声。捕球できずにボールをそらすと、容赦なく平手打ちが飛んできた。
痛かった。怖かった。
父は鬼だった。野球なんて大嫌いだったのに、父が怖くて中学まで辞められなかった。
高校に入って野球を辞めたとき、父は「根性なしが」と吐き捨てた。それ以来、まともに口をきいていない。
こんな最悪な記憶を持ったまま、父の死に顔なんて見たくない。
「これを消せば、俺は……普通に悲しめますか」
努の声が震えた。
「そうですね。恐怖も憎しみも消えて、ただの『父親』として見送れるでしょう」
女性はショールを直しながら、手元のランプの光を強めた。
「でも、消す前に少しだけ、光に透かして見てみませんか? ここのインクは、言葉にならなかった『心の声』まで記録しているのですよ」
努は言われるまま、そのページをランプにかざした。
父の怒鳴り声の文字のすき間に、薄い金色の文字が浮かび上がってくる。
『……すまない。また手を上げてしまった』
努は息をのんだ。
そこには、今まで見たことのない父の弱音が書かれていた。
『俺がいじめられていた頃のように、こいつには惨めな思いをさせたくない』
『嫌われてもいい。俺を憎んででも、こいつには理不尽な世の中で戦える強さを身につけてほしい』
『叩いた手のひらが、ジンジンと痛む。……俺は、なんてダメな親父なんだ』
文字が、涙でにじんでいるようだった。
あの時、鬼のような形相で立っていた父は、心の中で泣いていたのだ。
不器用すぎて、「野球」という形を通してしか、息子に生きるすべを渡せなかった。
「……なんだよ、それ」
努の目から涙があふれ、ページの上に落ちた。
今まで「恐怖」だと思っていた記憶が、急に温かいものに変わっていく。
今まで「恐怖の証」だと思っていた記憶が、急に不器用な「愛の証」に見えてくる。
「消しますか?」
女性が首をかしげ、優しく問いかけた。
努は首を横に振った。
「いいえ、消しません。……これは、親父が俺にくれた『お守り』だったんです」
本を閉じると、胸のつかえが取れていた。
逃げている場合じゃない。
文句のひとつでも言ってやらなきゃ、気が済まない。
「行ってきます」
努が顔を上げると、女性は丸メガネの位置を指先で直し、満足そうに微笑んだ。
「いってらっしゃいませ」
ふわりとショールが舞い、図書館の景色がゆらぎ始めた。
気がつくと、元の路地裏だった。
積まれたビールケースも、室外機の音もそのままだ。けれど、努は走り出した。
息を切らし、夜の街を駆け抜けて病院へ向かう。
――間に合ってくれ。
病院の廊下を走り、病室のドアを勢いよく開けた。
「親父!」
覚悟を決めて飛び込んだ努は、その光景に足を止めた。
ベッドの周りに、深刻そうな医者はいない。
たくさんの管につながれてはいるが、父はベッドの上で、ゆっくりと上体を起こしていた。
窓の外の月をぼんやりと見上げている。
「……なんだ、努か。ドタバタとうるさいぞ」
父の声はしゃがれて、弱々しかった。けれど、あの頃と同じようにぶっきらぼうだった。
山場は、越えたのだ。
努はその場にへたり込みそうになるのをこらえ、大きく息を吐いた。
「……うるさいな。見舞いに来てやったんだよ」
努はカバンを置いて、ベッドのそばに歩み寄った。
痩せて小さくなった父の背中。でも、もう怖くはなかった。
「元気になったら、キャッチボールぐらい付き合ってやるよ」
「……ふん。お前のへなちょこボールなんか、受けられるか」
父は憎まれ口をたたきながらも、窓ガラスに映ったその顔は、少しだけ笑っているように見えた。
滲んだインクと破れないページ イトウ @Itou3208
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