酔っ払いシュート

星夜燈凛-Seiya Akari-

高校生と老人




 街から少し離れた橋の下は、夜になると若い連中の遊び場になる。

 街灯は届かず、川の匂いとコンクリートの冷たさだけが残る場所だ。だからこそ、多少の騒ぎも許される気がした。


 高校生たちは、そこで酒を飲んでいた。

 部活の延長みたいなノリで、意味もなく集まり、意味もなく笑う。未来のことなんて眼中にない。ただ、今がつまらなくないことだけが大事だった。


 橋の下を強い風が吹き抜ける。

 風に煽られ、空き缶がカラカラと音を立てた。


 その音に混じって、知らない声がした。


「お前ら楽しそうだな。俺も混ぜてくれよ」


 一瞬で、空気が止まった。


 笑い声が消え、誰も動かなくなる。

 暗がりの奥、橋脚の影から、年寄りの男が姿を現した。


「……」


 誰も何も言わない。


「お前ら、高校生か?」


「なに? 説教?」


 警戒した声が返る。

 男はそれを聞いて、肩をすくめた。


「そんなんじゃないよ。

 寂しい老人の話し相手になってくれないかと思ってな」


「おい、いこーぜ」


 小声で言って、踵を返そうとする。


「まぁ、まて。駄賃だ」


 男は懐から一冊取り出し、ひらりと振った。


「とっておきだぞ?」


 ヌード本だった。


「まじ!?」


「やべぇ!」


「ちょっとだけならいーよ!」


 空気が一気に緩む。

 さっきまでの警戒は、冗談みたいに消えた。


「ありがとな。お前ら、見ない顔だな」


「俺ら、隣町から来てるんだ」


「隣町から? まぁまぁ遠いじゃないか」


「歩いて三十分くらいだよ」


「じーちゃんは、ここでなにしてんの?」


 男は当然のように言った。


「俺か? ここが俺の家だからな」


「えー! じーちゃん家ないの!?」


「おい、馬鹿」


「かまわんよ。

 税金ばかり高くてな、売ってしまったんだよ」


「えー、もったいねぇ」


「そうかな。この生活も悪くないぞ」


「えー! 俺やだー!」


「はっはっは! 考えは人それぞれだからな」


 男は笑いながら、ふと真面目な顔になる。


「そういや、お前ら……夢はあるんか?」


「えー? 夢ー?」


「はいはーい! 俺、建築技師ー!」


「うわ、意外〜」


「失礼なやつだな。家継ぐの決まってんだよ」


「いいじゃないか」


 男は、少し眩しそうに目を細めた。


「俺、漫画家……とか?」


「えー!! まじー!!」


「絵、描くの好きでさ」


「今度みしてよ!」


「やだよ。お前ぜってーバカにするもん」


「しねぇって」


 男は満足そうに、カップの焼酎を煽った。


「俺は、外国行ってみたい」


「いいじゃないか」


「なにしたいとか、わかんないけど……

 色んな景色見るのとか、面白そう」


「そんなこと思ってたんだ」


「なー! 俊樹はー?」


 名を呼ばれても、俊樹は黙ったままだった。


「そういえば、お前、ずっと黙ってるな」


 男は赤い顔で首を傾げる。


「……夢とかない。

 将来、なにしたいとかわかんないし」


「なら、お前は好きなことはないのか?」


「……好きなことか」


 少し間を置いて、俊樹は言った。


「…………ダンス?」


「いいじゃないか!

 ちょっと踊ってみてくれよ」


「え……ずっとやってなくて」


「いーよ、いーよ。

 下手でもなんでも。

 俺には善し悪しなんて、わかんないんだからさ!」


 男が手を叩く。


「ほい」


 釣られるように、他の連中も手拍子を始めた。


「あー……もう」


 俊樹は渋々立ち上がり、身体を動かした。

 酔いのせいで、動きはぐだぐだだった。


「いーぞ! いーぞ!」


 笑い声に押され、少しずつ調子が出る。


「はっはっは!

 上手いじゃないか!」


 最後に決めポーズ。


 拍手が起きる。


「はいはい、終わり終わり!」


「よっ! 俊樹〜!」


 その時、スマートフォンのバイブ音が鳴った。


「うわ、やべ。かーちゃんだ」


「そろそろ帰ろうぜ」


「遅くまで悪かったな。

 ほら、駄賃だぞ。好きなの持ってけ」


 雑誌が地面に並べられる。


「お前はいいのか?」


「あんま、興味ねーし」


「そうか。

 おい、明日も来いよ」


「はぁ?」


「どうせ暇だろ」


「来ねーよ」


「そうか。

 待ってるからな。いつでも来い」


 ――うるさい爺さんだな、と思った。

 でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。









 橋の下は、昼間でもひんやりしていた。

 川の匂いと、湿った土の気配が混じっている。


「おい、じいさーん。いねーの?」


 声を張り上げると、少し遅れて返事が返ってきた。


「おおー! 来たか! 待ってたぞ」


 橋脚の影から、例の男が顔を出す。

 その言葉を聞いて、俊樹はほんの少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


「……来いっていうから」


「来てくれて嬉しいよ。飲むか?」


 差し出されたのは、ラムネの瓶だった。

 青いビー玉が中で光っている。


「うわ、懐っ……」


「今、買ってきたんだ」


 親指で押すと、

 バシュッという小気味いい音がして、瓶の中に炭酸が弾けた。


 一口飲んで、思わず声が漏れる。


「……うまっ」


「だろ?」


 男は満足そうに笑った。


「いつからやってたんだ?」


「ん?」


「ダンスだよ」


「あー……小三?」


「ほぉー! なんで辞めたんだ?」


 俊樹は、少しだけ視線を逸らした。


「…………母さんが、いつまでも遊んでないで勉強しろって」


「そうか。もったいなかったな」


「……別に」


 言い切るように言ったが、胸の奥が少しだけ疼いた。


 河原の上の道を、犬が吠えながら駆け抜けていく。

 リードを引く人間の足音が、遠ざかっていった。


「もう、やらないのか?」


「わかんない」


 男は少し黙ってから、ぽつりと言った。


「……俺にも教えてくれないか?」


「は? なんで」


「ちょっと運動不足でな」


「いや、無理でしょ」


「やる前から決めつけちゃいけないよ。

 始めるのは、いつだって出来る」


「怪我してもしらねぇよ」


「おー、じゃあ体操からだな」


 それから、俊樹は毎日のように橋の下へ通った。

 男は絵に描いたようなじいさんで、驚くほど物覚えが悪かった。


 それでも、ターンが一回できただけで大喜びする。

 ステップが少しでも形になると、子どもみたいに目を輝かせた。


 日が傾き、橋の下に影が伸びていく。

 音楽に合わせて踊る俊樹に、男は楽しそうに手拍子を送った。


 音楽が止まり、手拍子も消える。

 代わりに、川の水音が戻ってきた。


 ――ダンスが楽しかった、あの頃。

 忘れていた感覚が、少しずつ戻ってきていた。


 橋を離れると、空気が少しだけ軽くなった。

 街灯の下を歩きながら、俊樹はラムネの甘さを思い出していた。


 家の玄関を開けると、明かりがついている。

 母の声が、すぐに飛んできた。


「ただいま〜」


「遅かったじゃない。どこに行ってたの?」


「別に」


「まだ、あの悪い友達とつるんでるんじゃないでしょうね?」


「関係ねぇよ」


 靴を脱ぎながら、俊樹は視線を落とす。


「いつまでも遊んでないで、勉強しなきゃダメよ?

 お隣のゆうちゃんはね――」


「うるせーんだよ!!」


 声が、自分でも驚くほど大きく響いた。


「こら、俊樹! どこ行くの!」


「勉強だよ!」


 階段を駆け上がり、ドアを閉める。

 音が家の中に残って、しばらく消えなかった。


 ベッドに倒れ込み、天井を見る。

 昼間の橋の下とは違う、動かない空間。


 胸の奥に溜まったものが、何なのか分からないまま、息だけが深くなった。



 翌日も、俊樹は橋の下へ向かった。

 学校帰り、家を通り過ぎて、大通りを抜ける。最早、通い慣れた道だ。


「おお! 待ってたぞ!」


「……うん」


「なんだ、元気ないな」


「別に」


 男は気にした様子もなく、ポケットを探る。


「お、そうだ。お前に土産だ」


「何」


「今日、空き缶拾いしてたらな。見つけたんだ」


 手渡された紙を広げる。


 ダンス大会の文字が、夕陽に反射した。


「……ダンス大会?」


「お前が喜ぶかと思って」


 その瞬間、母の声が頭の奥で重なった。


――いつまでも遊んでないで、勉強しなさい?


「…………やんねぇよ」


 俊樹は紙を丸め、ポケットに押し込んだ。


「そうか」


「俺、今日は帰る。

 なんか、熱あるかも」


「大変だ。早く帰って寝なさい」


「ごめん」


 俊樹は走り出した。

 振り返らなかった。


 橋の下で、男はただ立ち尽くしていた。

 遠ざかる足音が消えるまで、いつまでも見つめていた。




 夜。

 自分の部屋の明かりを消し、ベッドに横になる。


 ポケットから取り出した紙は、しわだらけだった。

 何度も折られ、伸ばされ、テープでつなぎ直された跡がある。ベッドサイドに置かれたランプが、チラシの文字を照らしだす。


 10/3(日) 市立文化センター

 応募締切 9/20まで


「締切……来週か……」


 呟いた声は、誰にも届かない。


 俊樹は、そのままベッドに顔を伏せた。

 布団越しに、橋の下の手拍子が、まだ耳に残っている気がした。









 秋の色がぐっと濃くなった大橋に、冷たい風が吹き抜けていた。

 川面を渡る風は、もう遊び半分では受け止められない冷たさを帯びている。


 橋脚の下で荷物をまとめていた男の背後から、息を切らした足音が近づいてきた。

 軽く、けれど迷いのない足取りだった。


「じいちゃん!」


 声をかけられて、男は驚いたように振り返る。


「……おお! 久しぶりだな!」


「どっか行くの?」


 俊樹の視線は、男の足元にまとめられた袋に向いていた。


「冬が来るからな。

 ネカフェに行くんだよ」


「そっか。気ぃつけて」


「ありがとさん」


 ほんの短い別れの挨拶。

 それだけで終わるはずだった。


「ねぇ、聞いて! 俺、大会出たよ!」


 その言葉に、男が僅かに口角を上げる。


「……! そうか!」


「でね、俺のダンスを見た人がさ、

 東京に来ないかって。名刺くれたんだ!」


 俊樹は、胸の奥に溜めていた言葉を一気に吐き出すように話した。


「すごいじゃないか」


「俺、ダンスやりたい!

 プロのダンサーになって、じいちゃんのこと特等席に招待するから。

 絶対、来てね!」


 男は、思わず目を細めた。

 あまりにも眩しそうな顔だった。


「あぁ。楽しみにしているよ」


 それは、果たされるかどうか分からない約束だった。

 それでも男の胸には、久しぶりに未来と呼べるものが灯っていた。


「……親御さんは、大丈夫なのかい?」


「……やってみなさいって」


 その言葉に、男は目を見開いた。


 名刺をもらったあの日。

 俊樹は初めて、親の前で頭を下げ、夢を語った。

 きっと支離滅裂で、言葉も足りなかった。それでも母は、何も言わずに聞いてくれた。


 ――高校を卒業すること。

 それが条件だった。


「頑張ったな」


 俊樹は、少し照れたように笑った。


「そうだ、乾杯しよう! 祝勝会だ。

 ……やっぱり酒がいいか?」


「いや、いらない。

 それより、面白いもの見つけたからさ」


「なら、これはいらないな」


 男はゴミ袋からチューハイの缶を取り出すと、思いきり蹴り上げた。


「お前もやるか?」


 俊樹は、少し間を置いてから、足元に缶を置いた。

 一度だけ深く息を吸い、空に向かって蹴り上げる。


 十月の空には、うろこ雲。

 傾きかけた太陽の光を受けて、空き缶はゆるやかな弧を描いた。



 酔っ払いみたいなシュートで、

 空き缶は青空に溶けていった。

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