第3話

 翌日。

 私は、律の顔を直視できなかった。


 意識しすぎだ。

 わかってる。

 まだ確定したわけじゃない。

 「あ」の一言が似ていただけ。

 「教室」と言いかけた(気がする)だけ。


 でも。

 隣に座っている彼から、微かに漂う匂い。

 柔軟剤の、清潔な香り。

 それが、昨夜のNocturne様の言葉とリンクする。


『……俺、新しい柔軟剤に変えたんだ。ラベンダーの香り。……君も、嗅いでみる?』


 クン、と鼻を鳴らす。

 ……ラベンダーだ。

 微かだけど、確かにラベンダーの香りがする。


 いや、ラベンダーなんてメジャーだし!

 ドラッグストアで一番売れてるやつだし!


 私は必死に自分に言い聞かせる。

 でも、視線は勝手に律を追ってしまう。

 長い前髪の隙間から見える、白い肌。

 スマホを操作する、細くて長い指。

 あの指が、マイクを撫でているのかと思うと――。


「……っ」


 変な声が出そうになって、私は口を押さえた。

 律が、不審そうにこちらを見た。

 目が、合った。

 一瞬だけ。


 その瞳は、黒くて、深くて。

 吸い込まれそうなほど、静かだった。


 律はすぐに視線を逸らし、また猫背に戻った。

 いつもの陰キャ。

 いつもの空気。


 でも、私の心臓は、早鐘を打ったまま戻らない。


        ✎ܚ


 その夜。

 私は、ある決意をして配信を開いた。

 確かめるんだ。

 もっと、決定的な証拠を。


 私は、震える指でコメントを打ち込んだ。


『隣の席の男子が、最近ちょっと気になります』


 送信。

 心臓が破裂しそうだ。

 もし彼が律なら、このコメントを見て動揺するはず。

 「え、俺のこと?」って。


 Nocturne様は、雑談の途中だった。

 コメント欄を目で追っている。

 そして、私のコメントを見つけた瞬間。


 ピタリ、と声が止まった。


 ……止まった。

 沈黙。

 放送事故レベルの、長い沈黙。

 マイクの向こうで、息を飲む音が聞こえる。


 やっぱり。

 やっぱり、そうなの?


 数秒後。

 Nocturne様が、ゆっくりと口を開いた。

 その声は、いつもより少し低く、少し……震えていた。


『……へえ。気になるんだ』


 その声色。

 嫉妬?

 それとも、焦り?


『……どんな風に、気になるの?』


 問いかけられた。

 私に。

 何万人も見ている中で、私だけに。


 私は、指を走らせる。


『なんか、静かだけど、優しそうな気がして』


 これは、嘘じゃない。

 ペンを拾おうとしてくれた時の、あのおろおろした手。

 あれは、不器用な優しさだったのかもしれない。


 Nocturne様が、ふっ、と笑った。

 自嘲気味な、でも、どこか嬉しそうな笑い。


『……そっか。優しい、か』


 彼は、マイクに唇を寄せる。

 吐息が、鼓膜をくすぐる。


『……その男子のこと、もっと教えてよ』


 え?


『……俺が代わりに、君をドキドキさせてあげるから』


 ゾクゾクゾクッ!

 全身の毛穴が開くような感覚。

 何それ。

 どういうこと?

 「俺(律)のこと、もっと教えて」ってこと?

 それとも、「俺(Nocturne)の方がいいでしょ」っていうマウント?


 どっちにしても、ヤバい。

 これは、公開処刑だ。

 いや、公開ご褒美だ。


『……君がその男子を見てる時、俺も君を見てるかもね』


 キャーーーーー!

 コメント欄が阿鼻叫喚になる。

 『ヤンデレきた!』『特定厨Nocturne様!』『その子逃げて!』


 違う。

 みんな、違うの。

 これは、比喩じゃない。

 物理的に、見てるってことなの。


 「隣の席」から。


 私は、スマホを胸に抱きしめて、ベッドの上を転げ回った。

 怖い。

 バレてる。

 絶対に、私がリナだってバレてる。

 だって、あんな反応、普通じゃないもん。


 でも。

 怖いのに、嬉しい。

 あの律が。

 あの無口な律が。

 配信を通して、私にこんなに執着してくれている。


 これって、もしかして。

 両片思い、ってやつですか?

 いや、片思いとストーカーのハイブリッドですか?


 明日。

 明日、どんな顔をして会えばいいの。

 「もっと教えて」って言われたんだから、もっと見なきゃいけないの?

 それとも、見ちゃいけないの?


 私の脳内は、Nocturne様の甘い毒で、完全に侵されていた。

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