第3話
2033年10月11日。
東シナ海、北緯29度付近。
波高2.5メートル。視程は良好。
海上自衛隊のイージスシステム搭載艦「はつゆめ」のSPY-7レーダーは、水平線の彼方にある中国海軍機動部隊を捕捉し続けていた。
距離にして、およそ180キロメートル。
一見ゆとりがあるように思えるが、現代の海戦においては、それは既に互いの喉元に短剣を突きつけ合っている距離である。対艦ミサイルの射程内であり、飽和攻撃が開始されれば、迎撃システムが完全に機能したとしても、物理的な被弾確率がゼロになることはない。
中国海軍の原子力空母「上海」からは、艦載機であるJ-35が断続的に発艦。日本の防空識別圏ギリギリを飛行し、挑発を繰り返している。
対する「はつゆめ」および僚艦「てんりん」は、垂直発射装置のハッチを開放こそしないものの、火器管制レーダーの照射待機状態を維持。
トリガーに指はかかっている。あとは、誰かが間違えるだけでいい。それだけで、東アジアは火の海になる。
その均衡を破った第三国の情報は、米軍の戦術データリンク経由ではなく、外務省のホットラインからもたらされた。
内閣総理大臣官邸、地下危機管理センターにて。
「フィリピン沿岸警備隊および海軍が、スカボロー礁、およびスプラトリー諸島の中国実効支配地域へ向けて進軍中」
オペレーターの声は感情を排した無機質なものだったが、その内容は室内の空気を一変させた。
「……何だと?」
小林防衛相が、反射的にモニターの表示エリアを南シナ海へと切り替える。
そこには、マニラから出発した無数の船団───漁船改造の民兵船を中心とする大船団が、中国が造成した人工島へ向けて雪崩れ込む様子が映し出されていた。
フィリピン沿岸警備隊と海軍は、それらを追いながら猛々しく警告を発しているが、実際的な武力行使には踏み切っていない。だとすると。
「同時多発的な強行上陸……いや、これは座礁戦術の再来か? それにしても規模が大きい、ベトナムの民兵団も呼応しています。南沙諸島全域で、中国海警局の船艇が包囲される形になっている……」
小林の報告に、茂木外相が鼻を鳴らす。
「なるほど。ハリスの奴、自分が動けない代わりにけしかけたか」
「けしかけた?」
小泉首相が訊くと、茂木は得意げな様子で長々と語る。
「見ればわかるだろ? ホワイトハウスは今、議会の承認なしに大規模な軍事介入ができない。だからああして民兵を身代わりに、フィリピン海軍が介入する動機を作らせたんだよ。加えてフィリピンとの相互防衛条約は生きている。裏でマニラに『今なら中国は東と西に気を取られている、領土を取り返すチャンスだ』と囁いたのもあるんだろうな。そして中国に対し、フィリピンに手を出せば条約に基づき米軍が出てくるぞとも脅しをかけた。現実に
「……毒をもって毒を制す、ですか。品のいいやり方ではないですね」
小泉は、モニター上の「上海」の動きを凝視した。
巨大な赤い光点が、わずかに、しかし確実に回頭を始めている。
「中国海軍、進路変更。北東から南南西へ。宮古海峡の全艦突破を断念した模様です」
オペレーターの報告と同時に、センター内に安堵のため息が漏れた。しかし、それは極めて浅く、重いものだった。
中国にとって、インド洋でのインド海軍との戦闘、東シナ海での日本との睨み合い、そして南シナ海でのフィリピン・ベトナム連合との紛争。三正面作戦は、いかに大国といえども維持不可能である。
彼らは、最も政治的リスクが低く、かつ実利───本土防衛とシーレーン確保───に関わる南シナ海を優先した。日本への圧力は、一時的に棚上げされたに過ぎない。
「艦隊は引き返したが、空母艦載機による示威行動は続いている。また、サイバー空間での攻撃も止んでいない」
小林が釘を刺すように言う。
「小泉総理、これは状況終了ではない。あくまでお開きになっただけ……それも、極めて不機嫌に」
「分かっています。だが、これで時間ができた」
小泉は上着の内ポケットからハンカチを取り出し、額に滲んだ冷や汗を拭った。
平時なら、アドレナリンが恐怖を凌駕していただろう。だが今は、状況の異常さが、彼を臆病に、そして慎重にさせていた。
「茂木さん、すぐに声明を。中国側も黙って引き下がりはしないでしょう」
「ああ。メンツを潰された奴らは、必ず粋がってああだこうだと言ってくる。先にこっちから予防線を張ってやろうぜ」
★★★★★★
同日夜、内閣総理大臣記者会見。
フラッシュの光が、小泉の視界を白く染め上げる。
彼は用意された原稿に目を落とさず、カメラのレンズを───その向こうにいる国民と、北京のあの男を見据えて口を開いた。
「本日、我が国の排他的経済水域付近において発生した事態は、戦後の国際秩序に対する重大な挑戦であります」
小泉の声は、低く、腹の底から響くようなトーンに調整されていた。
「中国海軍の原子力空母を中心とする機動部隊が、なんら正当な理由なく、我が国の近海において軍事圧力をかけたこと。これは明白な挑発行為であり、地域と世界の平和を脅かす暴挙です。我が国は、中国に対し、"危険な火遊び" を直ちに中止するよう、最も強い言葉で非難します」
それは従来の日本政府の、いわゆる遺憾砲とは一線を画す、明確な敵対心の表明だった。
しかし北京の反応もまた、早かった。
小泉の会見からわずか30分後。中国外交部の報道官が、定例会見の枠を無視して緊急声明を発表したのである。
『日本側の主張は、完ぺきに盗人猛々しいものである』
同時通訳と手話の映像が、モニターから流れる。
『我が国は、公海上の航行の自由を行使したに過ぎない。むしろ問題なのは、海上自衛隊が派遣した "護衛艦" とは名ばかりの艦である。あれは実質的な戦略攻撃艦であり、専守防衛の枠を逸脱した、動く要塞だ』
報道官は、厳然とした口調で続ける。
『日本は「はつゆめ」に搭載された長距離巡航ミサイルによって、上海や北京を直接攻撃する能力を保持している。そのような攻撃的兵器を、対話もなしに我が艦隊へ向けたことこそが、真の挑発である。全ての責任は、日米の軍国主義的野心にある』
画面の中で、報道官は演壇を叩かんばかりの勢いだった。
「言わせておけば」
官邸の一室でその様子を見ていた高市幹事長が、不快そうに吐き捨てる。
「はつゆめは、イージス・アショアの代替として建造された純然たる防空艦。それを攻撃兵器だなんて、どの口が言うのかしら」
「………そうですね」
小林が、冷めたコーヒーを啜りながら応じる。
「相手の盾が頑丈すぎれば、それは脅威になる。ましてやはつゆめの探知能力と迎撃能力は、彼らの自慢の極超音速ミサイルすら無力化しかねない。追い返された口実として、我々の『過剰防衛』を槍玉に挙げるのは想定内です」
「プロパガンダ合戦だなあ」
茂木がシニカルな笑みを浮かべる。
「これで日中関係は冷戦レベルまで冷え込んでしまった。経済界からは悲鳴が上がるだろうが、今は命があるだけマシと思ってもらうしかない」
……かくして、ひとまずの危機は去った。
少なくとも、日本の領海内でミサイルが飛び交う事態は回避された。
しかし、世界地図の別の場所では、事態は沈静化どころか、破滅的なフェイズへと移行しつつあった。
パキスタン、パンジャブ州。
インド軍機甲師団による進撃は、当初の予想を遥かに上回る速度で進行していた。
制空権を奪取したインド空軍による猛爆撃のもと、パキスタン陸軍の防衛線は寸断され、主要都市ラホールへの肉薄を許している。
現地の映像は、もはやニュースというより、終末映画のワンシーンのようだった。
瓦礫と化した市街地。逃げ惑う市民。そして、路上に放置された無数の遺体。
ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナの戦いよりも酷い。両国の指導者は、既に理性を失っていた。
インドの首相は、国民のナショナリズムをセンセーショナルに煽り、パキスタンを「テロリストの巣窟」として世界地図上から抹消することを宣言。
対するパキスタン首相は、地下壕からの演説で、涙ながらにイスラム世界への救援を求め、同時に「最後の手段」の使用を示唆していた。
パキスタンは、核保有国である。
「戦術核の使用準備兆候を検知」
危機管理センターに、再び緊張が走る。
米軍の早期警戒衛星が、パキスタン国内のミサイルサイロ周辺で、特殊車両の活発な動きを捉えたのだ。
「……ほ、本気か?」
小泉の声が震えた。
結果的に直接の武力行使に踏み切らなかった中国との睨み合いなど、この情報の前では児戯に等しい。
もし核が使われれば、それは1945年以来のタブーが破られることを意味する。報復の連鎖は、確実に中国、ロシア、そしてアメリカ、いやさ世界全土を巻き込むだろう。
「総理、ハリス大統領より親展。緊急のG7首脳会議をオンラインで開催したいと」
「受ける。当然だ」
小泉は即答した。
だが、彼の脳裏には、ある思いが過っていた。
───会議を開いたところで、誰がこの暴走を止められる?
インドは聞く耳を持たない。パキスタンは追い詰められた鼠だ。中国はこの混乱を利用してアジアの覇権を握ろうとしている。アメリカは内向きになっている。
そして日本は。
……日本は、ただその嵐の余波に耐えることしかできないのか?
「小林さん」
小泉は、防衛大臣を呼んだ。
「自衛隊の警戒レベルは維持です。むしろ上げてもいい。東シナ海は静かになったが、これは台風の目に入っただけだ。次に来る風は、もっと強い」
「了解。……総理、一つよろしいか」
小林が、珍しく躊躇いがちに切り出した。
「もし、インドかパキスタンが、核のボタンを押したら……我々はどう動くべきなのか。被爆国として非難声明を出す、そんなレベルの話では済まない。放射性物質は偏西風に乗ってやってくる。経済は死ぬ、難民は押し寄せる」
小泉は目を閉じた。
瞼の裏に、父の顔が浮かんだ。そして、かつて自分が抱いた、理想に燃える政治家の姿も。
だがそれらは今、何の役にも立たない。
過去は、過去でしかない。
「その時は」
小泉は目を開けた。その瞳に輝きはなく、修羅場をくぐり抜けた男の昏い光だけが宿っていた。
「日本国民の生存のみを考えます。なりふり構わず、です。たとえ世界から孤立しようとも、我々は生き残らなければならない……」
地下危機管理センターの巨大モニターには、依然として世界中の火種が赤く点滅している。
その光は、まるで人類の命運を刻むカウントダウンのようにも見えた。
2033年11月4日。
世界が最も長い一日を終えようとしている時、インド洋上の米海軍第5艦隊が、パキスタン沖に向けて巡航ミサイル発射態勢に入ったという情報が入った。
核発射を阻止するための、先制攻撃。
それは、賭けだった。
吉と出るか、凶と出るか。
賽は投げられたまま、いまだ絶望の回転を止めていない。
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