WW3 Simulation
うさみみハリケーン
第1話
西暦2033年、6月29日。
パキスタン・イスラム共和国、パンジャブ州北部より、一基の飛翔体が発射された。
アメリカ宇宙軍および日本の防衛省早期警戒衛星は、発射から12秒後に高熱源体を検知。弾道ミサイルと断定された。着弾予測地点はインド共和国、ニューデリー近郊。
世界はこの瞬間、完全に静止した。
外交ルートによる事前通告は皆無。カシミール地方における局地的な武力衝突が、開戦への閾値を超えた瞬間であった。
★★★★★★
東京都・永田町。内閣総理大臣官邸。
地下危機管理センターの空気は、換気フィルターを通した
「………撃った、か」
重苦しい沈黙を破ったのは、漆黒の円卓の中央に座る男だった。
白髪が増え、かつて若きプリンスと呼ばれた面影は、深く刻まれた皺と眼光の鋭さに取って代わられている。
小泉内閣総理大臣。かつては防衛大臣として安全保障の現場を
「残念ながら。衛星データ、及び同盟国からの情報を統合すると、パキスタンが発射したのはガウリ、あるいはその派生型の中距離弾道ミサイル。核弾頭の搭載については未確認ですが、状況から見てその可能性は排除できない」
小泉の右隣の席で、タブレットを操作しながら冷静に報告する小林防衛大臣。
過去には二度三度と小泉と総理の座を争うこともあったが、現在では王佐がひとりとして、変転する東アジアを始めとする世界情勢への対処に勤しむ日々を送っていた。
「インドの反応は?」
小泉が短く問う。答えたのは、左隣に座る茂木副総理兼外務大臣だった。
「聞くまでもないだろう。モディの後継であるあの男が、頬を叩かれて黙っているわけがない……ああ、ほら」
茂木が顎で、薄く青みがかったモニターをしゃくる。
地図上のインド側から、無数の青い光が放たれる。それはまるで、蜂の巣をつついた後に溢れ出す憤怒の大群のようだった。
インド空軍、及びミサイル部隊による報復攻撃が開始された。目標はパキスタン全土の軍事施設、及び主要都市。
その規模は "報復" を超え、まさに "殲滅" の域にある飽和攻撃であった。
「馬鹿げてる……」
部屋の隅で腕を組んでいた高市幹事長が、低く呻吟した。
以前は強硬派として鳴らし、それでいて不用意な発言も多かった彼女だが……年を経てその双肩に "責任" という重石が乗るにつれ、言行ともに慎重さを増していった。今では党の幹事長を務めている。
彼女の視線は、モニターの隅、中国とロシアの動きに釘付けになっていた。
「これは、ただの地域紛争では済まない。中国が動く。必ず」
高市の予測は、半分は正しかった。
しかし実際は、中国以外───ロシアやバングラデシュといった国々も、大きな動きを見せることとなる。
★★★★★★
インドの猛攻に対し、パキスタン政府は即座に同盟国へ支援を要請。
中国政府は「同盟国への不当な侵略行為」としてインドを強く非難。同時に、中印国境地帯へ人民解放軍の装甲師団の展開を開始。
これに呼応するように、近年は中国との関係が深まり、20年代のようにインドと良好な外交関係を築けていないロシア連邦も、中央アジアでの軍事演習を名目に南下政策を強化。
バングラデシュ、ネパールといった周辺中小国は、地理的・経済的な従属関係から、否応なしにこの巨大な災禍へと巻き込まれていく。
それに従って、主要関連国の経済指標は徹底的なまでに崩壊。ムンバイ、カラチの証券取引所は取引停止。原油価格は数分単位で高騰を続け、インドという超大国の経済動乱によって、世界経済の血管は激しい収縮を始めた。
「総理、ハリス大統領と繋がりました」
秘書官の声。小泉は一度深く息を吐き、受話器を取った。
「カマラ………ああ、見ている。最悪のシナリオだ」
回線の向こう側、ホワイトハウスの執務室にいるカマラ・ハリス大統領の声は、努めて冷静を装っていたが、その背景にある混乱は隠しきれていなかった。
『シンジロー、状況は極めて流動的よ。インドの軍部は制御不能。パキスタンも、もはや自暴自棄に近いわ。我々はインド洋艦隊をペルシャ湾側へ退避させている』
「退避? 介入ではなくか?」
『議会が割れているの。共和も民主も、皆動転している。それに何より、中国の動きが不気味すぎる。台湾海峡と南シナ海で、同時に大規模な演習を開始したわ。これが何を意味するか、あなたなら分かるんじゃない?』
小泉は視線を再びモニターへ戻した。
インドとパキスタンが燃えているスキに、紅き伏龍が身じろぎをしている。
「……陽動、あるいは便乗か」
『両方よ。あの男は、この混乱を "好機" と捉えている。日本もターゲットに入っているわよ。シンジロー、くれぐれも挑発に乗らないで』
通話が切れる。
それと同時に、小林防衛相が鋭い声でリアルタイムの報告を上げる。
「総理。尖閣諸島周辺海域にて、中国海警局の船艇が領海を侵入……いや、数が違う。これは通常のパトロールではない。後方にフリゲート艦を確認。さらに南西諸島全域に向けて、中国本土から電子戦攻撃と思われるジャミングが発生している」
間もなくして、中華人民共和国の国家主席は、北京での緊急会見にて声明を発表。
《アジアの平和を乱すインドの暴挙を許さない。また、インドを後方支援する可能性のある勢力に対し、断固たる措置を取る────》
名指しこそ避けたものの、それが日米豪印戦略対話のメンバーである日本を含めた西印側東アジア国家への牽制であることは明白だった。
「『断固たる措置』だと? よくもまあ平然と言えたもんだ」
茂木外相が、不愉快そうにペンを指先で回す。続けて城内副外相が焦り気味に口走る。
「奴らの気の違った論理曰く、インドに対する最大の要衝国にして同盟国、パキスタンへの攻撃は中国への挑戦と同義。そして債務融通と国交の両軸でインドと親密な日本もまた、排除すべき敵というわけだ。総理、外務省としては抗議声明を出すが、それだけでは足りない。相手は聞く耳を持っていない!」
「分かっています」
小泉は立ち上がった。上着のボタンを留め、黒染めの大円卓を見渡す。
かつて、父がそうであったように。あるいは自身が若き日にそう演じていたように、直感的な言葉で空気を変える必要があった。
だが今の彼にあるのは、演出されたカリスマではなく、積み上げた経験則による決断だった。
「小林大臣、自衛隊の警戒レベルを最大まで引き上げてください。ただしこちらからの発砲は厳禁です。専守防衛の枠を一ミリも出てはいけない」
「了解したが、しかし、相手がボーダーラインを越えてきた場合は?」
小林の問いに、小泉は即答しなかった。
一瞬の間。その数秒に、数十万、数百万の命の重さがのしかかる。
「……その時は
小泉の言葉に、小林は短く頷いた。
元農相の鈴木大臣が、不安げに口を開く。
「総理、党内や野党は我々がまとめましょう。けれど、国民への説明はどうしましょう? パキスタンとインドの争闘が、なぜ日本の危機に直結するのか。馬鹿ばかりの日本世論は、すぐには理解しませんよ」
「ひたすら、事実を話すしかない……世界は繋がっている。悪い意味で」
小泉は、モニター上の日本列島を見つめた。
赤い領域が、東シナ海を塗りつぶそうとしている。
★★★★★★
東京株式市場、大暴落によりサーキットブレイカー発動。物流網の混乱を見越し、一都三県のスーパーマーケットから食料品が消え始めた。
XやReddit、4chan、5ちゃんねるなどでは「第三次世界大戦」「核戦争」「徴兵」といったワードがトレンドや掲示板を埋め尽くし、デマと真実が混ざり合っては拡散されていく。
重奏的な連鎖は止まらない。
ひとびとの感情的な叫びを燃料にして、ファンクションとしての "戦争" が、その巨大な歯車を回し始める。
小泉は、自身の震える手を強く握りしめた。
老いによる震えではない。武者震いでもない。
これは、これから始まる過酷な試練への、生理的な拒絶反応だった。
「茂木さん、小林さん。腹を括りましょう」
小泉の声は、少し裏返っていた。これが日本国の総理大臣を務めている男の声とは、到底思えなかった。
「これは……シミュレーションじゃないんです。我々の世代が先送りにしてきたツケを、払う時が来たんです」
モニターの中で、新たな光が灯る。
中東諸国やISIS等の過激組織が、パキスタン支援を表明。欧州連合が緊急理事会を招集。
そして北朝鮮が沈黙を保ったまま、ミサイル発射準備態勢に入ったという情報が、静かに流れてきた。
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