FIREを目指す男
@oka2258
第1話
中倉龍司の最初の記憶は幼稚園に上がる直前の3歳の時。
「今日から幼稚園に行くから、早く起きなさい」
という母親の言葉に、暖かい布団でまどろんでいた龍司は驚き、聞き返した。
「幼稚園を卒業すると、またゆっくりお布団で寝られるの?」
「うーん、幼稚園の後は小学校、それから中学校、高校、大学行って、会社にお勤めするのよ。
毎日のんびりと寝てられるのはおじいさんになってからね」
その言葉は龍司に大きなショックを与えた。
おじいさんになるまで布団でゆっくり寝ていられないなんて!
「僕はもっと早くお布団で寝たい」
その言葉に母は笑って答えた。
「そうね、お金持ちになれば早く仕事をやめて寝ていられるかもね」
そうか、
お金持ちになればいいんだ
龍司の人生方針を決めた一言だった。
それから龍司はどうすれば金持ちになれるかをひたすら考えた。
どうやらいい大学に入っていい会社に就職するのが良さそうだ。
自分で会社を作る手段もあるが、起業して成功するのは10に一つも無い。
龍司の目標は一生食べるに困らない金を貯めて寝て暮らすことであり、失敗の可能性の高いギャンブルをするつもりはなかった。
学生時代、友達と遊ぶのもほどほどにして、ガリ勉と言われながらも、彼はトップ大学に入学することができた。
そこで彼は本格的に考え始める。
FIRE(経済的自立と早期リタイア)という言葉を知ったのも大学時代だ。
龍司は裕福な家庭の子であり、貧しい暮らしをすることには耐えられないし、一生人並み以上の生活レベルは維持したい。
すると、少なくとも3億円は確保しておきたい。
サラリーマンの生涯年収は3億円と言われる。
いくら一流企業に勤めてもそうそう簡単に貯められる額ではない。
(うーん、目標は10年くらい働いてリタイアしたいが、まともに働いても到底無理だな。
ならば捕まらないようにしながら非合法の手段も視野に入れなければ)
龍司は大学でもしっかり勉強して好成績を収めつつ、就職受けしそうな体育会の活動も行い、どこの企業にでも行けるようにする。
そして彼が選んだ会社は最近急成長を遂げているワンマン社長の率いる新興企業であった。
(新興企業でワンマン社長ならば管理体制が緩そうだ。
中に入って金を持ち逃げする機会を伺おう)
会社から大金を奪うにはまずは信用を得て中枢に入り込まなければならない。
龍司はやむを得ず残業や休日出勤を厭わずに業績を上げた。
(人生とは死神から前借りしたもの。
睡眠とはその利息払いであり、睡眠を増やせば増やすほど長生きできる。
それをモットーとしている僕が睡眠時間を削ってまで働かされるとは。
この貸しは高くつくぞ!)
龍司は将来のFIREを楽しみに懸命に働くが、その程度ではライバルはいくらでもいた。
有望な企業と見られているこの会社は優秀な社員が多く集まっている。
(やむを得ない。
虎穴に入らずんば虎児を得ず)
出世するために、龍司はいわゆる犯罪地帯の担当を申し出た。
出所は定かではないが、そこでは
儲けの可能性は高いがリスクも高い。
現にやり手の前任者は業績を上げたが、何者かに射殺され、犯人は不明のまま。
そこを希望する社員は少なく、現任者はさわらぬ神に祟りなしとばかりに何も新しい仕事をしていない。
希望を認められた龍司は赴任地ですぐに動いた。
法のスレスレで命を張って犯罪組織のようなグループと取引し、会社に多大な利益を貢献した。
権益を荒らされた組織は激怒し、龍司は家を襲われた。
そこには稼いだ金が金庫に蓄えられており、組織は龍司の抹殺と金の強奪を目論んでいた。
襲撃を予想していた龍司は雇っていたガードマンとともに防戦に努め、軽くないケガをしながら、なんとか撃退することができた。
彼の入院する病院に社長自ら見舞いに来る。
「中倉、会社の金をよくぞ守った!
貴様は今年の我が社のMVPだ!」
そう言って彼の手を握る。
退院後、社長は龍司の働きを全社員の前で讃えて、表彰する。
特別ボーナスと特別昇進である。
それほど龍司の上げた利益は大きかった。
マネーローリングに加担し、犯罪の金を表に出せる金にしてやり、高額の手数料をとる。
表向きには合法的なビジネスであり、会社は何も知らないことになっている。
いざとなれば泥は全て龍司が被るというリスクも含めて、社長は龍司を高く評価した。
これで一躍龍司は会社中枢に入ることができた。
嫉妬、羨望、憧れ、様々な視線が龍司に降りかかる。
「中倉、会社のために命までかける必要はないぜ。
そんな社畜になってどうするんだ。
馬鹿かお前は」
そう忠告する同期もいたが、龍司は黙って聞き流す。
(一生を社畜にならないために、今こうしているとは思いもよらないだろうな)
内心そう嘲笑する。
社長のお気に入りとなった龍司のそれからの出世は目覚ましかった。
そして扱える金の額も跳ね上がり、同時に色々な情報も集まる。
(数億円を持ち逃げして、外国の田舎で暮らせばいいかと思っていたが、そう簡単ではなさそうだ。
会社や警察の追及は甘いものではない。
まして会社の機密を知ってしまっているんだ。
逃げ切るには万全の準備が必要だ)
龍司はどうやって逃げ切れるかを考えると、個人では難しそうだった。
しかし、組織の手を借りるとそのための謝礼の額は相当なものとなる。
龍司は奪う金を十億円以上に引き上げた。
そのためには会社の地位を更に上げねばならない。
龍司は睡眠時間を削り、働き、勉強し、各方面との情報収集に務めた。
順調に業績を伸ばす龍司は出世街道を爆進する。
若手で初の重役となった龍司に近づいてくる女は多かったが、彼は相手にしなかった。
(一生がかかっているこの段階で女に時間を取られることは許されない。
女などFIRE後にいくらでも手に入る)
ライバルが結婚し、仕事に集中できなくなる中、龍司はひたすらに仕事と睡眠に時間を充てた。
ある日、龍司は社長に夕食にと自宅に招かれる。
そこでは見知らぬ若い女性も同席していた。
「わしの娘の由莉という。
アメリカのH大学に留学していた。今は秘書室長としてわしの補佐をしている。
お前に興味を持って一度会いたいというので来てもらった」
由莉は社長に溺愛されており、その夫が次期社長と言われている。
「なるほど。
才色兼備のお嬢様ですね。
夫となる方が羨ましい」
高嶺の花として、自分には関係ないとばかりに龍司は淡々という。
由莉はキツめの美人だったが、龍司にとっては厄介な物件そのものだ。
関心なさそうな龍司の言葉に由莉はチラリとこちらを向いた。
その会食後、会社には龍司が社長の女婿になるという噂が広まった。
それを聞いて心穏やかでなかったのは、社長の一族であり、これまで由莉の結婚相手で後継者と目されてきた田宮大樹である。
「はあ!
あんな成り上がりの男は由莉に似合わない。
社長の一族である俺しか相手はいないだろう」
大樹は決して無能ではなかったが、龍司の業績は異常すぎた。
これまでちやほやしていた取り巻きも離れていくような気がする。
大樹は何か大きな成果をあげなければと焦っていた。
そんな大樹の様子を見ていた龍司は一つのアイデアを思いつく。
龍司はまだ付き合いのある犯罪組織と連絡を取った。
大樹がある晩一人でバーで飲んでいると、隣の男の腕が当たり、酒が溢れた。
「すいません。
ここは奢らせてください」
その同年代の男は話が面白く、大樹は愉快な夜を過ごした。
連絡先を交換して、大樹はその男と友人となった。
八田というその男は不動産屋と名乗り、羽振りよく奢ってくれた。
何ヶ月か、ゴルフや飲食などを共にし、すっかり気を許した大樹は競争相手に打ち勝ちたいという悩みを話した。
真剣に大樹の悩みを聞いた八田は、一つの提案をする。
それは龍司が担当しているが、難航している事業に関する用地のことだった。
都心の一等地に予定しているその事業には社運がかかっており、それに成功すれば龍司は更に出世すると言われている。
しかし、重役会議で龍司は所有者の同意が得られずに困っていることを話し、社長の機嫌を損ねていた。
「そこの土地の有力者とは話ができる。
ダチの為だ。
格安で引き受けてやるよ。
そうすればその中倉というライバルの仕事を奪うことができるんじゃないか」
「ありがとう!
そうしてくれればあの男を蹴落とすことができる。
ぜひ頼む」
大樹は八田の手を握った。
それから話はとんとん拍子に進んだ。
龍司がいくら話に行っても、ここは手放さないと言っていた所有者の老人が、その有力者の口利きですぐに首を縦に振ったと言う。
半信半疑の大樹は本人に会い、土地の売却の確約をとって、話を信じた。
「はっはっは
これで中倉は終わりだ。
由莉と社長の座は俺のものだ」
高笑いした大樹は重役会議で勢いよく発言した。
「中倉ができなかった用地買収は俺が話をつけました。
中倉、お前こんなこともできなかったのか。
無能が!やめちまえ!」
龍司は俯き、申し訳ありませんと謝った。
気分を良くした大樹は、社長に説明し、契約を了承させた。
「大樹、よくやった。
さすがはうちの一族だ!」
社長も目をかけていた親族の活躍が嬉しそうにはしゃいでいた。
契約は賑々しく行われた。
先方は所有者の老人の他に親族の男達や弁護士、司法書士などたくさんの人数がついていた。
会社からは社長と大樹、担当課長、由莉に顧問弁護士が出席する。
お互いの弁護士が契約書を確認し、その場で判を押す。
都心の超一等地だけあり、金額は20億円と破格である。
翌日、金を振り込み、会社名義となった登記簿謄本が取られた。
その晩の祝賀会では大樹が持ち上げられ、次期社長だと散々に煽てられる。
大樹は、沈んだ顔をしていた龍司の近くに行き、大声で話しかけた。
「優秀とか言われていたようだが、化けの皮が剥がれたな。お前はこれまで単にラッキーだっただけだ」
そしてグラスのビールを龍司の頭の上から浴びせ、「負け犬が失せろ!」と言い放った。
それを見ていた社長以下の重役や社員もそれを笑って眺めていた。
龍司はハンカチで顔を拭うと、「失礼します」とだけ言って部屋を出た。
由莉は部屋の片隅で冷ややかにその様子を眺めていた。
それから一ヶ月後、工事に着工する為、その場所に建つ家屋を壊そうとした担当者は、住民である老人から猛烈な抗議を受ける。
「わしの家に何をする!」
仰天した担当者は買収済みであることを説明するが、老人はそんな話は聞いたことがないと怒鳴りつけた。
驚いた担当者から連絡を受けた大樹が現場に赴くと、その老人は、以前所有者と名乗る老人と似てはいるが、別人であった。
大樹は担当者に口止めし、密かに専門家に見せると、契約に係る相手方の書類はすべて精巧な偽物であることが判明した。
(所有者の自宅に赴いたり、専門家に見せて確認すべきだったか)
写真に似ていたこと、そして大掛かりな相手の陣容にすっかり信じ込んでしまった。
大樹はすぐに話を持ち込んだ八田に連絡した。
「おい、お前の紹介してくれた相手は偽物で、この契約は詐欺だったぞ!」
「そんな馬鹿な!
まずは話し合おう。
証拠を持って人目のつかないY港の隅まで来てくれ」
大樹は慌てて車に乗り込んで目的地に向かった。
なんとしてもこの話が漏れる前に収拾しなくてはならない。
Y港に到着すると、そこには八田だけでなく、何人かの男と更に龍司までいた。
「なんだお前達は?中倉が何故いる?
八田、どういうことだ!」
「なに、お前はここで死ぬのさ」
八田は拳銃を出してあっさりと大樹を撃ち殺した。
そして、大樹の服を脱がせて似た体型の男に着せる。
「よし、お前はここから船に乗って手筈通りにしろ」
八田の指示で去っていく男は傍目から見れば大樹にしか見えなかった。
「中倉さん、アンタの描いた絵の通りになったな。
金は引き出せたのか?」
八田は龍司を見ながら低い声で尋ねた。
「ああ、土地の代金で架空口座に振り込まれた金は、それから全額を田宮大樹の名義に入れ直している。
これで奴が横領したと信じるだろう。
そしてそれを更にネットで買った口座に振り込み、その後に引き出している。
田宮の阿呆が社内で銀行振込などをやっているから暗証番号は監視カメラで筒抜けだ。
あとはシナリオ通りに、田宮が金を持ち逃げしようとここまで逃げてきたところを、不正に気がついた僕が追いかけた。
そしてここで田宮に返り討ちにあって殺されたように偽装を頼む。
そうすれば誰も僕のことは追わずに、偽装した田宮が追跡を受ける。
適当なところで、田宮の偽物が殺されたふりをして、犯人死亡で一件落着。
さて、約束の金を渡そう」
「かなり面倒な仕事だが、それで10億円が手に入るなら仕方ないな。
それとアンタを整形させて、安全地帯に逃すことだな」
「そうだ。
あともう少しで完成だ」
(そう、もう少しで夢のFIRE生活だ。
さすがに10億円あれば一生気楽に過ごせるだろう。
今35歳、目標の10年以内は無理だったが、許容範囲だ)
龍司が内心ほくそ笑んでいる時に、突然、光が照らされるとともに銃声が鳴り響き、隣にいた八田達が崩れ落ちた。
(なにが起こったんだ?
警察か?
しかし警察ならいきなりの射殺はないはず)
龍司は眩しさでなにも見えない中、必死で考える?
「中倉龍司、目標への執念、綿密な計画、粘り強い実行力。
満点をあげましょう」
美しい女の声が響いた。
ようやく眩しさに慣れた目で見ると、屈強な何人かの男と、由莉が見えた。
「何故ここにいる?」
大樹と同じことを龍司は叫んだ。
「ふふっ
あなたの驚いた顔を初めて見られて嬉しいわ。
狩人は獲物を追っている時が一番無防備。
いつも油断のないあなたも獲物に夢中だったようね。
見事に仕留めることができたわ」
「それでどうするんだ?
警察に突き出すのか。
もう僕は終わりだ。
好きにすればいい」
絶望したように呻く龍司の傍に来た由莉は彼に囁いた。
「せっかく見つけた伴侶をそんなことするわけないじゃない。
会社を詐欺にかけて大金を持ち逃げしようとした大樹をあなたが追いかけた。
そして、大樹は犯罪仲間と内紛でお互いに死に、あなたは会社の金を取り戻すことができた。
そう、あなたのストーリーを少しだけ変えれば、あなたは私を妻にして社長になることができるのよ」
「そんなことは僕は望んでいない」
「そのようね。
だけどあなたに選択肢はない。
まさか牢獄の方がいいとは言わないでしょう。
さあ、私と一緒に会社を経営し、幸せな家庭を築きましょう」
それからは由莉の独壇場だった。
警察や会社に連絡し、彼女のストーリーの通りに物事を動かした。
そして大樹の動きを止められなかった父の社長や重役を引き摺り下ろし、龍司を社長に、また、優秀な若手を登用した。
それからの龍司は寸暇を惜しんで会社の業績を上げるために働かされた。
大方針は由莉が決め、龍司はそれに従って営々と働いた。
龍司のこれまで培った能力をとことんまで使って、全精力をあげて会社に尽くす。
家に帰れば、由莉が待っていて、綺麗でピカピカの部屋で美食が用意され、暖かなベッドで必要な睡眠が取れる。
龍司の生活は完全に管理されていた。
(僕の能力を引き出すために、理想的な食や睡眠のプランが立てられている。
だが、僕はダラダラと惰眠を貪ることだけを楽しみにしてきたのに)
龍司の思いとは裏腹に会社はどんどんと大きくなり、社長である龍司は会社経営のみならず、財界活動や政治にまで意見を求められる立場となる。
分単位のスケジュールを妻の由莉が管理し、無駄な時間などは作らせない。
龍司は政財界でますますその地位を向上させていった。
喜寿を迎えた龍司は社長職を息子に譲るも、会長として君臨し、国際的な政治経済にも大きな影響力を持つ人物と崇められていた。
今日は世界的に権威のある雑誌からインタビューを受けている。
「一介の社員からここまで上りつめられた秘訣を教えてください」
「それは力尽きるまで働き、成功しなければならないという強い意志を持つことだ。
そしてそれは誰かに強制されるように感じなければならない」
「ははあ、ウェーバーの唱えたカルビン派の教義ですか。
神の救済を得たと信じるために成功に向けて必死で努力するというのと同じですね。
龍司さんは神を信じられているのですか?」
「ああ、そう言っていいかな。
私にとって全知全能でどこでも私のことを見逃してくれない存在がいたからこそ、ここまで成功できたのだ」
「神を信じて大成功を得たあなたは、すべてのビジネスパーソンから尊敬され、羨ましがられています。
金、名誉、美しく貞淑な妻、賢く親孝行な子供達。
およそ人の欲しがるものをすべて手に入れられた。
これほど幸せな人は見たことがない」
その賛辞を聞いた龍司は泣き笑いのような顔を浮かべ、聞き取れないような声で何かを言った。
その言葉は、「僕はそんなものを望んではいなかった」と聞こえたが、インタビュアーは空耳としてその言葉を払いのけ、いい記事ができそうですと言って去る。
残された龍司には老いても美しい妻の由莉が近づいてきて、次の予定を告げた。
龍司は肩を落とし、「いつになれば解放してくれるのだ」と空に呟いた。
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