第1話 朝のこっそりルーティン

 午前8時28分。

 始業の2分前。


佐伯ゆかりは、いつものように静かにオフィスのドアを押し開けた。

まだ朝の光が窓から斜めに差し込み、フロア全体を淡い金色に染めている。総務部の広い部屋には、すでに数人の社員が席に着き、キーボードを叩く軽快な音が小さな波のように広がっていた。紙をめくる音や、マグカップを机に置く乾いた響きが混じり合い、朝独特の落ち着いたざわめきをつくり出している。


ゆかりは足を止め、入り口でそっと背筋を伸ばした。

――まずは、おはようの深呼吸。

胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その瞬間、外から持ち込んだ慌ただしさや小さな緊張が、まるで霧が晴れるように消えていく。呼吸ひとつで、心の中に静かな余白が生まれるのだ。


自分の席へ歩み寄ると、机の上には昨日の書類が整然と積まれ、ペン立ての影が朝の光に長く伸びていた。椅子に腰を下ろし、ゆかりは引き出しの奥にしまってある小さな箱を取り出す。

それは“今日の幸せボックス”と名付けた、彼女だけの小さな習慣。蓋を開けると、白いラムネがひと粒、掌に転がり出る。丸くて軽いその存在を見つめると、自然に口元が緩み、微笑みがこぼれる。


外の世界では、電話のベルが鳴り、コピー機が動き始め、日常のリズムが刻まれていく。けれど、ゆかりにとってはこの小さなラムネこそが、一日の始まりを告げる合図だった。甘さを思い浮かべるだけで、今日もきっと乗り越えられる――そんな確信が胸の奥に静かに灯る。


 ――これで今日もたぶん大丈夫。


 こっそり口に含んだ瞬間。


 「佐伯さん、おはようございます」


 声の主は、田島颯太。

 ふわっとした髪と、素直さがそのまま顔に出ている後輩だ。


 「あ、おはよう、田島くん」


 「今日は、あ……その、晴れますね。天気」


 「ふふ。うん、晴れそうだね」


 会話の内容はいつもシンプルなのに、田島くんは毎朝ちょっと緊張している。

 控えめに話しかけてくるその空気が、ゆかりにはかわいらしい。


 田島くんが自分の席に戻ると、そっと机の下で“ラムネの包み”を確認した。

 ――昨日まであったはずの残り2粒が、3粒に増えている。


 (……今日も、こっそり足してくれたんだ)


 “謎の補充者”はおそらく田島くんだと、ゆかりも薄々気づいている。

 でも気づかないふりをするのが、この会社の“やさしさの流儀”だ。


 そんなほのぼのムードの中――


 「おはよう」


 低い声がして見上げると、総務部長の三木部長が通りすぎていく。

 朝は寡黙だが、そのぶん声に温度がある。


 「おはようございます、部長」


 すると部長はなぜか一度立ち止まり、ゆかりのデスクの上をチラッと見る。


 視線の先には、**誰にも見られていないと思って置いた“ちいさな猫の付箋”**。


 (……わ、バレた?)


 すると、部長は小さく咳払いして短く言った。


 「猫……かわいいな」


 そのまま無言で自席へ向かった。


 ――やさしすぎる。


 こっそり文化は、実は部署全体で密かに共有されているのだ。


---


「佐伯さん」


 声をかけてきたのは、新人の今井桃音。

 今日も元気に、目をキラキラさせている。


 「この書類、確認お願いしてもいいですか? えっと、すごく自信はあるんですけど、でも不安で、でも大丈夫だったら嬉しいっていうか……」


 桃音ちゃんはいつも通り、言いたいことが一度に全部出てくるタイプ。


 「ゆっくりで大丈夫だよ。見せて?」


 「はいっ!」


 渡された書類を確認すると、ほとんど完璧。

 ただ、付箋に描かれた「がんばれうさぎ」の落書きだけは仕事に関係なかった。


 「かわいいね、このうさぎ」


 「あっ……! 見ないでください〜っ恥ずかしい〜!」


 顔を真っ赤にして慌てる桃音ちゃんに、ゆかりは思わず笑った。


 ――この職場、今日も平和だ。


---


午後になり、メール対応を終えて一息ついたところで、

ピコン、とゆかりのパソコンに通知が届く。


 **From:黒崎翼(情報システム)

 Subject:Excelファイルについて**


 (えっ……まさか……)


 ひやりとした心を落ち着けながらメールを読む。


 《佐伯さんのExcel。オブジェクトの配置が綺麗なのと関数の使い方が面白かったです。

 あれ、ゲームですよね? バグってたので直しておきました。

 ※誰にも言わないので安心してください》


 ゆかりは椅子の背にもたれてそっと天井を見上げた。


 ――ついに……見つかった……!!


 でも、

 でも、

 でも――


 (黙っててくれるんだ……)


 心の中でそっと両手を合わせる。


 黒崎さんは相変わらず無口だけれど、こういうところがやさしい。

 人の“こっそり”を尊重してくれるタイプなのだ。


---


 夕方。

 総務部が少しずつ静かになっていく頃。


 田島くんがゆかりの席に近づき、そっと声を潜めて言った。


 「あの……今日、帰り……駅まで、一緒に帰りませんか?」


 「え?」


 予想外の誘いに、ゆかりは瞬きをする。


 「い、いや、無理なら全然! その、迷惑でなければ、で……」


 (……かわいい)


 断る理由もないし、断りたくもない。


 「うん。いいよ、田島くん」


 その言葉を聞いた瞬間、

 田島くんの顔が“花が咲くみたいに”明るくなった。


 ゆかりは、その表情を見て思う。


 ――今日の“ミニ幸せ”は、もうひとつ増えたみたい。

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次の更新予定

2025年12月19日 13:00
2025年12月20日 13:00

OL佐伯さんのこっそり幸福論 aiko3 @aiko3

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