【掌編小説】 風文(かぜふみ)

刀根キミ

風文

わたしは山で、何度も死者の声を聞いてきた。

もちろん、生きている人間の耳に届くはずのない声だ。


人はそれを「風文」と呼ぶ。

雪山で命を落とした者が、最期の想いを風に託し、残された誰かへ届ける伝説とも噂ともつかない話だ。



わたしは長く山岳救助に携わってきた。

吹雪の中で名を呼び、冷たい雪をかき分け、かすかな温もりを探し続ける仕事だ。

だが、そのすべてが報われるわけじゃない。


あの冬も、そうだった。


若い単独登山者が消息を絶った。

私たちは一週間にわたり、吹雪の斜面を登り、谷を覗き込み、声が枯れるまで彼を呼んだ。

だが、発見には至らなかった。

捜索は打ち切られ、山は再び静けさを取り戻した。


最後の夜、風は止み、雪は音もなく降り積もっていた。

その沈黙の中で、ふいに耳の奥が震えた。


(ごめん。春には帰る)


幻聴だと思えたなら、どれだけ楽だっただろう。

だが、なぜかそうは思えなかった。

その声が、あの若者のものだと、理屈抜きでわかってしまったのだ。


わたしはそのとき、確かに「風文」を受け取った。




同じ夜、それはひとりの母の元にも届いていた。



雪に覆われた庭先で、ふと風が渦を巻き、白い光がきらめく。

その奥に、凛とした眼差しの雪様が立っていた。

近づけば淡くぼやけ、遠のけば不思議なほど鮮明に結ばれる姿。


その足元では、仔兎が無邪気に跳ね回り、ひとひらの雪片をくわえている。


仔兎は母の前に小さく跳ね、その雪片を差し出した。

母が両手で受け取った瞬間、耳の奥で声が鳴った。


(ごめん。春には帰る)


胸の奥が引き裂かれるような痛みに、母は膝をついた。

それでも、絶望に沈みきることはなかった。


雪様は何も語らない。

ただそこに在るという気配だけで、母の背に静かに寄り添っていた。


母は、それを息子の夢だと思ったのかもしれない。

あるいは、雪が見せた幻だったのかもしれない。


仔兎は雪の上を軽やかに舞い、母の足元を一巡りする。

その動きにつられるように、母の呼吸は少しずつ整っていった。


やがて彼女は目を閉じ、雪と光とともに、息子の想いを受け入れた。




母は小さな祠を作った。

雪兎をまつり、熊笹に胡桃の殻を置き、団子と酒をそっと供える。

そこは、失われた命と祈り、そして母の複雑な感情が交差する場所。



冬の終わり、雪解けとともに、若者の遺体は山から戻された。

それは、静かな葬送だった。



風文。

少なくとも、あの冬の山では

それは、確かに存在していた。

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【掌編小説】 風文(かぜふみ) 刀根キミ @tone-kimi

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