第二部:堕落する神と、癒やされる社畜

神様との同居生活が始まって、一週間が経過した。俺の生活は劇的に変化した——とは言い難い。相変わらずデスマーチは続いているし、上司の無茶振りも健在だ。


劇的に変化したのは、俺の銀行口座の残高と、タブレットのバッテリー消費量である。


「魔石が尽きたぞ。至急、奉納せよ」


日曜日の昼下がり。俺が泥のように眠っている横で、白兼がタブレットを突きつけてきた。画面には、人気ソーシャルゲームのガチャ画面が表示されている。


「……白兼様、先週一万円分奉納したばかりですよね?」


「たわけ! 期間限定の水着SSRが排出されぬのだ! これは由々しき事態ぞ。我の神通力をもってしても、物欲センサーという邪神には勝てぬらしい」


「邪神って言うな。それはただの確率だ」


俺は布団から這い出し、重い頭を振った。


この一週間で、白兼は驚くべき適応能力を見せた。テレビのリモコン操作を三分でマスターし、半日でネットスラングを覚え、三日でガチャの沼に沈んだ。


平安貴族のような格好で、クッションに寝そべりながらタブレットを連打する姿は、現代社会の縮図とも言える堕落ぶりだ。


「大体、神様が水着の美少女欲しがってどうするんですか」


「美しいものを愛でるのは神の嗜みじゃ。それに、このログインボーナスというシステム、素晴らしいな。ただ生きているだけで褒美がもらえるとは」


その言葉に、俺の手が止まる。


生きているだけで褒められる。確かに、そんなシステムが社会にあれば、俺たちはもっと楽に生きられるのかもしれない。


「……一回だけですよ。今月ピンチなんだから」


「うむ! その信仰心、しかと受け取った!」


俺が指紋認証で決済を済ませると、白兼は歓声を上げて画面に見入った。


その無邪気な笑顔を見ていると、数千円の出費もまあいいか、と思えてしまうから不思議だ。俺はいつの間にか、この小さな同居人に餌付け——いや、手懐けられているのかもしれない。


その週の半ば、プロジェクト最大の山場であるシステム移行作業があった。三十時間連続勤務を終え、俺がアパートに帰り着いたのは、空が白み始めた頃だった。


体は鉛のように重く、思考は停止寸前。いつもの俺なら、コンビニで適当な酒を買って煽り、気絶するように眠るだけの夜明けだ。真っ暗で、寒くて、誰もいない部屋に帰るだけの。


だが、今日は違った。


鍵を開けると、廊下の電気がついていた。部屋の中から、いい匂いが漂ってくる。出汁の匂いだ。


「……ただいま」


無意識に呟くと、奥からドタドタと足音が聞こえ、白兼が顔を出した。狩衣の袖をまくり上げ、なぜか俺のエプロンをつけている。


「遅いぞ、社畜」


「そんな言葉どこで……というか、起きてたんですね」


「腹が減って目が覚めたのだ。ついでに、貴様の買い置きしていたうどんなるものを作ってみた」


部屋に入ると、ちゃぶ台の上には湯気の立つ鍋焼きうどんが置かれていた。具材は冷蔵庫の余り物——ちくわと卵、そしてネギが不格好に切られて乗っている。


「毒見は済ませた。食える味だ」


「……神様が作った飯とか、色々問題がありそうですけど」


俺はスーツのまま座り込み、箸を取った。


一口啜る。インスタントの出汁の味だ。麺も少し伸びている。けれど、温かさが胃の腑に染み渡って、強張っていた体の芯が解けていくようだった。


「どうじゃ」


「……美味い」


「そうか。ならば良し」


白兼は満足げに頷き、自分用の茶碗によそったうどんを啜り始めた。ズルズルと麺をすする音だけが、静かな部屋に響く。ふと、白兼が箸を止めて俺を見た。


「人間はなぜ、そこまでして働く?」


唐突な問いだった。


「体を壊し、心をすり減らし、それでも動く。我には理解できぬ。そこまでして守るべき義理が、仕事とやらにはあるのか?」


俺は箸を止めた。


なぜ働くのか。金のため、生活のため。それは当然だ。でも、それだけじゃない気もする。


「……俺の作ってるシステム、病院の予約管理に使われてるんだ」


「病院?」


「ああ。もしこのシステムが止まったら、病気の人が診察を受けられなくなったり、手術が遅れたりするかもしれない。顔も知らない誰かだけど、俺が頑張れば、その人たちが困らずに済む」


今まで誰にも言ったことのない言葉が、自然と口をついて出た。


白兼は、黄金色の瞳でじっと俺を見つめた。


「ふむ。……それは、我らと同じだな」


「同じ?」


「姿は見えねど、人々の安寧を支える。感謝されずとも、当たり前にそこにあるものを守る。……其方は良い神になれるぞ」


白兼はニヤリと笑い、俺の丼に自分のちくわを移した。


「褒美じゃ。食え」


俺は鼻の奥がツンとするのを感じ、慌ててうどんをかき込んだ。湯気のせいにして、滲んだ視界をごまかす。


誰かに認められたかったのかもしれない。「頑張っているな」と、ただそれだけを、言われたかったのかもしれない。


「……サンキュ、神様」


その夜、俺は久しぶりに悪夢を見ずに眠ることができた。


奇妙で穏やかな同居生活は、ずっと続くものだと思っていた。しかし、平穏は唐突に揺らぎ始める。


異変に気づいたのは、白兼と暮らし始めて二週間が経った頃だ。日曜の朝、テレビのニュース番組を見ていた俺の手が止まった。


『——次は、地域の話題です。××市にある白兼神社の周辺で、奇妙な現象が相次いでいます』


画面に映し出されたのは、俺の通勤ルートにあるあの神社だ。


しかし、見慣れた景色とは違っていた。境内の木々が季節外れの落葉らくようを起こし、枯れ木のようになっている。手水舎てみずやの水は濁り、カラスの大群が屋根を埋め尽くしていた。


『近隣住民からは、原因不明の体調不良や、電子機器の故障が多発しているとの報告も……』


「おい、白兼」


俺は振り返った。白兼はゲームに夢中で、ニュースには気づいていない。


「ん? なんじゃ、今いいところ……」


「これ、お前の神社じゃないか?」


俺が指差した画面を見て、白兼の動きがピタリと止まった。持っていたタブレットが、畳の上にコトリと落ちる。その顔から、血の気が引いていた。


「……まさか、これほど早く……」


「早くって、何が?」


「結界が、ほころんでおる」


白兼は震える声で呟いた。いつもの尊大な態度は消え失せ、そこにはただの怯える子どものような表情があった。


「主不在の社は、穢れを浄化できぬ。溜まった穢れが溢れ出し、周囲をむしばみ始めたのだ」


「それって……お前が帰らないと、もっと酷くなるってことか?」


白兼は答えなかった。ただ、膝の上で拳を強く握りしめている。


帰りたくない。その思いが痛いほど伝わってきた。だが、事態は俺たちの逡巡しゅんじゅんを待ってはくれなかった。


ドォォォォン!!


突如、激しい雷鳴が轟いた。空は快晴のはずだ。窓ガラスがビリビリと振動し、部屋の照明が一斉に明滅する。


俺と白兼が身をすくめると同時に、玄関のドアが、まるで爆発したかのように激しく叩かれた。


ダンダンダンダンッ!!


「白兼様!! 白兼様!! いらっしゃるのは分かっておりますぞ!!」


野太い、地響きのような声。白兼が「ひっ」と短い悲鳴を上げ、俺の背中に隠れた。


「き、来た……! 見つかった……!」


「誰だ!?」


「白蛇じゃ! 我が眷属にして、最強の守り手……あやつに見つかったら、もう終わりじゃあぁぁ!!」


平穏な有給休暇は、唐突な強制終了の危機を迎えていた。

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